2011-01-01から1年間の記事一覧

「ミクロ計量経済学的手法による教育政策評価の研究」研究集会

さる12月17日(土)、慶應義塾大学の赤林英夫先生が研究代表であるところの平成23年度科学研究費補助金(基盤A)「ミクロ計量経済学的手法による教育政策評価の研究」の研究集会なるものが開催され、不肖わたくしもプログラム終了後の懇親会まで含めて参加す…

金沢せせらぎ通りにて: オヨヨ書林とひらみぱん

連投。今年のことは今年のうちに。某日、例によってプライベートの必要により夫婦2人で裏日本・百万石の街へ。拙ブログでも一度ご紹介した私の中学時代の友人が店長さんであるところのオヨヨ書林せせらぎ通り店なる古本屋におじゃまする。入ろうとすると複数…

私語する学生、居眠りする学生

学生の受講態度のだらけぶりに呆れ果ててしまって、もう大学で教鞭をとる気も失せるほどらしい(伝聞)。たしかに、講義中に私語する学生はいるし、居眠りしている学生もいる。後者は他の受講生の邪魔をしていないぶん前者に比べればどうということもないは…

比較教育社会史研究会2011年秋季例会プログラム

そもそもこのブログの立ち上げは、比較教育社会史研究会という研究ネットワークの勝手告知機能を担おうというのが重要な目的の一つであった。それから2年半以上、会そのものの立ち上げからは間もなく10年。会の性格も以前に比べれば徐々に変容しつつある。そ…

宮寺本書評会雑感、からの石浜西小・拡大現職全体会へのお誘い

先週土曜日には某研究会(通称:広田理論科研)で宮寺晃夫(編)『再検討 教育機会の平等』(岩波書店、2011年)の書評会があった。再検討 教育機会の平等作者: 宮寺晃夫出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2011/08/10メディア: 単行本(ソフトカバー)購入: …

計量・歴史・データ批判

(今日のエントリはここしばらく続いた一連のエントリ群の話題から少しそれて、研究者、それもごく一部の関心を共有する人にしか関係がない話です。書いておいてなんですが、ここに来られるそんなに多くはない皆さんのうちの多くの方にとっては読む時間的コ…

朝日新聞書評欄にのっかって

9月11日朝日新聞の書評欄でやや小さめですが宮寺晃夫(編)『再検討 教育機会の平等』が取り上げられました。岩波編集部の方に教えられて気づきました。拙稿への言及にもワンセンテンス割いていただいたようで、感謝です。 個性化教育を格差拡大と結びつける…

『教育と平等』雑感

あらかじめ手の内を明かしておくと、今日のエントリがだらだらとしまりなく長文なのは、(今日のは)わざとである。そして、たぶんしつこいと思われているだろうが、いまだ 宮寺晃夫(編)『再検討 教育機会の平等』(岩波書店) 出版記念、販促祭りは継続中…

大衆教育社会と/の教育改革――苅谷剛彦『教育と平等』(中公新書)を中心に

昨日、越後湯沢にて、拙稿「個性化教育の可能性――愛知県東浦町の教育実践の系譜から」(宮寺晃夫(編)『再検討 教育機会の平等』岩波書店、所収)を参考文献に指定させていただいたうえで、苅谷剛彦『教育と平等』(中公新書、2009年)を中心とした苅谷的な…

後日のエピソードから

なにか新しい展開が降ってこないかぎり、折り返し地点は過ぎましたが、出版記念祭りはまだ続きます。というか、ふつうに考えれば本丸の問題であるはずの「個性」とか「階層」とかは、いまだ手つかず。拙稿を書きあげてからもうずいぶんとたったある日、その…

hamachan先生と萬年先生からのコメント

濱口桂一郎先生と田中萬年先生が、それぞれブログ上で宮寺晃夫(編)『再検討 教育機会の平等』所収の拙稿にコメントをくださいました。ありがとうございます。とくに田中先生のコメントは詳細にわたり拙稿が論じた射程をはるかに超える評論となっており、大…

(続)「個別化・個性教育」という2つの実践――「ガンダム」か「GM」か

もう件の宮寺晃夫(編)『再検討 教育機会の平等』岩波書店は発売ですね。いい加減、くどくなってきましたね。それでは、もう本文のほうは手元にあるものとしてエントリを続けます。ブログだけでは詳細が判然としないところもあるでしょう(当然)。それは本…

「個別化・個性化教育」という同じ名で呼ばれる2つの実践――「ガンダム」か「GM」か

さて、拙稿に「書かなかったこと」や「書いた後に考えたこと」、それも拙稿が記述の対象とした人びとと議論を交わすなかで「考えたこと」を紹介していくためにも、拙稿が何を書いたものかについて、最低限の了解をもっておきたいと思います。『再検討 教育機…

目次:宮寺晃夫(編)『再検討 教育機会の平等』岩波書店

出版社から見本をお送りいただきました。ありがとうございます。もうすぐ発売です。序論以下、全4部構成、11章。目次のご紹介をいたします。 序論 宮寺晃夫「なぜ「教育機会の平等」の再検討なのか」 1.市場社会と教育機会 第1章 佐藤俊樹「「奪われなさ…

「個性化教育の可能性」

宮寺晃夫(編),8月9日刊(予定)『再検討 教育機会の平等』岩波書店、に収録された拙稿の題名は「個性化教育の可能性――愛知県東浦町の教育実践の系譜から」といいます。これまでの私の数少ない仕事とは全然イメージの異なることを書きました。これまでの私…

「教育さん」再論、からの、宣伝(←ここ重要)

前エントリのなかにでてくる「「よい教育」を実践しても、その要因独自の効果が安定した頑健なものとして取り出されることは、今のところ、めったに、ほとんど、ない」といった表現には、ご想像の通り、一定の誇張が入り込んでいる。少なくとも心理学系の専…

「教育さん」論序説

「○○序説」というタイトルの論文や著書にろくなものはない(経験則)。前エントリの最後では、「教育」を内在的に語ろうとするとき、人はみな「教育さん」になってしまう、それはなぜなのか、という形で「教育さん」問題を定式化した。当然、「教育さん」と…

「3.11」後の比較教育社会史研究、討論と批判

もうだいぶ時間が経ってしまって今さら感満載なのだが、やはりブログには残しておこうと思う。比較教育社会史研究会という研究者ネットワークが今年で10年の節目を迎えた。毎年春と秋に研究会大会がある。毎年5月には『比較教育社会史研究会通信』なるものが…

オヨヨ書林・せせらぎ通り店をよろしく!

突然なんですけど、中学時代の友人(♀)が金沢で古本屋を始めました。オヨヨ書林・せせらぎ通り店といいます。もともと金沢・竪町にあった本店ののれん分けみたいなものでしょうか。話を聞く限り「キッチン南海」方式に近いのではないかと勝手に推測していま…

感傷

ここ10年でもっともよく参加した学問ネットワーク(学会とはよばない)であるところの比較教育社会史研究会から『通信』節目の第10号が届いた。これについて書こうと思うが、今日はその話は措く。こないだまで職探しでふうふう言ってたと思ったら、いつのま…

「生きる力」(泣)の歴史観:追伸

前エントリ、 明治以降、今日に至るまでの日本における近代学校の教育課程の展開が〈科学技術主義〉−〈復古的道徳主義〉−〈自由教育=自己教育力主義〉の3項のせめぎあいの過程として描かれる。 なんかどっかで目にしたことのある「図式」だな、とそのあまり…

「生きる力」(泣)の歴史観:後編

さて、と(また長いよ、中身ないけど)。戦前について『近代日本カリキュラム政策史研究』(風間書房、1997年)、戦後について『現代日本の教育課程改革 ―― 学習指導要領と国民の資質形成』(風間書房、1992年)、という分厚い実証研究の方は参照しておらず…

「生きる力」(泣)の歴史観:前篇

最初に断っておくが、ひさしぶりだからといって、そして長文だからといって甘くみてはいけない。今日のエントリの中身の乏しきこと、そのレベルの低きこと。...と書き始めて、途中からすっかり日曜の研究会対策のレジュメ作成モードになってしまい、12000…

人生の節目を迎えるあなたへ

東北太平洋沖大地震とその後の津波による被害に遭われた方々、また、震災による被害のみならず、その後の福島第一原発での事故と放射性物質拡散による避難生活を余儀なくされている皆さまに心よりお見舞い申し上げます。そんな今だからこそ、人生の節目の話…

肯定すること

「教育」とは権力の作動であるとかの用語系で語る言説に、もはや新たなインパクトなど皆無であろう。だがそれでもなお、「教育」をそのようなものとして認識しつづけることには実践的な意義もある。「自己肯定感」とか「自己効力感」というのは、人が成長し…

文句があるならオレに言え

それは,その学校にとって本当に大変な,長い一日だった。その小学校に勤める教師にとって――なかでも,少しでもよりよい実践をと日々懸命に努力していればいるほど,そういう教師にとって。そしてもちろん,その小学校に通う子どもにとって――なかでも,子ど…