「誰もが元気になる学校」を作りたい、あるいは「教育機会の平等」について

みなさん、こんにちは。ご無沙汰しております。いかがお過ごしでしたでしょうか。わたしは元気です。

というわけで、更新が止まってからもうすぐ丸6年ということのようですが、ひさしぶりに動かしてみます。ブログの書き方もすっかり忘れかけておりますが。

もう大昔に書いたものですが、私が教育の「現場」に関心をむけるようになったきっかけの書き物で、ありがたいことに今でもこのネタ(個別化個性化教育と「教育機会の平等」という課題)で話を聞かせてほしい、というリクエストをいただくことがあります。

morinaoto.hatenadiary.jp
morinaoto.hatenadiary.jp
morinaoto.hatenadiary.jp

掘り出してみたところ、ほんとはもっとエントリがありましたけれども、とてもじゃないですが、この歳であらためてアップできるような内容・文面のものではありませんでしたのでこの辺で許しといてください。

こういう問題意識は今でもずっと抱えていて、自分なりに考え続けているところのものでもあります。

この当時から、私のこのネタに関心をもっていただいていた本務校・人文社会系の別専門の先生から、ぜひうちの(ということは本務校人文社会系がもっている)Youtubeチャンネルで話してくれないか、と言われて1年前にお話ししたのがこちらの動画となります。
筑波大学人社チャンネル❗️ 第15回「誰もが元気になる学校」を作りたい(全編):森直人さんに聞く 教育社会学の視点から - YouTube

お話したのは、自分の研究キャリアの入り口から、このネタに足を踏み入れるまでの経緯だったように記憶しているのですが、その話に「「誰もが元気になる学校」を作りたい」というタイトルが付けられようとは(これはそのお誘いくださった先生のネーミングです)、よい意味でまったく予想だにしなかったことです。

そうか、おれは「誰もが元気になる学校」を作りたかったのか?

みたいな。

話した内容がこう受け止められるのか、という経験ができるのも異分野交流の面白い――そしておそらくは有意義な――ところです。私はこれは「教育機会の平等」をめぐる話だと思ってしゃべっています。ですが、なるほど、それはたしかに「「誰もが元気になる学校」を作りたい」ということなのかもしれません。

ただ今の私は、「教育機会」と「学校」とを等値にみなす判断自体が成り立ち、存続し、あるいは変容する、という事実そのものを(社会学的な)検討の対象とすべきだと考えています。一方で、「平等」を「誰もが元気になる」と言い換えているところなんかは、このタイトルを考えた先生のセンスの卓抜なところだと思います。「元気になる」というのがいい。well-being ですね。

このお話につながるベースとなるような論題を、全国の(あるいは他国在住の参加者もいるそうです)高校生と一緒に議論する夏休み限定企画、全国高校「探究」キャンプ in TSUKUBA ONLINE 202〇 というのがありまして、昨年2023のウェブサイトはもう削除されたのかな? でも今年も同じ内容――「「教育機会の平等」について考えよう」――で開講します。
sites.google.com

この企画の特徴的なところは、高校生(がメインの対象であるのは間違いないのですが)だけでなく、中学・高校の教員の方にも受講者として門戸を開いているところです。実際、昨年の私の開講ゼミ「「教育機会の平等」について考えよう」にも現職高校教員の方がいらっしゃいました。

どっかで見たことのある顔だけど、まあそういう人って世の中に7人はいるってゆうしねー、ぐらいのノリで進めていたら、突然、「あ、この人、まえに私の大学院ゼミを履修していた卒業生だ」って天啓が降りてきて、確認してみたら実際そうでした。

先にゆうてよ。

進学校からいわゆる進路多様校に異動したことをきっかけに、「教育機会の平等」の問題を考えざるを得なくなったと、それで受講していただいたそうな。

そういうのを期待しての開講でしたので、ありがたいことでした。高校生が自分以上に真剣にこの論題について考え、議論している姿に刺激を受けたとのことでした。よき。

今年も7月23日(火)まで募集中です。高校生も、高校・中学の先生も、元教え子の先生も、そうでない先生も、ふるってご参加ください。お待ちしております。