宮寺晃夫(編),8月9日刊(予定)『再検討 教育機会の平等』岩波書店、に収録された拙稿の題名は「個性化教育の可能性――愛知県東浦町の教育実践の系譜から」といいます。
これまでの私の数少ない仕事とは全然イメージの異なることを書きました。これまでの私の数少ない仕事のタイプを知っていて、今回のこの本に私が「教育機会の平等」をテーマにした論考を寄せた、ということをご存じのさらに数少ない方(←つまりほとんど関係者のみ)には、そういうのとはだいぶ毛色の違うことを書きました、ということをあらかじめお知らせしておきます。
また、私が「これに書いたこと」をはみ出たところで「書かれるべきだと思っていること/書こうと思っていたことを含んだ問題群の全体」を、あたかも「今回これに書いたこと」であるかのように(酔っぱらった席で)語ってしまったことによる無駄な期待のインフレ(が生起しているのだと仮定して、それ)を収束させるためにも、少し「今回これに書いたこと」の周辺を、数回にわけてブログに書き留めていこうかなと思います。
話のベースは基本的にはここ(→教育の「個性化」「自由化」は必ず「教育の格差」を拡大させるか?)で書いたことにあります。教育と平等をめぐる理論的考察を深めたわけでもなく、教育と階層をめぐる経験的な諸研究の動向を整理したわけでもなく、ただある小学校に通い、そこで行われていることを見ながら考えたことを書きました。具体的な実践を「見て」、その具体性を通じて/それを超えた水準で今後論ずべき論点の所在を指摘した、そんな感じの essay です。もちろん、ブログよりは議論の射程と精度は数段上げているつもりではありますので、念のため。
宣伝ですので、ネタバレはできませんから「書いたこと」は書けませんが、「書かなかったこと」と「書いた後に考えたこと」をご紹介することで、議論を敷衍する材料になればと思います。
今日は「書かなかったこと」を一つ。
これを書くときに意識したのは、やはり従来の日本の教育社会学のモノグラフ研究、とりわけエスノグラフィックな諸研究です。何を意識したかというと、「実践の「固有名」性を残したまま、これを書く」ということです。そういう意識をもつ直接のきっかけになったのは、金子良事さんが以前書かれたブログ・エントリ(→教育社会学メモ雑感(1))のなかの以下の一節です。
労働史研究・社会政策論の側から教育・訓練・形成の問題に接近するというかたちで教育社会学のいくつかの論考を手に取った金子さんが、苅谷剛彦『学校・職業・選抜の社会学――高卒就職の日本的メカニズム』東京大学出版会、1991年(それにしても、もう20年前か...)を軽く評して次のように語っています。
苅谷先生の本は、事例の位置づけがよく分からなくて、どうも違和感がありました。私の馴染みのあるものは、まず、事例がどういう意味を持っているかの説明をします。まあ、現状調査は調査対象の匿名性が大事なので、あんまり詳しくは書けないという制約も分かりますが、どういうタイプでという説明は一応、あります。マクロの話とミクロの話がいったり来たりするのと、急にデータの分析から、横文字の社会学者の名前が出てきて戸惑いました。モノグラフだから納得せい、というところなんでしょうか。
これは金子さんにとってはどうでもいいことかもしれませんが、私は面白い指摘だと思いました。
まず、日本の教育社会学者のなかで、あれが「モノグラフ」である(そして「モノグラフ」でしかない)、ということをきちんと認識している人がどれだけいるか。さすがに計量社会学をきちんと身につけた若手にはもういないと思いますが、あれを「モノグラフ」と認識できていないレベルの人が、一定年齢以上にはきっといるだろうと思います。もしかしたら、書いていた当時の苅谷先生ご自身も結構あやうい。ああいう研究が事例の意味を説明しないのは「匿名性」の要件として(だけ)ではなく、分析結果と主張される命題の「一般性」を仮構し「僭称」するスタンスが暗黙に組み込まれてしまっている故である、とまで言ってしまうと穿ちすぎでしょうか。
だからこそ「横文字の社会学者」と唐突に接合することが可能になると言えるのかもしれません。
対象の固有性の記述が勝負のエスノグラフィックな諸研究でも、実はその多くにおいて「固有名」性は消去されています。とくに、そのフィールドで繰り広げられている「教育実践」の「固有名」性は徹底して削ぎ落とされています。そこでは「学校」や「教育実践」は均質なものとして措定されているのです。では普遍的な(ものとしての)現象の「理解」が志向されているのかというと、そうでもなく、そこで行われている「分析」は分析者による「解釈」です。しかし、「固有名」性が排除されたところで行われる「解釈」とは何でしょうか。そこにいる「分析者」とは一体何者でしょうか。
他方、「固有名」性が組み込まれた「教育実践」の「分析」は、ほとんどの場合、(実践者自らが「分析」の主体となることも多い)「実践報告」となります。しかし、私の見るところ、それらの大半は「分析」の体系性に欠けるため、そこでの主張を検討する普遍的な議論の地平を共有することの難しいものが多くなっているように感じます。
この2種類の記述実践の志向の差異は、教育社会学的なエスノグラフィ研究においてしばしば指摘される「分析を行った研究者と分析の対象となった教師との意見交換、議論の共有の難しさ」、はっきり言うと、「現場に嫌われがちになる」ということと、深いところで繋がっている問題のようにも思えます。
ここまで何の留保もなく使ってきた「固有名」性という言葉が何を指しているものなのかということは、実は私も精確には捉えられてはいませんが、とりあえず、非常に単純な発想として、対象としている教育実践をめぐって登場する「固有名詞」は極力を残したまま、それを一定の体系性を伴う術語群を用いて記述することで、これまでとは違った議論の共有が実践者と分析者とで可能になるような、そういう記述を目指してみた、というところです。
その達成の如何については、読者の皆さんのご批判を待ちたいと思います。
そんなわけで、これは私にとって「教育(学)」を志向して書いた、はじめての試論となります。前任校に着任してからエミール・デュルケムがなそうとしたこと/なしたことへの理解がそれまでになく腑に落ちて以来、「社会学(者)」でありつつ「教育学(者)」を志向する、そういうスタンスを可能にしてみたいと考えるようになりました。それは educational sociology / sociology of education のいずれの意味においても、「教育社会学(者)」であることとは異なります。
この essay の初稿ができあがってから、すでに実践側の方々には読んでもらい、さまざまな有益なコメント――基本的にはポジティヴに受け止めてもらいましたが、当然なかには厳しい指摘も――をいただきました。とりわけ、そこで中心的実践者として80年代に実践開発の中核を担った方から寄せられた長文のコメントは、まったく社交辞令を抜きにして、重要な、敷衍すべき価値のある論点ばかりで、正直なところ、私は感銘を覚えました。そのなかのいくつかには可能な範囲で初校・再校の段階で最低限の応答を何とか組み込みましたが、当然、大半は積み残しとなっています。
次は、そこでいただいたコメントから得られた示唆に応答し、形を与えることで、「教育」を考えるための論点群を提示していければと思います。
- 作者: 宮寺晃夫
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2011/08/10
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