『市民社会論の再生』合評会のコメント2本

前回のエントリ(稲葉振一郎『市民社会論の再生――ポスト戦後日本の労働・教育研究』合評会に登壇します - もどきの部屋 education, sociology, history)で超絶ショートノティスとなりました社会政策学会・労働史部会での稲葉振一郎著『市民社会論の再生――ポスト戦後日本の労働・教育研究』(春秋社、2024年)の合評会に参加してきました。

参加者はそれほど多くありませんでしたが(そういうタイプの会なので)、報告者の厨先生こと稲葉振一郎さん、第1コメンテイターの松沢裕作さん、司会の梅崎修さんをはじめ、フロアには労働(史)研究のみならず、日本近代史・経済史・経営史、教育社会学などの大御所(?)クラスの先生から中堅・若手の先生・院生さんまで、さらにきわめつけは――稲葉著第1部で中心的に論じられている――東條由紀彦先生ご本人によるオンライン参加まであり、たいへん充実した時間を過ごすことができました。あらためてこうして書いてみると、ちょっとした「歴史」的エピソードみがあります。

フロアには――著書そのものには直接登場しませんが、当日の厨先生の報告資料では重要な位置を占める――氏原正治郎を中心としたいわゆる「氏原工房」による「労働調査資料」のデジタル復元作業に今まさに中心的に従事している若手の先生もおられたので、ぜひこの機会に厨先生的な議論とのクロスオーバーを試みたかったところでしたが、上述のような充実したラインナップと著書・著者の博識・視野の広さがなせる重要論点の多さと、あと主要には私の非力とにより、思ったように実現することはできませんでした。労働調査資料のデジタル復元についてはこちら(東京大学社会科学研究所『社会科学研究』第76巻)に詳しくありますので、ぜひご参照ください。

かくいうわたくしめも、当日のコメントレジュメはA4で全10頁ときわめて長尺に及んでしまいました。これは5頁ずつ、内容的に独立性の高いコメントを2本、並べたからですね。当日はそのうちの1本目(前半)だけ報告いたしました。以下がそれぞれのタイトルと目次です。

「近代/現代」把握と「実践的思想」のあいだ――「二枚腰」のパラドックスを中心に
0. 自己紹介
1. 2つのレベルの準拠問題――学問上/実践的思想
2. 歴史理解――反復する「構造転換」
3. 実践的思想――二枚腰のラディカリズム/保守主義
4. 着地点――「顕教密教」の(相互反転の反復を含んだ)二枚腰
 4-1. 森重雄の「隘路」「挫折」「ポストモダン的堂々巡り」について
 4-2. 佐々木輝雄の「「顕教密教」の二枚腰」について
 4-3. 「教育のポストモダン」以後の現状について

上述の(当日しゃべったほうの)内容は、著書そのものへのコメントになっています。キーワードは「二枚腰」です。

0.では、私自身も『「多様な教育機会」から問う――ジレンマを解きほぐすために』(明石書店、2024年)の第2章で――稲葉著・第2部で中心的に扱われている――佐々木輝雄を論じていること、その主張内容の概要および含意と稲葉著・第2部の議論との関係性についての見通しを予告的に述べました。

1.~3.は、おもに第1部・東條由紀彦論の箇所での議論をトレースし、そこでの肝を「二枚腰のラディカリズム/保守主義」に見出したうえで、この「二枚腰(のパラドックス)」こそが本書の軸をなしており、第2部の主題となっていることを主張しました。

本コメントの本論部分となる4.では、森重雄の「批判的教育社会学」はその構想の内実に鑑みて、ルーマンか、エスノメソドロジーか、あるいはその両方に接続すべき要素を備えたものだった、だができなかった、そのことが「森の挫折」(p.135)を決定づけてしまったのであろうとの見解と、さらに佐々木輝雄に先駆的に見出され、かつ――稲葉の見るところでは――2000年代の教育社会学者たちが総じてたどり着いている「「顕教」と密教」の危うい使い分け」による実践的コミットメントについて、その「危うさ」を制御する「方法」の「不在」が気になる――し、自分としても今後の課題として追究していきたい――旨のコメントをいたしました。

現代日本の教育・階層・社会移動――「教育の歴史社会学」による選抜・配分研究から
1. 「教育問題研究」としての教育社会学――実態調査と歴史研究の両輪
2. SSM調査(社会階層と社会移動に関する全国調査)研究のなかの教育社会学
3. 石田浩(SSM研究/東大社研)を介した教育社会学と労働問題研究の接続
4. 教育社会学による研究の展開と知見(1)――「制度的リンケージ」の発見・重視
5. 教育社会学による研究の展開と知見(2)――近代部門/伝統部門の相互関係と社会移動、「長期持続」と「趨勢加速」

こちらは合評会に先立って、著者の稲葉さんからあらかじめ送られてきた報告資料の内容を見てから、それへのレスポンスとして作成したメモでした。そこでは稲葉さんの問題意識が2点にまとめられています。すなわち、(1)「雲散霧消した大河内一男→氏原正治郎による東大労働経済学の学統の遺産の――歴史研究としての――鑑定と継承」、および、(2)「東條由紀彦「近代から現代へ」スキームを継承したうえでの日本社会論の確立」です。

前回エントリでも記したように、私は「まさかそういう問題意識で書かれていようとは!」という思い――「東條スキームの継承」まではわかる、だがそこから「(現代)日本社会論の確立」とは!という感じ――でこのレジュメを、しかしたいへん興味深く読みましたので、瞬発的に、やや書きなぐり気味に整理したものですが、労働問題研究との接続関係を意識した「教育の歴史社会学」研究のレビューというのはありそうでないですし、たぶんすごい重要な検討課題だとは思うので、もう少しちゃんと形にしてもよいかと感じています。

1.では、麻生誠・潮木守一・天野郁夫・菊池城司らを位置づけています。2.では、ISA共同研究への呼応として実現した1955年SSM調査の実施を契機とする労働問題研究/労働社会学とSSM研究との「分離」、あるいは前者から後者への移行、という視点を仮設的に提示しました。

3.では上で設定した「労働問題研究-SSM研究-教育(の歴史)社会学」の3項関係の視点のもと、(1)石田浩先生を介して労働問題研究と教育社会学との接続がもたらされ、2000年(前後)以降の「制度的リンケージ」の歴史的形成を論じる諸研究――さらに制度的リンケージの視点から広がった「教育から職業への移行」に関する国際比較研究――への展開につながったこと、(2)その過程で「氏原工房」が1950~60年代に実施した「労働調査資料」の個票データのデジタル復元作業への着手がなり、佐藤香先生のSSJDA着任以後、比較的保存状態が良好だった「貧困・社会保障調査」個票を中心に、相澤真一先生(教育社会学)らを軸とする組織的作業の開発と進展、さらにその復元データの二次分析による知見の展開と蓄積があった経緯を整理しています。

「労働調査資料」のなかに認められる「貧困・社会保障調査」の存在・蓄積を稲葉的な――それは「教科書的な」といってもよいものだと思いますが――「労働問題研究」レビュー、とくにそのなかの「社会政策学から労働経済学へ」テーゼのもとにどう位置づけるべきか(という発想を一度もってみてもよいのではないか)という指摘を企図していました(が、そもそもこれは報告していないほうのレジュメなので)。

4.では苅谷剛彦『学校・職業・選抜の社会学』、竹内洋『日本のメリトクラシー』、苅谷『大衆教育社会のゆくえ』、それらとの対比で乾彰夫『日本の教育と企業社会』、さらにそこから菅山真次『「就社」社会の誕生』、Shavit and Muller(1998)などへと至る展開を、

5.では菊池城司『近代日本の教育機会と社会階層』と佐藤香『社会移動の歴史社会学』――おまけでこの両著書刊行後に書いた拙稿「個別歴史性に定位した社会移動研究の可能性」――での議論の要点を整理しています。このあたりは実に20年前の研究水準で止まったままの頭で書いた整理なので、もし今後本格的にこの作業をやるなら要検討。

さて、本エントリはこのあと「当日しゃべれなかったのだけれどもしかしたら重要なことかもしれないので書いておこう」という備忘を書き残すつもりで書き始めたのですが、また例によってすでに字数がかなり膨らみましたので、今日はここまで。

稲葉振一郎『市民社会論の再生――ポスト戦後日本の労働・教育研究』合評会に登壇します

どの程度オープンな会なのかそうでないのかが読み切れなかったので控えていましたが、一応 Facebook の「社会政策学会 研究者育成フォーラム」なるグループは「公開」設定で出しているようなので――社会政策学会 研究者育成フォーラム | 労働史部会・世話人の梅崎修です――ここでも告知します(直前でもあるのでもはやそんな気にするほどの影響はないでしょう)。

きたる9月13日(土)に社会政策学会労働史部会による合評会形式の研究会例会――という表現にもよくわからないところがありますが――があります。稲葉振一郎市民社会論の再生――ポスト戦後日本の労働・教育研究』(春秋社,2024年)が取りあげられます。たぶん主催者の先生は稲葉さんによる報告単独での研究会がやりたかったのに、稲葉さんが無理くり「合評会形式で」と押し込んでのこの形式ではないかと勝手に推測しています。(※個人の感想です

日時:9月13日(土)14:00-17:30
会場:法政大学市ヶ谷キャンパス・キャリア情報ルーム
司会:梅崎修(法政大学)
報告:稲葉振一郎明治学院大学)「『市民社会論の再生――ポスト戦後日本の労働・教育研究』について」
コメンテータ①:松沢裕作(慶應義塾大学
コメンテータ②:森直人(筑波大学

終了後に懇親会があるそうですが、私はたぶん出られません。

コメンテータが2人立てられているのは、本書の構成が大きく第1部と第2部とにわかれていることに対応しています。目次は下記にあるとおり、前者が「東條由紀彦の市民社会論の検討――「近代から現代へ」再考」、後者が「斜めから見る「日本のポストモダン教育学」・改」となっていて、これが本書サブタイトルの労働研究・教育研究に対応する、と同時にコメンテータ①・②の配置とも対応している、ということでしょう。
www.shunjusha.co.jp

第2部では森重雄というかつて「批判的教育社会学」を標榜した教育社会学者と、職業教育・職業訓練研究を専門とした異形の教育学者・佐々木輝雄とが論じられています。そしてその先に2000年代以降の教育社会学研究(苅谷剛彦広田照幸本田由紀ら)が配置されている構成です。

私は当初、佐々木輝雄論を軸として、それと森重雄、さらに2000年代教育社会学とを対比したコメントを、と漠然と考えていました。このところの本ブログでずっと言及してるRED研2巻本の第2巻『「多様な教育機会」から問う――ジレンマを解きほぐすために』(森直人・澤田稔・金子良事編,明石書店,2024年)の第2章「〈教育的〉の公的認定と機会均等のパラドックス――佐々木輝雄の「教育の機会均等」論から「多様な教育機会」を考える」ではもっぱら佐々木輝雄を論じたからです。そして、RED研2巻本はトータルで、「佐々木輝雄論を軸として、それと森重雄、さらに2000年代教育社会学とを対比」するという課題の〈実践編〉でもありました(少なくとも私個人はそういう「つもり」でおります)。RED研2巻本で繰り返される「ジレンマ」、あるいは拙稿のタイトルにある「パラドックス」と、稲葉本の佐々木輝雄論のなかで7回出てくる「顕教密教」の「二枚腰」とは深いところで通底していると私は考えています。

ですが、事前に送付されてきた稲葉さんの報告資料をみて、ちょっと考えを改め始めています。この報告資料はこれはこれでたいへん興味深く、私はそもそも「稲葉さんはこの本で何をやりたい(/たかった)んだろう?」とちょっとよくわからないところがあったのですが、このレジュメを読んで「なるほどこういう動機に支えられていたのか」と腑に落ちたところがあります。で、だとするとこのラインで「教育社会学ではこういう話になっています」というのを対置した議論はできるよな、と思いました(し、そのほうが私にとってはラクだと思いました(し、たぶん社会政策学会労働史部会という場の空気を忖度するとそっちのほうがいいんだろうなと思いました))。院生時代(PDくらいですかね)からここ20年ぐらいの間にほそぼそと書いていた歴史系の拙稿4本ほどを編集すればよいだけなので。

稲葉さんの整理による「労働問題研究」と「教育社会学」のあいだには一個大きく抜けているものがあって、それは「SSM調査研究」じゃないですかね、と思いました。これを間に置いてあげると、研究史の整理としての確度はもうちょっと上がるかな、と。その場合、キーパーソンは菅山真次先生というよりは石田浩先生になるのではないかと思います。「東京大学社会学研究所にいた石田浩」――というべきか「石田浩がいた東京大学社会科学研究所」というべきか――が重要なんですよ。「労働問題研究」と「教育社会学」がくっつけた――『学校・職安と労働市場』――のも、「氏原工房」が残した膨大な「労働調査資料」のデジタル復元とその二次分析による研究蓄積――最新版は『戦後日本の貧困と社会保障』――が進んだのも、その発端は「東京大学社会学研究所にいた石田浩」だと思います。そこから研究上の重要な人脈と知見がつながり、展開を遂げました。そして石田浩先生はいわずと知れた J. Goldthorpe 門下の国際的な階級・階層・社会移動研究者です。

でもそういう話(だけ)でいいのかな、とも感じます。このレジュメは稲葉さんの問題意識の「半分」しか言い当ててなくないですか?

“伝統的な「労働問題研究」のパラダイムはもはや「我々の現在」をとらえるための道具としては失効している、この現状を乗り越えるために近過去としての「現代」=20世紀を理論化する、そのうえで21世紀のいま現在の社会編成原理(などというものがあるとしたら)、それを表現する。”

これだけが本書を書かせた稲葉さんの問題意識なのだとしたら、森重雄の「挫折」だの佐々木輝雄の「顕教密教」の「二枚腰」だのの話なんていらなくないですか? つまり、第1部と第2部とは、「労働」と「教育」という対象・領域や、「近代/現代」と「現代/ポストモダン」という時代区分で「のみ」分かれているのでは「なく」ないですか?

われわれは21世紀のいま現在をどのように生きる(べき)か、いたるところに噴出する矛盾や課題をどのように処していく(べき)か――という準拠問題がまずあって、そしてそのための手段のひとつとしての「理論化」や「社会編成原理の表現」なんじゃないですかね、ほんとは。そして、もしそうだとしたら、「理論化」や「社会編成原理の表現」という道筋をたどらなくても前段の課題には取り組むことができる。佐々木輝雄がいまこの時点で取り上げられる意義がもしあるのだとしたら、それはここにあるんじゃないですかね。

ということでなんかもうすでにコメントが終わってしまっているような空気も流れていますが、もう少し時間があるので当日何をしゃべるか考えておきます。冒頭にリンクを貼った労働史部会のFacebookページに参加申込フォームがありますが(リンクから直接飛べない人はネットのキーワード検索でたどり着いてください)、私は部外者なので、もし参加希望される(奇特な)方がいらっしゃったら、詳細は主催者の先生(たぶん梅崎先生)からの連絡等(があるんじゃないかと推測しているのですが)をお待ちいただくことになるかもしれません。

岡野・佐久間(2023)「公教育再考」とRED研2巻本とのあいだ

RED研2巻本が世にでた2024年9月に1年ほどさきだつ2023年8月、世織書房から『教育学年報14 公教育を問い直す』(佐久間亜紀ほか編)が刊行されている。特集テーマはそのものズバリ、「公教育を問い直す」である。巻頭には政治学ジェンダー研究者の岡野八代さんと第14号のゲストエディターである教育学者の佐久間亜紀さんとの対談が掲載されている。タイトルは「公教育再考――ケアをめぐる政治学と教育学の交差」である(以下、岡野・佐久間(2023))

このエントリ(「藤田‐黒崎論争」を展開する - もどきの部屋 education, sociology, history)に書いたとおり、私も第14号に寄稿しており、世織書房さんから著書をご恵投いただいたはずなので当然この対談も読んでいたのだが、RED研2巻本が完成する前のことであり、そのときにはこの対談が〈おこなっていること〉の重要性にまで理解が及んでいなかった(逆にいうとそれぐらい「RED2巻本をまとめる」という作業が私にもたらしたインパクトは大きかった――後述)。

いまは理解が及んだ、気がする。もちろん、それが「誤解」である可能性はあるにせよ。

「あ! そういうことか!」とわかった瞬間に、それまでの自分の無理解や誤解は永遠に失われてしまう。だからこの瞬間に、岡野・佐久間(2023)と、それまでの私の無理解、そしてRED研2巻本とのあいだにある距離と関係について書けることを書いておく。

なお、これは私の理解(誤解?)についての自分用の備忘録なので、当該テクストの中身の正確な反映と思って読まないでいただきたい。公教育を再考するためのひとつの大枠が示された、とても重要な文章だと思うので、このテーマに関心のある人は必ず直接文献にあたってほしい。


★ 岡野・佐久間(2023)における「公教育再考」
私の理解では、これは――フェミニズムジェンダー政治学・政治思想研究をつうじて公私二元論批判と「ケアの倫理」を探究してきた岡野さんとの対話を触媒として――教育学者である佐久間さんの考える公教育再編の大枠の指針・構想が提示されたテクスト、として読むことができる。

佐久間さんの考えでは、フェミニズムジェンダー研究による「公私二元論が前提としてきた近代的主体を問い直す知」や「資本主義社会におけるケア労働の位置づけへの問題提起」の蓄積は、「教育とジェンダー」という教育学のなかの一サブ領域に閉ざされてよいものではなく、公教育の行方を構想するうえで不可欠の要素であり、「公教育をめぐる議論の本丸」に位置づけられるべきものである。

にもかかわらず、教育界はそうした知や問題提起の蓄積を「他人事」だと侮っており、「ジェンダーの視点からの社会観の問い直しは、教育界全体にとって死活問題」であることを理解できていない。現在の公教育の危機は、まさにこうした状況そのものにある、とする主張である――ここまでは昨日のエントリ(「公教育の福祉的再編」というアイディア(解決策)の何が問題だったか - もどきの部屋 education, sociology, history)末尾にも引用した(佐久間さんもイニシャルにすると「Sさん」だ)。

その先の主張の骨子は以下のとおり。

まず、教育という領域、あるいは教師という存在は、政治や経済といった公的領域と対比された「私的領域」として位置づけられ、貶価されている。この位置づけの転覆、すなわち公/私の境界線の引き直しや、既存の公私関係を前提とした社会観の問い直しが不可欠である。

このような公私の関係を前提としたままでは、教育予算が増えたり教師がリスペクトされたりするはずがない。(p. 10)

それは同時に、これまでの公的領域における人間観、すなわち「自立した人間像」の問い直しをともなう。これを教育領域にひきつけていえば、教育の根本目標として「子どもの自立」を掲げることそれ自体が問い直しの対象となる。

日本の学習指導要領では、子どもを自立させることが教育目標になっています。小学校一年生でさえすでに、児童が「自立し生活を豊かにしていくこと」が目指す姿だと書かれているのです。……自立を目標に掲げられるのは、現行社会は自立した人間によって成り立っているという社会観があるからですよね。その社会観では、裏で依存が否定され、人に頼ってはいけない、助けてと言ってはいけない、っていう隠れたメッセージが発せられている。(p. 11)

そのうえで、フェミニズムジェンダー研究が理論的に整理してきた「ケア」の概念を媒介として、「あるべき公教育」把握の指針が以下のとおり示される。

人間をお互いに依存しあう存在としてみる人間観をもとに、公私二元論を問い直し、助け合える社会築くための教育として公教育をとらえる……(p. 12)〔太字・下線は引用者〕

そうすると当然、教育という営みの捉え方も変わってくる――「包括的ケアとしての教育実践」へと。

私は、教育という営みはケアそのものだと思うのです。……もしも授業を、子どもが何かを学びたいと思うようにいざない、安心して学べる場をつくり学びを支える営みと捉えるなら、授業はその営みそのものが包括的なケアだといえる、と私は考えています。(p. 14)〔太字・下線は引用者〕

以上が本テクスト(の前半)で示された、今後の「公教育再考」を方向づけるための、あるべき指針の骨子である。ここにみられる問題意識は、昨日のエントリにおけるSさんの批判――「教育」を「福祉」的に再編することは問題の解決にならない、どころか悪化につながる可能性すらある――と同じ系にある。ここから岡野・佐久間対談の後半は、ケア概念や「ケアの倫理」をめぐる論点の敷衍がなされていく構成となっている。


★岡野・佐久間(2023)とRED研2巻本とのあいだの距離
このテクストに示された「公教育再考」の指針とRED研2巻本とのあいだの距離を測っておきたい。

RED研2巻本は、全体として、ケア概念にここまで主要な焦点としての位置づけを与えてこなかった。もちろん、まったく無視したわけでもない(無視できるはずがない)。だが、巻末の事項索引(一般事項)で「ケア」の項目をみると、文章中に複数回出現してその主張をなす鍵概念となっていると思しきテクストは以下の各章(のみ)である。

1巻2章 金子良事「「無為の論理」再考」
1巻7章 谷村綾子・阪上由香「中学校にサードプレイスを――中学校内居場所の実践」
2巻8章 金子良事「教育と福祉の踊り場――「居場所」活動の可能性についての考察」

いずれも大阪の、互いに重なりあいのあるフィールドでの「居場所」活動・実践にかかわる著者によるものである点が興味深い。ただし重要なことは、佐久間さんの主張が明確に学校と教師、そして授業そのもの(!)を指して組み立てられている――公「教育」を再考するのだから――のに対し、RED2巻本の上記諸章では――「校内」こそ含め――学校・教師・授業からは一定の距離を(繊細に)保った「居場所」活動・実践を対象としていることである。この同一性と違い・関係をめぐっては、何らかの対話・議論が可能であり、あってよい気がする。

加えて、じつはこの2巻本で私が書いた文章――とくに1巻1章の「「多様な教育機会」と教育/福祉――ジレンマのなかで、ジレンマと向き合う実践の論理」――では、意識して語「ケア」を使わないようにして書いた。「ケア」という語を用いずに、「ケア」のことを書こうとした。要するに「ケア」を――上記拙稿については――「NGワード」化したのである。

なぜそうしたのかは、私がフェミニズムジェンダー研究の成果・蓄積を追えていなかったという問題以外にも、もう少し積極的(?)な理由もあった。私は1巻1章で「ケア」と呼びうる関係・営みを重視し――岡野・佐久間(2023)との同一性――、少なくともその一側面を記述しようと試みた――「人のよりよい・より望ましい方向への変化にむけて働きかけるコミュニケーション」(1巻1章: 57)と、それが必然的に要請する「表出されない意思を待ち、見逃さず、聞き取るための倫理と技法」(1巻1章: 61)。

だが同時に、「ケア」は「教育にだけ」ある(べき)ものではない、という点も十分に重視、分節して記述しようと試みた。岡野・佐久間(2023)も強調するとおり、われわれの社会では一次的/二次的/三次的関係におけるケアが網の目状に広がっており(p. 12)、二次的関係=ケア労働に限定しても、保育にも教育に医療にも介護にも福祉にも看護にもケアがある(pp. 19-20)。岡野・佐久間(2023)においては、それぐらいわれわれの社会が普遍的な依存関係から成り立っているのだ、とする社会観・人間観への転換をめざしているのだから当然なのだが、私は同時に、社会を構成する機能領域ごとにみられる「違い」にも同じくらいフォーカスして考えたかった。ここにみられる岡野・佐久間(2023)とRED研2巻本(というか拙稿1巻1章)とのあいだの同一性と差異・関係をめぐっても――上に述べた私の執筆の意図・理解の妥当性の確認からはじめて――何らかの対話・議論が可能であり、あってよい気がする。

もうひとつ、対談の最終盤になって佐久間さんは以下のように述べる(岡野・佐久間 2023: 25)

私は、いまの時代にますます必要なのは、ケアする人をケアする営み、ケアする人をケアする文化の醸成だと思うのです。……(中略)……そしてそのケアは、ただ「大変ですね~」とか言ってねぎらうだけのような、一方的かつ情緒的なものではなくて、現場で起きている出来事を一緒に解釈して意味づけ直すとか、その際に必要な知識を確認しあうといった、高度に知的な営みを含んで包括的で双方向の営みです。〔太字・下線は引用者〕

RED研は、「多様な教育機会」――ここには「学校」も含まれる(1巻・2巻はしがきを参照)――の現場で活動する人びとをケアしようと意図して運営してきたわけではない。だが結果としてRED研が採用することになった以下のようなスタンスと、上述の佐久間発言とのあいだの異同についても対話と議論ができれば――というかコメントがもらえれば――個人的にはありがたい。

立ち上げから3年余りが過ぎた頃から、RED研では……「多様な教育機会」で支援の取り組みにかかわってきた当事者による実践報告が提供され、それをめぐって丁寧な議論を交わすスタイルが確立してきます。既存の制度の枠に収まりきらず、場合によっては教育と福祉の双方にまたがり、制度の狭間や周縁に位置づけられがちな実践は、そこでの取り組みの意義づけや、日々直面する課題や矛盾に対して抱える思いの言語化に苦労することが多々あります。それぞれの現場でモヤモヤしたまま自分でもうまく言語化できずにいる悩みや考えを、時間をかけてフロアと共有しつつ、整理し、反省的な検討を加えることで、少しずつそれらに明確な言葉を与えていこうとする議論のスタイルです。(1巻1章: 47)〔太字・下線は引用者〕


★なぜ私は――今になってようやく――「わかった」か
最後に、そしてこれが本エントリでいちばん重要なことだが、なぜ私は『教育学年報14』刊行の2023年8月はおろか、RED研2巻本が公刊された2024年9月の時点ですら以上のような理解にたどり着けず、つい最近になって今さらこんな理解(誤解?)の道筋をたどり直すことになっているのだろうか。なぜここに至るまで私は佐久間さんの「公教育再考」の構想や、前回エントリで触れた7年前のSさんのコメントに無理解のままだったのか。何が今になって私をして「あ! そういうことか!」とわからせしめたのか。

2巻本を出版してからこの1年、RED研をやめよかな、続けてもいいのかな、でも続けるとして――これまでとまったく同じようにはできない事情もあったので――どういう風にやればいいのかな、ってな感じで過ごしてきたが、この間いろいろなことがあって「まあこういう風になら続けられそうだし、続けてみてもいいのかな」と思える雰囲気ぐらいにはなってきた。それでRED研2巻本をまとめるプロセスをふり返り、自分が、そしてRED研がどういう宿題を残したっきりそのままにしているのかを整理する作業をおこなった。その過程で昨日のエントリで紹介したSさんとのやりとりのログを見返して、そのとき渡された文献リストに挙げられていた文献をあらためて読み直してみた。

それでわかった。

その文献が「わかりやすかったから」ではない。逆に、「すごくわかりにくい」書き方になっていたからだ。その「わかりにくさ」が、わか(りやすか)った。なぜそんな書き方になるのか、ならざるをえないのかが、今はよくわかる。

既存の公私二元論に異を唱える(=準拠問題)。だがだからといって、公と私の――との名づけを維持するかどうかは措くとして――あいだの線引きがなくせるわけでもない、だから引き直す(=問題解決①)。だがそうして引き直された境界線も、今度は別の派生問題を生むだろう(=派生問題①/準拠問題´)。なら、こういう引き直しはどうだろう?(=問題解決②) いやそれもまた別のこういう派生問題を生んでしまう(=派生問題②/準拠問題´´)。だったらこんな境界設定がいいんじゃないか?(=問題解決③) いやだがそれも……(以下省略)、といったうねうねとした逡巡が、そのままうねうねと書き連ねられたテクストだ。

わかりにくい。

RED研2巻本をまとめる前の私だったら、そこで読むのをやめて(あるいは理解が止まって)いただろう。だが、今はそれがわかる。それこそが、わかる。そのわかりにくいテクストの「わかりにくさ」こそが、私をして「あ! そういうことか!」とわからせしめた。Sさんが言おうとしていたことはこういうことだったのかもしれない、と。

RED研2巻本を貫くキーワードに「ジレンマ」がある。これがいろんな人をとらえるフックになっている、と同時に、「わかりにくさ」のもとにもなっている、的な。

たぶん、RED研そのものが――上にみた文献が実践していたのと同様に――うねうねとした逡巡、準拠問題-問題解決-派生問題セットの探索・提言・比較、「対立の発展」(2巻2章拙稿: 58)、「パラドックスの展開」(2巻2章拙稿: 58-66)、を実践してみれば(してみても)よいのだろう。そして、それを見て/読んでもらえばよいのだろう。少なくともそういうことを試みてよいだろう。RED研2巻本を読んで今はまだモヤモヤしたままの人にも「あ! そういうことか!」となってもらうには。

雑駁にいうと、それが今後のRED研の課題である。

「公教育の福祉的再編」というアイディア(解決策)の何が問題だったか

RED研の著書企画が浮上するはるか昔、7年前の2018年に、RED研内部の別動隊として「福祉的再編を基軸とした次世代型公教育システムの開発」というタイトルの共同研究が走り始めたことがある。それに対して、RED研のメンバー(=RED研メーリングリスト登録者)のひとりだった――そして上記「別動隊」には入っていなかった――Sさんから、かなり激しい違和感の表明を受けた。

当時、私はSさんの問題提起をほんとうには理解できていなかった。RED研の2巻本――『「多様な教育機会」をつむぐ――ジレンマとともにある可能性』『「多様な教育機会」から問う――ジレンマを解きほぐすために』(明石書店、2024年)――をまとめた今、そのことがわかる。

RED研2巻本のワードを使っていえば、当時のSさんによるRED研への激しい違和感の表明は、要するに「福祉的再編」というワードに無批判・無自覚に依拠して「ジレンマを不可視化」しようとしている(ように見える)点に寄せられたものだった。「現状のジレンマが不可視のまま、別の不可視化を進める(に置き換える)」ことにしかならない準拠問題の設定(とその解決策の提示)になっていることへの批判であった。

「これを読もうと思っています」とこちらが示した某書を一読して、「ジェンダー法学におけるこの20年の議論の進展がカバーされていない(だからダメ)」と喝破されたのも、この批判の系である。

「ちょうどいま大学院のゼミでこのテーマを扱っているから」と言われたので、「そのゼミで読まれてる文献教えていただけますか?」との厚かましい申し出に手渡されたリストには、公私二元論批判や「ケアの倫理」を論じたフェミニズム政治学・哲学・倫理学の文献が並んでいた。

フェミニズムによる公私二元論批判にはパラドックスがある。「公だ」といっても、「私だ」といっても、どちらにも陥穽がある(経験科学的アプローチによる観察)。だが、法システム/法学においては、このパラドックスを不可視化・分解・展開して――つまり、なんであれ公/私の境界線を引き直して――、直面する準拠問題に対するなんらかの問題解決を図らなければならない(=規範科学的アプローチ)。この課題――パラドックスを可視化したうえでそのパラドックスに対峙するや否やそれを不可視化し、法的決定について従来とは異なる解決策を導出する課題――に取り組んでいるのがジェンダー法学である、だから最新のジェンダー法学(そしてフェミニズム政治学)の動向を追え、と。RED2巻本――の編集の基底にあるニクラス・ルーマン――風にいえば、このようになるのではないか。

フェミニズムによる公私二元論批判のパラドックスが、「フリースクール(を含む多様な教育機会)の公共性」論が直面するそれに重なることは見やすい。「公だ」の主張――意義の強調と権利の要求――は国家による監視・介入を招き、「私だ」との主張は自らへの貶価をともなった放置・排除・タダ乗りを正当化する。

さて。

「福祉的再編を基軸とした次世代型公教育システムの開発」――仮にこれがパラドックスが見えている者による記述だということを踏まえても、このタイトル自体はそのパラドックスを「福祉的」なるものへの依拠によって不可視化しようとする(=問題解決を図ろうとする)規範科学的アプローチに見える。

もちろん、タイトルには「を基軸とし(た)」とあるので、それはあくまで軸足を置くのが「福祉的」のほうだということでしかなく、そこを起点にピボットを踏む――ジレンマの暫定的解決を不断に継続していく――というスタンスは維持されているのだから、依然としてパラドックスは見えているのだ、と強弁することもできなくはない。できなくはないがしかし、このRED研別動隊――というか当時のわたくし――にそこまで透徹した認識があったかどうか、あったとしてそれが読み手(聞き手)に伝わるように表現できていたか、と問われれば、それはかなり怪しい。

仮にパラドックスが見えているのだとしても、そのパラドックスを「福祉的な再編の推進」によって不可視化しようとする構想・提言である以上、そこから先は「ではそのうえで、それでも「福祉的」に依拠した再編(=問題解決)のほうが他の機能的等価物(とそれが生み出す派生問題のセット)との比較において――つまり等価機能主義的にみたときに――よりマシな選択肢だといえるかどうか」を論点とすることになる。

そのとき「福祉的再編」を構想する者たちは、以下のような批判に対して有効な反論をおこなうことができるだろうか――いわく、“公教育を「福祉的」なるものを軸に変えていく、という解決策のもとでは、教育の専門職である教師が福祉の専門職的な存在へと変わっていく、という派生物をも生むだろう、ところが、福祉職は過去から現在に至るまで教師より低い社会的・経済的評価と処遇しか受けていない、とすると公教育システムの軸足を「福祉的」なそれへと移行させることは、とりもなおさず教師の処遇・評価の低下・劣化につながる、すなわち、公教育システムの改悪にしかならないだろう”

それとも「そのような(=規範科学的な)問いに応えるのはRED研の課題ではない」と言い切ってしまうだろうか。しかしながら、だとすれば今度はそもそも上記のような共同研究を企図したこと自体がおかしい。

要するにスタンスが固まっておらず、そのことを自覚できてもいなかった。

実際、第1巻『「多様な教育機会」をつむぐ』所収の第10章座談会でも記したとおり、RED研はこの直後、年が明けて2019年1月の第15回研究会のあと深刻な危機=転機を迎え、研究会としてのスタンスと方向性の確立という課題に直面する。そこから3年ほどかけて確立させた方法にもとづき、今回の2巻本は編まれた。ぐるっと一周遠回りして、いまようやく7年前のSさんの批判までたどり着いた、という風情である。

やれやれ。

ともあれ、ここで浮き彫りになっているのは――2巻本を完成させた現在における――RED研のスタンスから、規範科学的な「提言」や「実践」(=パラドックスの展開)にどのようにつなげ(られ)るか、という課題である気がする。

編者のひとり澤田稔はカリキュラム・教育方法論研究者として現場の教育実践に深くかかわる立場から、折にふれて「パラドックスが見えている実践と見えていない実践では絶対に違うんだ」と力説する。それは個人的にはわかるような気もするのだが、しかし「どうして?」「どのように?」の問いに説得的に答える言葉がなければ、「澤田信者(RED研信者)」にでもなってもらわないかぎり、なんの影響力ももちえないだろう(奇しくも、編者同士の議論のなかで澤田さんがしばしば用いる「顕教密教」の比喩は、まさに「信者」の/とのふるまい方/接し方の区別です)。

ジェンダー法学(そしてフェミニスト政治学)の公私二元論批判は上述したような意味で、この課題に直面せざるを得ない領域だ。そこでいかなる苦闘――というか行ったり来たりを繰り返しながらの前進――がおこなわれているかを観察することは、今回の2巻本で萌芽したRED研のスタンスをさらに展開していくうえで重要な参照軸になるだろう。

「だからちゃんと(最新の・良質な成果を)読まなきゃダメですよ」――これが現時点で私が解釈した7年前のSさんコメントの内実である。

7年かかってようやくスタート地点に帰ってきただけか、との忸怩たる思いはあるが、同時に、公私二元論批判とは異なる道筋をたどって同じこの地点にまでやって来れた、との感慨もある。遠回りの道すがら目にしたものは、このあとのわれわれのフェミニズムジェンダー研究の蓄積との対峙を実り豊かなものにしてくれる、かどうかはわからないが、そうあってくれることを願いつつ取り組むしかない。

ジェンダーの視点から蓄積されてきた、公私二元論が前提としてきた近代的主体を問い直す知や、資本主義社会におけるケア労働の位置づけへの問題提起などは、教育学のなかでは、「教育とジェンダー」という領域に閉ざされたまま周辺化されていて、公教育をめぐる議論の、いわば本丸には、あまり影響を与えていないのではないか、と。

現在でも、ジェンダーなんて他人事だ、と内心では思っている教育関係者は少なくないと感じますが、ジェンダーの視点からの社会観の問い直しは、教育界全体にとって死活問題なはずなのです。

(岡野八代・佐久間亜紀,2023,「対談 公教育再考――ケアをめぐる政治学と教育学の交差」佐久間亜紀ほか編『教育学年報14 公教育を問い直す』世織書房: 3-28.)

『「多様な教育機会」をつむぐ/から問う』書評会(一橋大学〈教育と社会〉研究会)7/13(日)開催のお知らせ

明石書店から出版した「公教育の再編と子どもの福祉」全2巻シリーズに対して、少しずつですが貴重なリアクションをいただく機会が続いています。ショートノティスとなってしまって恐縮ですが、主催者の方から「ぜひ告知してください」とのことでしたので、7月13日(日)に開催予定の書評会について情報共有させていただきます。

一橋大学の〈教育と社会〉研究会の企画・主催で、7月13日(日)13:00-16:00にRED研「公教育の再編と子どもの福祉」全2巻シリーズを対象とした書評会を開催していただくことになりました。〈教育と社会〉研究会2025年7月例会のご案内(https://mail.soc.hit-u.ac.jp/~education/study_group/regular_meeting.html)あるいはこちらのフライヤーをご覧ください。

企画のタイトルは「「教育機会確保法」10年の軌跡――多様な学び保障の再検討」となっています。これは同研究会が発行する雑誌『〈教育と社会〉研究』第35号の特集企画とのことです。同誌は2016年刊の第26号(HERMES-IR : Research & Education Resources)で「争点:多様な学び保障」という特集を組み、「多様な教育機会確保法案」とその関連問題を扱った論考を6本掲載していました。今回の企画は「その10年後」を問うという趣旨でRED研の2冊を取りあげていただいたものと推察します。

評者は市村望さん(一橋大学大学院)、佐川佳之さん(椙山女学園大学)、戸口瑛介さん(一橋大学大学院)、三浦綾希子さん(中京大学)、の4氏です。すでに各評者の原稿をいただいていますが、どのコメントも丁寧かつ真摯に2巻本を読み込んでいただいたもので、こういう読者を得られたというだけで刊行の努力が報われた思いがあります。

各書評で取り上げられている論考は以下のとおりです。

  • 市村望さん

2巻11章:知念渉「教員はどのように居場所カフェを批判したのか」
2巻12章:井上慧真「教員の「指導の文化」と「責任主体としての生徒」観」

  • 佐川佳之さん

2巻5章:山田哲也 「多様な子どもの「支援」を考える――登校/不登校をめぐる意味論の変容を手がかりに」

  • 戸口瑛介さん

1巻6章:内藤沙織「「居られる」と「学びに向き合う」の狭間で――学習支援・不登校支援・夜間中学の実践から」
1巻7章:谷村綾子・阪上由香「中学校にサードプレイスを――中学校内居場所の実践」
1巻8章:前北海「不登校支援の考え方――子どもを中心に考える」

  • 三浦綾希子さん

シリーズ全体

私にとってはとくに、移民の子どもや家族の研究をされてきた立場からシリーズ全体を検討してくださった三浦さんのコメントが刺さっています。

1巻10章の座談会の「転換点――外国ルーツの子ども問題の回」(pp.284-290)の節では、RED研の転換点となった回についての回顧がなされ、その後、移民の子どもの教育機会の問題が「多様な教育機会」検討の射程から落とされていった経緯に触れています。そして、今回の2巻本にこのテーマを正面から扱った論考は収録されていません。この点を三浦さんは問い直し、「公教育の再編を移民の子どもの教育保障も含めて行う場合の論点」として、(1)「国民教育の問い直し」と、(2)「多様な学びの場の間の序列と政治性の問題」の2点を提起されています。

じつは同様の指摘と議論は、この10章のもとになった2023年9月25日開催の第41回研究会「「多様な教育機会」の出発点をふり返る」に先立つ江口怜さん(摂南大学、本シリーズ2巻7章「不登校児への応答責任は誰にあるのか」を寄稿)と編者3名(森・澤田・金子)とのあいだで交わされたやりとりのなかでもありました。江口さんによって「「多様な」教育機会の射程――外国(人)学校、特別支援学校をどう見るか」という論点として指摘されたものです(というより、そういう指摘を自発的にしてくださったので、座談会の司会を江口さんにお願いしたという経緯があります。267頁の座談会冒頭で私が語っているのがこれです)。

「そこでの「多様」概念が結局は時の権力に都合の良い(秩序を乱さない)「多様」しか許容され得ないのではないか、という危惧」というのが江口さんの指摘でした(と私は理解しています)。

私は上記座談会で言及されている契機により、RED研の議論スタイルが確立されてくる過程で、その検討の射程から移民の子どもと障害児が外れた――というより、「を外した」――ことには自覚的でした。自覚はしていましたが、ここに至るまで、そのように自分が(RED研が)ふるまったことの意義と限界、課題を自己批判的に回収することができていませんでした。

今回の三浦さんへのリプライを考えるなかで、この課題にいったんの回答を与えられそうな予感があります。その場合のリプライの仮タイトルは「RED研における「対立の契機」消失の過程をふり返る――「なぜ議論するのか」を問い直す」になりそうです。

ご関心の向きは〈教育と社会〉研究会事務局までメールで事前申し込みを。

著者を交えた読書会:『「多様な教育機会」から問う――ジレンマを解きほぐすために』(明石書店,2024年)

多様な教育機会を考える会(通称RED研_rethinking education 研究会)が昨年、明石書店から刊行した「公教育の再編と子どもの福祉」シリーズの第2巻〈研究編〉『「多様な教育機会」から問う――ジレンマを解きほぐすために』の著者を交えた読書会を開催します。
www.akashi.co.jp

2回にわけて開催します。6月1日(日)13:30-17:30と、7月28日(月)13:30-17:30の2回です。両方とも対面&オンライン(Zoom)のハイブリッド開催です。対面会場は、1回目が東京で上智大学四谷キャンパス、2回目が大阪で阪南大学あべのハルカスキャンパスとなっています。いずれも交通至便です。

本来はRED研の定例研究会(第42回研究会および第43回研究会)の扱いで、研究会メンバーに閉じた企画となるところですが、今回については、RED研のメンバーとお知り合い、もしくはRED研メンバーの授業履修者、といった関係をお持ちのみなさんには広くご参加いただくというセミオープンな形で開催することになりました。

このエントリを目にされた、私と面識のある方(かつての/現在の授業履修者の方や、対面またはオンラインの研究会でご一緒したことのある方など)で参加を希望される場合は、私宛てにメールでその旨お伝えください。追って会場やURLの詳細情報をお送りします。

1回目への参加予定は、以下の5本の論考の著者です。

第1章 多様な教育機会とその平等について考える――ケイパビリティ・アプローチを手がかりに[卯月由佳]
第2章 〈教育的〉の公的認定と機会均等のパラドックス――佐々木輝雄の「教育の機会均等」論から「多様な教育機会」を考える[森直人]


第8章 教育と福祉の踊り場――「居場所」活動の可能性についての考察[金子良事]
第10章 子ども支援行政の不振と再生――トラスト設置手法を導入したイングランドドンカスター[広瀬裕子]


第13章 後期近代における社会的に公正な教育の実践的論理――批判的教育学からの示唆[澤田稔]

ですので、「第Ⅰ部 教育機会を問う、その問い方を問う」と「第Ⅲ部 教育と福祉の交叉を問う」を中心として、そこに第Ⅳ部所収の第13章も混ざる、という感じ。

同じく2回目への参加予定は、以下の6本の著者(プラス、編者である森直人・澤田稔・金子良事の3名)です。

第5章 多様な子どもの「支援」を考える――登校/不登校をめぐる意味論の変容を手がかりに[山田哲也]
第6章 フリースクールにおける「学習」の位置と価値――行政や学校との連携事例に着目して[武井哲郎]
第7章 不登校児への応答責任は誰にあるのか――1970年代以降の夜間中学における学齢不登校児の受け入れをめぐる論争に着目して[江口怜]


第9章 教育制度と公的扶助制度の重なり――就学援助と生活保護を対象として[小長井晶子]


第11章 教員はどのように居場所カフェを批判したのか[知念渉]
第12章 教員の「指導の文化」と「責任主体としての生徒」観[井上慧真]

ですので、「第Ⅱ部 不登校への応答・支援を問う」と「第Ⅳ部 学校・教師を問う」を中心として、そこに第Ⅲ部所収の第9章も混ざる、という感じです。

1本1本の論考に丁寧な書評を加えていく、というスタイルではなく、著者同士が互いの論考への感想やコメントを述べあうなかで、やがてフロアも交えつつ、「この章を読みながら、別の章と○○なつながりも見えてきました」といった形で、当日参加ではない著者による論考にも自由に言及を広げていくような――ちょうど2巻はしがきの末尾に書いた「他のテーマ・論考にも読み広げ、それら相互の関係性や共鳴しあう要素をみいだす作業」を実践するような――読書会にしたいと考えています。

なお、2巻〈研究編〉の諸論考はいずれも、その寄稿の大前提として1巻〈実践編〉
「多様な教育機会」をつむぐ - 株式会社 明石書店所収の序章「バスに乗る――反復される対立構図を乗り越えるために」を踏まえておりますので、参加される場合はこちらもあわせて読んでおかれるのがよいでしょう。

研究会終了後には(対面参加者には)懇親会が予定されています。澤田さんという懇親会でうまい飯を食わせるプロのいることで定評のある――なにせ上述の1巻〈実践編〉第10章の座談会「「多様な教育機会を考える会」の歩みをふり返る――座談会:阪南大学あべのハルカスキャンパス」では「初期研究会の楽しみ」(pp. 278-279)としてわざわざ項を立てて言及してるほどの――RED研ですので、ぜひ対面で参加された方はこちらもあわせて一度体験してみてください。

(仮)不登校とはいかなる問題か:藤根論考(2巻)・前北論考(1巻)と社会システム理論にもとづく検討

「本書、こんなにルーマンっぽい話してるのに対談の中にしかその名が出てこないとは!と思ってたら本文にも出てきた。」

と、contractio先生につぶやかれていた(当該つぶやきへのリンクは省略)2巻シリーズ『「多様な教育機会」をつむぐ――ジレンマとともにある可能性 (公教育の再編と子どもの福祉)①〈実践編〉』『「多様な教育機会」から問う――ジレンマを解きほぐすために (公教育の再編と子どもの福祉)②〈研究編〉』(明石書店、2024年9月刊)についての話をひきつづき。

ということですので、上記contractio先生のつぶやきの「本書」のところは「本シリーズ」と読み替えましょう。「対談の中にしか出てこない」のなかの「対談」というのは、1巻・第10章「「多様な教育機会を考える会」の歩みをふり返る」の座談会のことです。「本文にも出てきた」のところの「本文」とは、2巻・第2章、拙稿「〈教育的〉の公的認定と機会均等のパラドックス」です。

たしかに、私にとって――あくまで「私にとって」です――RED研(多様な教育機会を考える会)での活動は、ニクラス・ルーマンという社会学者の所説を勉強しなおすプロセスでもありました。その成果は、たんにひとつの(たとえば上記2巻・第2章)論考に反映されるだけのものではなく、1巻・2巻をつうじて「多様な教育機会」をめぐる議論とどのように向き合うか、という姿勢そのものに影響をおよぼすものでもありました。

このシリーズには序章が1巻にしかありません。そのいみで、本シリーズはやはりあくまで「2巻で1冊」だと思っています。ですがじつのところ、編集開始当初は2巻にも2巻限定の序章的な性格の文章を収録することが目論まれていました。しかしながら遺憾なことに、その文章は結局ボツになりました。執筆開始時点でつけていた仮タイトルは「教育の規範科学と経験科学の連携にむけて」です。ここに私がルーマンを学ぶことでたどり着いた「「多様な教育機会」をめぐる議論とどのように向き合うか」という課題へのひとつの解決策を提示する構想だったのですが、それは刊行までには間に合いませんでした。したがって、本シリーズは――少なくとも私にとっては――未完です。

この文章がボツになったということは、「「多様な教育機会」をめぐる議論とどのように向き合うか」という課題への解決策の提示が未完だということです。そして「「多様な教育機会」をめぐる議論とどのように向き合うか」という課題が「1巻・2巻をつうじて」本シリーズ全体にとっての課題である以上、これへの解決策のさらなる探究は、刊行時点で1巻と2巻にわかれた〈実践編〉と〈研究編〉とを関係づける(関係づけ直す)作業にほかなりません。

以前、こちらのエントリ(「2巻で1冊」、RED本――『公教育の再編と子どもの福祉』【全2巻】合評会の予習用① - もどきの部屋 education, sociology, history)では本シリーズの特徴のひとつとなっている充実した巻末索引を利用して「1巻と2巻をブリッジ」して読む読みかたの提案をしました。とはいえ、それ以上なんの示唆も与えず読者のみなさんに「ということでひとつみなさん、なんでもいいのでご自由に1巻・2巻をブリッジさせてお読みください」とだけ丸投げしてあとはお任せ、でうまくいく話でもないでしょう――という気づきを得ました。むしろ、編者である私(たち)がある程度積極的に、1巻・2巻をブリッジさせる読み方のある程度のバリエーションを例示するモデルをプレゼンする企画があってよいのかも、と思い至ったしだいです。

そうだとして、本シリーズが完成し刊行された時点であらためて全体を通読した私の念頭にまっさきに浮かんだのは、2巻・第4章の藤根雅之さんによる「不登校や多様な教育機会に関する社会学的研究は議論を開き継続させていけるのか」と、第1巻・第8章の前北海さんによる「不登校支援の考え方――子どもを中心に考える」をブリッジした検討です。それに仮タイトルをつけてみたのが本エントリの標題です。

私の理解では、2巻・第4章の藤根論考こそ「教育の規範科学と経験科学の連携にむけて」という課題にいちばん肉薄して――そのうえでその課題への悲観を表明して――いる文章です。読んでいただければわかりますが、藤根論考のタイトルは修辞疑問文になっているとみるべきです。つまり、「議論を開き、継続していくなんて無理じゃね?」と。

不登校に関する研究やそれに伴う形で注目されてきた多様な教育機会に関する研究は、「議論していくプラットフォーム」を開き継続させていくことができるのだろうか。もしできたとしても、そもそもそれを何のためにやるのかというところまで問い直す議論はどこまでできるのだろうか。そして「アカデミックな言語を新たに作りだそうとする模索」はこの社会のなかでどのような意味を持ちうるのだろうか。その模索自体と、その模索が位置づく社会を問い直し続けていくことはどこまでできるのだろうか。


研究者がある立ち位置や観点から研究を行う事を批判したいのではない。それはこの社会で生きながら社会を論じるという社会科学の性質上避けて通れないことであろう。不登校の研究のあり方をめぐる問い直しの議論が繰り広げられてきた歴史を踏まえて本章が問いたいのは、その議論を現在もそしてこれからも継続していくことがどれだけ現実的なのだろうかという疑問である。(藤根 2024: 122)

藤根論考に「連携」にむけた展望が書かれてあるのではありません。むしろ逆です。藤根論考はそこを悲観している。その悲観はもしかしたら正しいのかもしれない、と私は思う。でも同時に、まだ考えるべきことが考えつくされるまえに表明された悲観ではないか、という直感がある。では「まだ考えるべきこと」とはいったいどこに、どのようにあるのか。そのヒントのひとつはここ(実践(者)指向的な教育の社会学的啓蒙(?) - もどきの部屋 education, sociology, history)にすでに書いた。これをもう少し展開したい。そのための検討(読書会)である。

私の理解では、もしも藤根論考がいうとおり「その議論を現在もそしてこれからも継続していくことがどれだけ現実的なのだろうか(いや現実的ではない)」が正しいのだとしたら、1巻・第8章の前北論考のような実践者による模索だって「現実的ではない」。「そもそもそれを何のためにやるのか」、「その模索が位置づく社会を問い直し続けていくことはどこまでできるのだろうか」――この問いははたして研究者にだけ向けられた修辞疑問といえるだろうか。そのような限定が可能な主張だろうか。

だからまだ、考え、そして議論すべきことがある。いや逆である。本シリーズがこういうかたちで刊行されたいまだからこそ、これを踏み台に考えるべきことの所在がみえてきた。そのためにも、1巻と2巻を別々に読んでいてはいけない。両者をブリッジして考えなければならない。

そのように考えた私が最初に提案しようと思ったテーマが標題である。不登校とは問題なのか。問題だとしたら、それはどのような問題なのか。というか、問題とはなんですか? ――みたいな。本エントリを書き始めた当初はこれを「スタート地点」に話を始めるつもりだったのですが、ここにたどり着くまでにすでに字数が尽きました。本日はこれまで。