2巻〈研究編〉第2章「〈教育的〉の公的認定と機会均等のパラドックス」――田中萬年先生への14年越しの卒論提出

さて、『公教育の再編と子どもの福祉』【全2巻】合評会(9月29日10時~書評会申し込み_多様な教育機会を考える会出版刊行記念@日本大学文理学部)の予習用と題した連続エントリも今日で4回目、これでとりあえず打ち止めにする予定です。

今日は2巻〈研究編〉の第2章として寄稿した論文「〈教育的〉の公的認定と機会均等のパラドックス――佐々木輝雄の「教育の機会均等」論から「多様な教育機会」を考える」の執筆者(=自分)への3つの質問に対する回答文です。

このブログを「佐々木輝雄」で検索してもらうと16個のエントリがヒットするはずです。それぐらい多く言及してきた人物です。そのいちばん最初の日付はじつに2010年6月23日です(佐々木輝雄と「教育の機会均等」・序 - もどきの部屋 education, sociology, history)。

そこに書いてあるとおり、田中萬年先生から、ほんとにただの(=「無料」と二重の意味で)ご厚意で『佐々木輝雄職業教育論集』【全3巻】(多摩出版,1987年)を送っていただいたのが最初でした。また、佐々木輝雄が1974年に日本教育学会の『教育学研究』に投稿して不掲載のまま終わった投稿論文「教育刷新委員会第13回建議の『教育の機会均等』概念について――第3項建議を中心に」の本文とその周辺資料を編纂した私家版の資料集もこのときあわせて送っていただきました。

この論文は14年前の田中萬年先生のご厚意に応えようとした、現時点での私の「卒業論文」です。長く、佐々木輝雄の言ってる(書いてる)ことはほとんど何もわからない状態が続きました。あまりにも時間がかかり過ぎたので、これがふつうの大学だったらとっくに放校処分になっているところですが、なんとか自分なりの答えを出しました。ご笑覧いただけたらうれしいです。

①この論文で取り組んだのは、どのような課題ですか?
この論文では、佐々木輝雄という研究者が論じた「教育の機会均等」論を解読する作業を行いました。佐々木輝雄は1938年生まれで1985年に47歳で死去した研究者で、職業教育・訓練論を専門とし、1968年から1985年に死去するまで職業訓練大学校に在籍しました。この人が1975年と76年の2年間に「教育の機会均等」を主題とする論文を集中的に書いています。


その内容は、戦後直後の占領期に内閣総理大臣の諮問機関として戦後教育改革の重要事項を調査審議した教育刷新委員会が行ったある建議――第13回建議「労働者に対する社会教育」――に注目し、建議に至る審議過程で交わされた議論のなかに「二つの異質な「教育の機会均等」概念」とその「対立」を見出すものです。


佐々木はこの「二つの異質な「教育の機会均等」概念」に、「学校教育制度内/学校制度外」とか、「組織志向/個々の教育行為志向」とか、「制度的整合性/非整合性」とか名称を与えます(が、これらはすべて同じ「二つの異質な「教育の機会均等」概念」の区別を言い換えたものです)。そして、もしわれわれが「教育の機会均等」の実質的かつ完全な実現を追い求めるなら、この「二つの異質な「教育の機会均等」概念」のあいだにある「対立を発展させる」ことが必要だと述べます。いいかえると、「教育の機会均等」の実質的な保障は、この相対立する「二つの異質な「教育の機会均等」概念」を同時に追求するという「パラドックス」のもとでしか実現しえない、と主張します。


私は以前から佐々木による「教育の機会均等」論は重要そうだと直感しながら、「二つの異質な「教育の機会均等」概念」を同時に追求する「パラドックス」というのが一体どういうことを指すのか、なぜ「教育の機会均等」の実質的な保障は「パラドックス」のもとでしかなされえないといえるのか、そして、もしそれが本当に「パラドックス」であるならそもそも「教育の機会均等」というのは実現不可能な理想でしかないのか、等々といった疑問を解消できずにいました。


今回の論文は、この疑問に答えを与えるものです。

②その課題に対して与えた回答は、どのようなものですか?
回答はつぎの2つのステップにわかれます。まず、佐々木の述べる「「教育の機会均等」のパラドックス」とはいかなる事態を指すのか、つぎに、「教育の機会均等」は実現不可能な理念でしかないのか、実現可能なのだとしたらそれはいかにしてか、という手順で答えました。


われわれが社会にある何らかの問題の解決を試みようとするとき、あるいは、人びとのより望ましい生のあり方を追求しようとするとき、準拠しなければならない理念や正義が二つ(複数)あり、そのいずれも追求しなければならないが、同時に、二つの理念のあいだには相互に矛盾する側面がある、というのは普遍的に直面せざるをえない事態です。ここで二者択一の発想になって、どちらか一方のみの追求に限定してしまい、他方を忘却・無視してしまうと、われわれはその問題の解決可能性を永遠に手放し、解決不可能な難問の前で立ちすくむことになります。


「教育の機会均等」という課題についても同様です。一方で教育制度の整合性を重視して、行き止まりのルートのない、開放的な学校体系を整備・維持することが重要ですが、他方で、現実の不平等な社会のもとでは学校制度だけで「教育の機会均等」を完全に保障することはできないので、学校体系の外部にも教育機会を用意する必要があります。ですがそうすると、今度はそれが教育の「制度的整合性」を裏切る「袋小路」を用意してしまうことになる、という矛盾があります。この両立不可能な課題を、しかし、同時に追求することを放棄してはならない、いいかえると、二つの「教育の機会均等」概念のあいだにある矛盾にどちらか一方を消去することで対応してはならない――これが佐々木の主張の第一の要素となっています。


では、われわれには何ができ、何をなすべきなのでしょう。佐々木によればそれは、解決不可能な難問にみえる課題に潜むパラドックスを明るみに出し、そのパラドックスを「展開」することです。「パラドックスを展開する」というのは、そのつどの状況のもとで可能な解決策を暫定的に講じつつ、その解決策のもとで新たに発生するだろう次なる問題状況に対しては、その新たな状況のもとで、その状況に応じた可能な対策を新たな暫定的解決策として講じ、またその解決策のもとで生じた新たな問題に対しては……という営みを飽くことなく、絶えることなく継続することです。


すなわち、自らが直面する課題――今の場合は「教育の機会均等」の実現――に永遠・絶対・普遍の唯一解が存在するという仮定のほうを捨て、部分的で一時的な暫定解(としてしかありえない解決策)を不断に産出しつづけること、そのための問題把握と採りうる解決策の探索をやめないこと、となります。


これが佐々木の「教育の機会均等」論の中核にある主張です。

③こうした課題に取り組むことには、どのような意義がありますか?
そもそも、私が今回のRED研の著書のなかで佐々木の「教育の機会均等」論をとりあげようと思った理由は、佐々木の注目した教刷委第13回建議「労働者に対する社会教育」の第3項が「技能連携制度」案を建議するものだったからです。


技能連携制度というのは1961年に実際に成立する制度ですが――現在の通信制高校はこの制度とともに誕生しました――、教刷委が建議したのはこれとは重要な一点で異なります。それは工場などの職場に設けられた技能者養成所や見習工教習所といった技能養成機関で行われた活動や行為に対して、高校の授業と同じ資格の「単位」を授与する、ということは、そうした「正規の学校(=学校教育法の第一条に規定されたいわゆる一条校)」でない場・組織・機関で行われた活動を「正規の学習」として公的に認定するという内容をもつものでした。


重要なのは、単位認定にあたって、これら「学校にあらざる教育機関」に学校としての組織認定をクリアすることを求めなかったという点です。学校にならなくても、学校でないまま、そこでの活動を「正規の学習」として認定するということです。これは「多様な教育機会確保法案」が当初描いていたのと同種の構想です。学校としての組織認定を受けていない場や組織――フリースクールをはじめとする民間組織や家庭――で行われた活動・行為を「正規の学習」として公的に認定することを規定した「個別学習計画」案です。


この構想は、「学校である」という組織の規定と関係なく、ある活動や行為が「(正規の)教育である」ということをどのような制度的規則のもとで公的に認定していくか、という課題に取り組むものでした。本論文が明らかにした佐々木輝雄の「教育の機会均等」論の中核にあった主張は、この「多様な教育機会確保法案」の当初構想をさらに展開していこうと試みる運動や作業に重要な指針を与えるものだといえるでしょう。


佐々木によれば、1961年に実際に成立した技能連携制度は、「(通信制)高校に在籍する」という条件を外さなかったので、「二つの異質な「教育の機会均等」概念」のうちの一方だけ――「学校制度内教育の機会均等」だけ――を追求したものだといいます。戦後日本の教育全般が同様の方針を採ったので、そこでの「教育の機会均等」は部分的な保障にすぎないものとなり、その結果、高学歴化という形で「教育の機会均等」の保障を限定的には実現しつつも、その内実は「学校間格差の拡大」や「学校教育の空洞化」を進展させてしまうものだったという評価を下します。


ではどうすればよかったのか、という話になると(職業教育・訓練研究を専門とした)佐々木は、(1)「職業教育の人間形成的意味」についてもっと掘り下げるべきだったこと、それと同時に、(2)職業教育と対になるべき「普通教育」にかんする具体的検討をなすべきだったこと、の2点を指摘します。


私は、これは当たり前のようにみえて、とても重要な指摘だと思います。「多様な教育機会確保法案」が報道されて、「個別学習計画」案が問題視されたときに、ではフリースクールで行われている活動の「人間形成的意味」はなんなのか、とか、法案の名称にも入っていた「普通教育」の内実をどのように考えればよいのか、といった検討に踏み込んだ議論がどれほどあったでしょうか。


これはほかならぬ教育学が取り組むべき課題だと思いますし、RED研に集う人びとのあいだでも共有し取り組まれ続けねばならない課題だと思います。フリースクール不登校支援に携わってこられた1巻8章の前北海さんは、いみじくも同じポイントを指摘されています(1巻: 212-3頁)

最後、太字にしたようなかたちで、この2巻本の1巻〈実践編〉と2巻〈研究編〉とは、そこかしこで共鳴しあっています。ここの太字にした箇所以外での共鳴を、ぜひ読者のみなさん自身によって見出し、引き継いでいただけたら、編者としてこれ以上の喜びはありません。

だからみんな、2巻セットで買ってね!!

執筆者(=自分)への3つの質問の回答編(2)――1巻1章「「多様な教育機会」と教育/福祉――ジレンマのなかで、ジレンマと向き合う実践の論理」

『公教育の再編と子どもの福祉』【全2巻】合評会の予習用③です。3つの質問のうちの1つ目の質問「①RED研に参加し(続け)たのはなぜですか?」は、前回のエントリ(執筆者(=自分)への3つの質問の回答編(1)――『公教育の再編と子どもの福祉』【全2巻】合評会の予習用② - もどきの部屋 education, sociology, history
を見ていただくことにして、本日は1巻1章「「多様な教育機会」と教育/福祉――ジレンマのなかで、ジレンマと向き合う実践の論理」について。

②この論考で取り組んだのは、どのような課題ですか?
1章では、序章で取り組んだ課題――RED研ウェブサイトにある多様な教育機会を考える会 - 本会の趣旨のページの解説――のうち、説明を取り残していた最初のセクション〈何を議論するのか〉の部分に読者から寄せられるであろう疑問に応えようと試みました。


〈何を議論するのか〉のセクションでは、RED研が検討対象とする「多様な教育機会」の例示が列挙されていますが、そこでは「多様な教育機会確保法案」に直接かかわった「多様な教育機会」以外にも大幅に対象範囲が拡張されており、とくに貧困対策や生活困窮者支援あるいは居場所事業など、制度的には福祉領域に位置づく育ちの場や支援の取り組みまでが含まれています。つまり、RED研が「多様な教育機会」をとらえるさい、立ち上げ当初からずっと「教育と福祉の区別」(以下、教育/福祉と略記)という視角が採用されてきたということです。


なぜフリースクールや夜間中学校以外の、法案とはもともと何の関係もなかった支援の場まで含めて「多様な教育機会」という同じカテゴリーのもとで検討するのか、そこにどのような意義があるのか、さらにそのさい教育だけでなく福祉領域まで見据えて、両者を同時に検討対象とする視角(=教育/福祉をとらえる視角)が採用されるのはなぜか、それによってどのような考察が可能になるのか、といった疑問に応える課題に取り組みました。

③その課題に対して与えた回答は、どのようなものですか?
教育と福祉それぞれの領域の制度化のプロセスをひも解くと、近代化の当初から両領域間の線引きや実践・事業としての内実の対比が問題とされてきたことがわかります。つまり、教育と福祉にはもともと互いに通底する側面と、同時に鋭く異なる性質との双方の側面があるということです。そこで、いったん抽象度を上げて、教育と福祉を比較する観点からそれぞれの特質を検討し、教育と福祉それぞれの領域で支配的なコミュニケーションのあいだに認められる同一性と差異性について考察しました。


その結果として出した答えは、教育と福祉の領域で繰り広げられる実践はいずれも「人のよりよい・より望ましい方向への変化にむけて働きかけるコミュニケーション」だという点で同一ですが、実践のスタートとゴールが異なる、いいかえると、実践が踏まえる「前提」と、実践の「達成」とされるものの扱いとが二つの領域のあいだでは対照的だということです。


教育では実践のスタート時点での対象者の同質性が前提とされ、仮にその前提を裏切る現実があったとしてもその探索と対応を任務とするのではなく、同質性の前提を踏まえたその後の「よさ・望ましさ」にむけて(のみ)コミュニケーションを継続させていく点で特徴的です。それに対して福祉では、現状においてあるべき「標準」が満たされていない「欠如」の実態の探索とそれへの対応を主眼としてコミュニケーションを継続させる一方で、その働きかけの結果「標準」が満たされればそこでコミュニケーションは打ち切られ、それ以上の「よさ・望ましさ」にむけては接続していかない点において教育とは対照的だということです。


教育と福祉には同一性の側面があるために、同じ実践をめぐる議論の場を共有することが可能であり、両者の「連携」や「協働」が要請されることにもなりますが、同時に、対照的な側面もまたあるからこそ、両者のあいだの「連携」や「協働」の場面では、互いの前提とする規範や論理が対立し、その対立する規範・論理のあいだでのジレンマに直面せざるをえない状況が常態化することを示しました。


しかしながらそこでは同時に、ジレンマに直面せざるをえない状況は大きな「メリット」を伴うものでもある、という見方を強調しました。むしろ、「人のよりよい・より望ましい方向への変化にむけて働きかけるコミュニケーション」に付随するジレンマを自覚できず、あるいはそれを無視することで「自らが選択した実践こそ最善である」ことを自明視してしまった働きかけほど独善的で危険なものはないからです。そのような実践が横行してしまうもとでは、「「教育社会学的」批判のテンプレート」が危惧するような事態も現実のものになってしまうでしょう。


教育/福祉の視点とは、そうした働きかけがジレンマに満ちたものであることを自覚できるようになるために必要なものであり、そのジレンマを直視し、引き受け、向き合いながら働きかけを持続する姿勢こそが、「誰も取り残されることなく、学び、育つ権利が保障される社会の実現という理想」にむけて求められる実践の論理となっていること/なるであろうことを結論としました。

9月29日(日)には多様な教育機会を考える会(rethinking education研究会、以下RED研)からでる以下のシリーズ全2巻の合評会が開催されます。対面参加の申し込み受け付けは打ち切られましたが、オンライン参加の申し込みは前日28日(土)まで可能です。

合評会申し込みフォームはこちら。https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSdNYk963bWdV85F_9stBVbuZEjg_f2UiLIbMg3Wf69gof9xmQ/viewform

執筆者(=自分)への3つの質問の回答編(1)――『公教育の再編と子どもの福祉』【全2巻】合評会の予習用②

9月29日(日)には多様な教育機会を考える会(rethinking education研究会、以下RED研)からでるシリーズ『公教育の再編と子どもの福祉』全2巻の合評会が開催されます。対面参加の申し込み受け付けは終了しましたが、オンライン参加の申し込みは前日28日(土)まで可能です。
「多様な教育機会」をつむぐ――ジレンマとともにある可能性 (公教育の再編と子どもの福祉)
「多様な教育機会」から問う――ジレンマを解きほぐすために (公教育の再編と子どもの福祉)

合評会申し込みフォームはこちら。
9月29日10時~書評会申し込み_多様な教育機会を考える会出版刊行記念@日本大学文理学部

合評会チラシはこちら。

「合評」「書評」と謳っていますが、前半は編者と1巻第Ⅱ部・第Ⅲ部執筆者の方からの振り返りなどをメインに進め、後半で末冨芳さんから2巻本全体への(かな?)コメントをいただく、のような構成になっているはずです。去る8月29日に日本教育学会で開催した(基本的に学会員のみが参加する)ラウンドテーブルでは2巻〈研究編〉のみを対象に扱ったので、公開企画となるこちらは1巻=実践畑の方を(どちらかというと)メインターゲットとして考えています。

さて、ある本の著者が参加する「合評会」のような場では、著者自身による簡潔な自著紹介(上記2巻本のような論考集の場合は「論考紹介」)があると便宜です。とりあえず、その場でその論考についていちばんよく知っているのは著者であるはずなので、その人自身による「解説」があると助かります。たとえば、以下3つの質問への回答のようなかたちで。

①この論文で取り組んだのは、どのような課題ですか?
②その課題に対して与えた回答は、どのようなものですか?
③こうした課題に取り組むことには、どのような意義がありますか?

これへの著者による「回答」と評者の「評」とを対置すれば、聴衆にとっても話に入りやすい、というわけです。

上記の質問は、contractioさん(https://socio-logic.jp/)企画の書評会等で常用される質問ですが、この質問に回答しようとすると、論考で展開していた議論を別の言い方に言い直す(パラフレーズする)ことが行われます。それはすでに読んでいる人の理解も深めますし、まだ(十分に)読めていない人にも必要最低限の情報提供となるでしょう。contractioさん企画のニクラス・ルーマンという社会学者の書いた本をもとにした講演でも――各質問の趣旨の明示とともに――用いられています(たとえば以下、
酒井泰斗+三谷武司「ニクラス・ルーマン解読3:組織合理性の社会学─『目的概念とシステム合理性』を読む(質疑応答)」(2016年04月-06月、朝日カルチャーセンター新宿) - 日曜社会学

Q01. 本書で ニクラス・ルーマンが 取り組んだのはどのような課題ですか。
 -まだ本を読んでいない方を念頭に、「何について書かれた本なのか」を教えてください。
Q02. それぞれの課題に対して、ルーマンが与えた回答はどのようなものですか。
 -すでに本を読んだ方にとっての再読のガイドとなることを狙って、この本のポイントがどこにあるかを教えてください。
Q03. こうした課題に取り組むことにはどのような意義がありますか。
 -本書に直接記されていないことやアカデミックな文書の中にはふつう記されないが 知っておくと理解に資するような背景的な状況・文脈などを伝え、読者が、より広いコンテクストのなかで本書の評価を行えるよう手助けをしてください。

これにもとづくと、編者である私には2巻本のシリーズ全体を対象としたこれら3つの質問への回答が求められるところになりそうですが、ここではそうではなく、私が寄稿した一つひとつの論考を対象にした「執筆者への3つの質問の回答」を順に公開していきましょう。

といいますか、このかん私自身が1巻・2巻に寄稿してくださった執筆者のみなさんに「執筆者への3つの質問」を投げかけていました。以下は、その質問を自分自身に対しても同様に投げかけてみた、それへの回答となります。ただし、今回私が執筆者のみなさんに投げた質問は1巻と2巻で微妙に違っています。

-1巻〈実践編〉の執筆者のみなさんへ
[RED研について]
①RED研に参加し(続け)たのはなぜですか?
[寄稿した文章について]
②今回の本に寄稿した文章で取り組んだのは、どのような課題ですか?
③その課題に対して与えた回答は、どのようなものですか?

-2巻〈研究編〉の執筆者のみなさんへ
①今回の本に寄稿した文章で取り組んだのは、どのような課題ですか?
②その課題に対して与えた回答は、どのようなものですか?
③こうした課題に取り組むことには、どのような意義がありますか?

つまり、1巻〈実践編〉への執筆者の方には、そもそもなんでこんな――いささか風変わりな――研究会に参加し(続け)たんですか? という質問に替えています。これは素朴に、私が一度みなさんに尋ねてみたかった質問だったからです。

さて、私は1巻の「序章」と「1章」、2巻の「2章」を書いていますので、今日から3回にわけてご紹介します。9月29日の合評会でも自分の担当箇所について話す機会はありそうなのですが、与えられた時間をみると、とてもじゃありませんがすべてを語る時間は到底ありそうになかった――たぶん与えられた時間の3倍はないと話し終えられない――ので、あらかじめこちらで少し。

前フリが長くなりました。以下、今日は1巻・序章「バスに乗る――反復される対立構図を乗り越えるために」について。

[RED研について]
①RED研に参加し(続け)たのはなぜですか?

私はRED研を立ち上げた張本人のひとりですので、RED研のウェブサイト多様な教育機会を考える会 - 立ち上げの経緯にも書いたとおり、いちばん最初は「多様な教育機会確保法案」に潜む問題点や危険性についての問題意識・危機意識をもったことがきっかけです。ですが、その認識が素朴すぎることに気づいてからは、この法案の提起した問題がそれ以前に参加していた共同研究――1巻10章の座談会で紹介している「広田理論科研」、広田照幸・宮寺晃夫編『教育システムと教育――その理論的検討』(世織書房、2014年)――で考察していた問題と重なっているんだということに思い至りました。それまでアカデミックにのみ議論していた問題について、現実のほうがものすごいスピードで追い越そうとしているように感じられて、これにキャッチアップしていかないといけないと考えたことがひとつめの理由です。


RED研を立ち上げてから3年目が終わるころ、現場で支援の取り組みにかかわってこられた実践者や運動家の方々による話題提供が多くなってきたころからは、その人たちの話す内容が――少し語弊があるかもしれませんが――ただひたすら興味深くて、それを聞くことが楽しみになって続けてきたところがあります。


もともと私は調理しているコックさんや板前さんの手元をずっと見ていられるカウンター席での食事とか、通りすがりの建築現場で作業している大工さんたちの仕事ぶりを立ち止まって凝視する癖があるというか、いつまで見ていても飽きないぐらい好きなのですが、それと似た感覚があります。プロのやる仕事を見たり、プロが自分の仕事について語るのを聞いたりするのが好きといいますか。


まず、自分にとって「赤の他人」でしかないはずの誰かのために、ここまで真剣に取り組む人がいるということ、そういう人がいま目の前にいて話をしている、ということが私にとってとても重要な出来事です。その人が自分の取り組みについて語るなかに、私には到底思いつかない――でも言われてみると「なるほど」と思える――さまざまな工夫やスキル、配慮や洞察・分析があることに気づかされます。さらに、それらの人がそれぞれの現場でモヤモヤしたまま自分でもうまく言語化できずにいる悩みや考えを、時間をかけてなんとか言葉にしようとする営みのなかに自分も引き込まれ、いっしょに考え始めることになる――そういう経験を繰り返すことが、私にとってとても重要な時間になりました。


もちろん、「いっしょに言語化しようとする」営みの結果、それがアカデミックな考察につながることにも意義を見出していましたが、それ以前/以上に、「人のよりよい・より望ましい方向への変化にむけたコミュニケーション」にかかわる人びとの「プロ」性――これは必ずしもそれを「職業」にしているということを意味しません――や専門性、そしてそうであるがゆえにこそ抱えることになる悩みや手応えや憤りや喜びなどの表明に触れる経験を毎回の研究会でできることが、私がここまでRED研を続けてこられた最大の理由ではないかと思います。

[寄稿した文章、1巻・序章「バスに乗る――反復される対立構図を乗り越えるために」について]
②今回の本に寄稿した文章で取り組んだのは、どのような課題ですか?

序章では、RED研がどういう集まりなのか、そして、この2巻本がどのような主題を、いかなる角度・スタンスから扱う本なのかについて解説・紹介する課題に取り組みました。とはいえ、RED研がどういう集まりなのかついては、すでにRED研ウェブサイト多様な教育機会を考える会 - 本会の趣旨のページに、〈何を議論するのか〉、〈なぜ議論するのか〉、〈何をめざして議論するのか〉という3つのセクションに分けて簡潔にまとめた文章があります。したがって、まずはこれを冒頭で紹介したうえで、そうしたスタンスが選び取られた/選び取られなければならない「必然性」をあらためて説明する必要があります。


序章ではこの課題に取り組むにあたって、まず公教育(の形成と変容)を福祉国家の形成と再編という大きな歴史的趨勢のもとでとらえる視角を採用したうえで、ある歴史的局面ごとの教育をめぐる議論に特徴的な、それぞれの時代に反復されがちな対立構図の移り変わりを示しました(3節)。そして、そうした移り変わりの次なる局面への移行が求められている現在、という時代背景のもとでRED研の議論スタイルが生まれてくる必然性があったこと、そしてこのような2巻本が刊行される意義があることを説明する、という手順で議論を進めました。


その結果、この序章は上記ウェブサイト「本会の趣旨」ページの文章のうち後半2つのセクション、すなわち「多様な教育機会」について論じるRED研が、なぜそれについて議論する必要がある(と考えている)のか、そして、何をめざして・何のためにそれを議論するのかという会としての存在理由や最終目標に重点を置いた説明になっていると思います。

③その課題に対して与えた回答は、どのようなものですか?
まず、戦後日本の教育をめぐる議論の対立構図の移り変わりを以下のように描きました。第2次世界大戦後の福祉国家形成期には、教育政策の多くを立案・推進する与党・自由民主党&文部省と、その動きを戦前への回帰・復古を意図した「国家による教育への介入」とみなして強く批判する野党・社会党日教組とのあいだにあった保守・対・革新の政治的イデオロギー対立が、教育をめぐる議論で反復される構図の基盤にありました。


それが次の局面へと移るのは、1984-87年の臨時教育審議会答申が打ち出した「教育の自由化」路線への評価をめぐる対立構図の反復が見出されるようになる1990年代です。学び、成長する人びとの「自由」を重視して現状の改善をめざした制度改革の構想と、それを臨教審の「教育の自由化」論と同じく序列化・競争・不平等の拡大をもたらす「新自由主義的」な改悪だとして批判・棄却する議論との対立です。


この対立構図の反復のもとでは、人間の多様性を深刻に受け止め重視したうえで「決定権は、その人にある」という根本的な自己決定=自由の実現をめざす教育改革の構想や実践すら「格差拡大をもたらす改悪でしかない」といって切り捨ててしまう定型的な批判――これを「「教育社会学的」批判のテンプレート」と名づけています――が浸透・定着してしまいかねません。RED研は「教育の自由化」論以降にあらわれた新たな対立構図において、その一方の極をなした「「教育社会学的」批判のテンプレート」がもたらす「副作用」を問題視して誕生します。


自由=自己決定の強調が「自己責任論」の増長と結びつくことは絶対に回避しなければなりませんが、自由=自己決定こそがあらゆる人への尊厳の根底に据えられるべきことも譲ってはならない一線です。「多様な教育機会確保法案」の提起した問題も同様です。つまり、この法案は「そのまま通してはならない法案」ではありましたが、同時に、「潰してはいけない法案」でもあったのです。それゆえに、RED研はウェブサイト「本会の趣旨」ページの文章にあるようなスタンスを選んだのだ、と結論しました。


政策批判の「副作用」を重視するということは、言い方を変えると、ある政策への批判がひるがえって別様の政策を推進・正当化する機能をもってしまう可能性に自覚的になる、ということでもあります。教育実践の主軸を子どもの自由と主体性を重視した「子ども中心主義」的なものに置き換えようとして推進される政策への批判言説が、「子どもの規律訓練」を名目にした抑圧的管理を正当化する機能をもってしまう、のように。


つまり、ある構想の推進者も、その批判者も、どちらも同じ社会を構成して未来を展望する、「同じバスに乗り合わせた乗客であり、乗員なのだ」とする前提のもとで議論を交わし、そのつどの暫定的な合意を形成していかなければなりません。序章の最後では、RED研が選んだスタンスから帰結されるこの規範を、「バスに乗る」という比喩のもとで表現しました。

今日はここまで。

「2巻で1冊」、RED本――『公教育の再編と子どもの福祉』【全2巻】合評会の予習用①

次のエントリを書くのが遅れているうちに、明石書店さんのウェブサイトに多様な教育機会を考える会(rethinking education研究会、略称RED研)が出す2巻本(以下、RED本)のページを詳細目次つきで作っていただきました。これで各章の内容がかなり想像できるようになったのではないでしょうか。
www.akashi.co.jp
www.akashi.co.jp
ただし、これは各章の内容・構造を見通すにはよいのですが、著書全体の構造が見えにくくなります。他方で、前回のエントリ(なぜ語「多様な教育機会」をタイトルに含む本を出したのか - もどきの部屋 education, sociology, history)でリンクを貼ったアマゾンのページでは各章タイトルだけの目次なので、著書全体の構造は見やすいのですが、今度は逆に各章の内容が推し量りにくくなっています(あと、アマゾンのページには執筆者紹介(編者以外は簡略版ですが)があるので、それもプラスポイントです)。せめてサブタイトルはあっていただきたい、と。

絵に描いたような帯に短したすきに長し状態。

ということで、こちらではサブタイトル付きの章構成をば(執筆者紹介はアマゾンのページをご覧ください)。

  • 1巻〈実践編〉『「多様な教育機会」をつむぐ――ジレンマとともにある可能性』

はしがき: 森 直人
序章: 森 直人 バスに乗る――反復される対立構図を乗り越えるために

第Ⅰ部 「多様な教育機会」を考える――ジレンマの見方
第1章: 森 直人 「多様な教育機会」と教育/福祉――ジレンマのなかで、ジレンマと向き合う実践の論理
第2章: 金子 良事 「無為の論理」再考
第3章: 澤田 稔 教育におけるジレンマと緩さの意味論――「社会的に公正な教育」の構想とその実践的課題=可能性

第Ⅱ部 「多様な教育機会」をつくる――ジレンマのなかの実践
第4章: 中田正敏 インクルーシブな高等学校づくりにおける実践の端緒――アイデア会議、オンザフライミーティングなどにおける水平型コミュニケーションの可能性について
第5章: 高嶋 真之 地方の高校生と都市部の大学生をつなぐ場と機会の創出――バーチャル空間を活用した公設型学習塾の実践の現在地
第6章: 内藤 沙織  「居られる」と「学びに向き合う」の狭間で――学習支援・不登校支援・夜間中学の実践から
第7章: 谷村 綾子・阪上 由香 中学校にサードプレイスを――中学校内居場所の実践
第8章: 前北 海 不登校支援の考え方――子どもを中心に考える

第Ⅲ部 「多様な教育機会」をふり返る――ジレンマの軌跡
第9章: 高山 龍太郎 教育機会確保法理解のためのガイド
第10章: 森直人・金子良事・澤田稔/聞き手:江口怜 「多様な教育機会を考える会」の歩みをふり返る

あとがき: 澤田 稔 ジレンマの積極的受容としての「緩さ」再考

  • 2巻〈研究編〉『「多様な教育機会」から問う――ジレンマを解きほぐすために』

はしがき: 森 直人

第Ⅰ部 教育機会を問う、その問い方を問う
第1章: 卯月 由佳 多様な教育機会とその平等について考える――ケイパビリティ・アプローチを手がかりに
第2章: 森 直人 〈教育的〉の公的認定と機会均等のパラドックス――佐々木輝雄の「教育の機会均等」論から「多様な教育機会」を考える
第3章: 仁平 典宏 「バスの乗り方」に関する一試論――教育社会学の「禁欲」について
第4章: 藤根 雅之 不登校や多様な教育機会に関する社会学的研究は議論を開き継続させていけるのか

第Ⅱ部 不登校への応答・支援を問う
第5章: 山田 哲也 多様な子どもの「支援」を考える――登校/不登校をめぐる意味論の変容をてがかりに
第6章: 武井 哲郎 フリースクールにおける「学習」の位置と価値――行政や学校との連携事例に着目して
第7章: 江口 怜 不登校児への応答責任は誰にあるのか――1970年代以降の夜間中学における学齢不登校児の受け入れを巡る論争に着目して

第Ⅲ部 教育と福祉の交叉を問う
第8章: 金子 良事 教育と福祉の踊り場――「居場所」活動の可能性についての考察
第9章: 小長井 晶子 教育制度と公的扶助制度の重なり―就学援助と生活保護を対象として
第10章: 広瀬 裕子 子ども支援行政の不振と再生――トラスト設置手法を導入したイングランドドンカスター

第Ⅳ部 学校・教師を問う
第11章: 知念 渉 教員はどのように居場所カフェを批判したのか
第12章: 井上 慧真 教員の「指導の文化」と「責任主体としての生徒」観
第13章: 澤田 稔 後期近代における社会的に公正な教育の実践的論理――批判的教育学からの示唆

あとがき: 金子良事

これを見てわかること。本シリーズ『公教育の再編と子どもの福祉』は2巻に分かれていますが、「序章」は1巻にしかありません。つまり、目次の構造上、このシリーズは「2巻で1冊」と考えるべきことがわかります。1巻だけで2巻を読まない人は、映画の前半だけ見てやめる人、「それでどうなった!?」の結末は無視する人に似ることになりますし、2巻だけで1巻を読まない人は、映画の前フリや伏線を無視して途中から見始めるのと同じになります。たしかに外観上は、1巻は「です・ます」調で、参考文献や注も最小限に抑えた一方、2巻はまったくの学術論文調で書かれていますが、本の内容・構造上は「2巻で1冊」とみてください。

私なりの理解で(ここ強調)、この「2巻で1冊」本の構造を「部」単位で並べ替えると以下のようになります。

  1. 1巻&2巻 はしがき
  2. 1巻 序章 バスに乗る
  3. 1巻 第Ⅰ部 「多様な教育機会」を考える――ジレンマの見方
  4. 1巻 第Ⅱ部 「多様な教育機会」をつくる――ジレンマのなかの実践
  5. 1巻 あとがき
  6. 2巻 第Ⅰ部 教育機会を問う、その問い方を問う
  7. 2巻 第Ⅱ部 不登校への応答・支援を問う
  8. 2巻 第Ⅲ部 教育と福祉の交叉を問う
  9. 2巻 第Ⅳ部 学校・教師を問う
  10. 2巻 あとがき
  11. 1巻 第Ⅲ部 教育と福祉の交叉を問う

ただし、読者のみなさんが実際に読んでいく順番としては、1巻の第Ⅰ部と第Ⅱ部は逆にしたほうがよいかもしれません。また、2巻の第Ⅰ部~Ⅳ部はみなさんの関心に即して順不同で取り組んでかまわないと思います。

なお、澤田稔さんによる1巻あとがき「ジレンマの積極的受容としての「緩さ」再考」は、「あとがき」とは名ばかりの「プチ論考」といった趣があります。1巻の終わりという位置で、1巻第1章(森)に向けた、あるいは2巻(やさらにそれ以降の考察)に向けた問題提起が込められていますので、「実践編」の「あとがき」という外見にだまされないように読んでください。

また、この2巻本の大きな特徴として、充実した「巻末索引」(全30頁)があります。編者のひとり、澤田さん渾身の作です。2巻を通した索引で、各巻末に同じものがあります。この点でも本シリーズは「2巻で1冊」です。しかしこんなのはまだぜんぜん驚くべきところではありません。以下に、索引の凡例(1巻367頁、2巻393頁)から一部を引用します。

索引
1. 人名索引とそれ以外の事項索引を大別して示している。
(略)
4. さらに…(略)…事項索引は、年代・時代(歴史的)区分事項、国名・地名等(地理的)事項、その他の一般事項(団体名等を含む)の3種類に区別して整理している。
5. 国名・地名等(地理的)区分事項に関して、市町村名は都道府県の下位項目として示している。ただし、件名と県庁所在地等県内都市名が同じ場合に、県・市の区別が明記されていない場合には、県・市の区別なしに項目立てしている。
6. 本シリーズ1巻を①、2巻を②と表記した。

まず、上記6.より同じ人名・事項が1巻・2巻のどこで・どのように出現しているか――ということは1巻と2巻の議論が相互にどのように連関しているか――を抽出することができるようになっています。

それに加えて/それ以上に、本シリーズの索引が変態的(いい意味で)なのは、上記引用には反映されていませんが、「ものすごく一般的――と一般的には思ってスルーしてしまう――語句も可能なかぎり広く拾っている」ところにあります。たとえば、「学習」「生徒」「教師」「公教育」「義務教育」「実践」「不登校」......etc.

これってふつう「不登校」がらみの「教育」を論じた本で索引に拾われる性質の語句じゃないと思うんですね(出現しまくりの「普通名詞」とみてしまいがちです)。ですが澤田さんはこれをぜんぶ拾いました(なにせカリキュラムについての本の索引で語「カリキュラム」を項目として拾った前科のある人です)。それが徹底されています(さすがに「教育」の項目はありませんでした、残念)。

(最初に澤田さんがチェックして真っ黄っ黄になったPDFファイルを目にして「これ、ほんとにぜんぶ拾うんですか!?」と返してくださった編集者のみなさま、たいへんお世話になりました。)

このあたりの狙いや苦労については、9月29日(日)開催の合評会(後述)で澤田さんご本人の口から語っていただくことにして。

これら2つの特徴が組み合わされることで、本シリーズの索引には、1巻と2巻をブリッジする機能があります。と同時に、この2巻本が扱っている主題に関する「事典」的機能すら備えている、と評価できるものになっています。この索引を道しるべにすることで、1巻〈実践編〉で出てきた(キー)ワードが、2巻の研究論文のなかで何を・どのように論じる素材として、あるいは資源として、はたまた対象として用いられ/扱われているかを見てみることができるのです。ですので、とくに1巻〈実践編〉への関心から本シリーズを手にとった読者のみなさんには、ぜひこの索引を手がかりに2巻〈研究編〉まで手を広げてほしいです。一回トライしてみてください。それが可能な本にできあがっています。

研究者ではない、一般の読者のみなさんには「索引」を手がかりに本を読む、という習慣があまりないかもしれません。ですが、学術的な本を読むときにはとても有用なものです。学術研究を生業とする研究者にとっても、新しい学術的知見を扱った本・論文を読むことは難しく、難しいというか、「よくわからない」ことが多く、そうであるがゆえに「最初からすべてを理解できる」という前提をとらずに取り組みます。「わからない」が当たり前の世界なので、「わからないから敬遠する」という発想をとりません。

むしろ、「目次」を手がかりとした著書・論文の「構造」把握をベースにした流し読み(&繰り返し読み)や、「索引」を手がかりとした拾い読み(&繰り返し読み)といったやり方を駆使して、何度も繰り返し読む、ということを行います。「索引」を活用した読み方が習慣になると、そのことによって、各章を別々に読んでいたときには得られなかった理解に到達することがあります。

個人的に、今回澤田さんが作成した索引のなかで自分でも活用してみようと思ったのは、「一般事項」「地理的事項」と区別された「歴史的事項」です。これは「時代」(明治・大正・戦前・戦時期・戦時中・戦争直後・占領期・戦後)や「年代」(1940年代・1950年代・1960年代・1970年代・1980年代・1990年代・2000年代・2000~2010年代・2010年代)がピックアップされています。これらを拾って流し読んでいくと、どの時点で・どのようなフェイズの変化があった(と認識されているか)を見通すことができるようになるはずです。また、共通して言及されるターニングポイントも見やすくなる。みなさんが日々の実践のなかで感じている事柄の「歴史性」についての認識を新たに得ることができるだろうと思います。そんな観点から、ぜひ「索引」を活用して、本シリーズの1巻・2巻をブリッジした読み方を試してみてください。

なお、今回の索引に拾われた事項のなかで個人的なヒット作は「ジレンマ(→モヤモヤ)」「モヤモヤ(→ジレンマ)」のクロスリファレンスです。

本日のエントリはすでにかなり長くなりましたので、このへんで。今日のエントリを参考に、ぜひ本シリーズを手にとって、あるいは、9月29日に開催予定の合評会に参加してみてください(下記リンク先に申し込みフォームがあります。参加費無料、対面&オンライン併用式です)。
www.akashi.co.jp

なぜ語「多様な教育機会」をタイトルに含む本を出したのか

2016年4月の立ち上げから8年半、立ち上げ準備から数えると丸9年、活動を継続してきた多様な教育機会を考える会(rethinking education研究会、略称RED研)が近くシリーズ『公教育の再編と子どもの福祉』【全2巻】を明石書店から刊行します。アマゾンにも書影がでました。

1巻〈実践編〉「多様な教育機会」をつむぐ――ジレンマとともにある可能性

2巻〈研究編〉「多様な教育機会」から問う――ジレンマを解きほぐすために

9月29日(日)10:00-12:30には合評会『公教育の再編と子どもの福祉【全2巻】』合評会のお知らせ - 株式会社 明石書店も開催されます(対面@日本大学文理学部とオンラインの併用、詳細はリンク先を参照のこと)。

2015年に通称「多様な教育機会確保法案」という小さな法律案が話題にのぼりました。不登校の子どもたちを支えてきたフリースクールの関係者が中心となって推進されたものです。そこには義務教育段階の学校以外の場での学習活動を「正規の学習」として認定しようとする構想がありました。これは日本の義務教育の原則を「就学義務」から「教育義務」へと大きく切り替えることを意味します。ですが、フリースクール業界内部にも反対の声が沸き起こり、最終的にこの法案は廃案となりました。その後、条文中の「多様な」という文言がすべて削除され、就学義務制を維持・補完する「教育機会確保法」という法律へと姿を変えて、2016年に成立します。

「多様な教育機会」という語は、したがって日本という島国の、その教育の歴史のごく一瞬、最終的には廃案になった法案の推進・反対をめぐる種々の政治的思惑や運動上の便宜などの偶然が重なってたまたま埋め込まれることになった「あだ花」のような言葉です。そもそも当初法案の正式名称は「義務教育の段階に相当する普通教育の多様な機会の確保に関する法律」でしたので、「多様な教育機会」はその「略称」のなかにしか登場しない、何重にも便宜的・偶然的な歴史の産物でした(ちなみに条文(案)中にも一度も登場していません)。

そんな言葉を2巻とものメインタイトルに据えた本シリーズは、いったい何をなした(かった)のか。

2015年から2016年にかけて、当初法案が廃案に至るプロセスのなかで、「これだけ反対と憂慮の声があるのに、議論を尽くさず法案推進を強行するのは拙速に過ぎる」といった類の物言いを何度か目に(耳に)しました。そして、その後、その言葉どおりに事態は推移しました。

しかし、あのまま運動を進めることが「拙速」だったとするならば、拙速でない議論とはどのようなものであり、だれが、どこで、どのように進めるべきものなの(だったの)でしょう。

私(たち)は、法案が廃案になったあのときに「尽くすべき」だとされた議論を、その議論の交わし方の模索もかねて、9年という時間をかけて尽くしてきました。なるほど、たしかに語「多様な教育機会」とは上記のような経緯がたまさか生んだ産物でしたが、その法案が提起していた問題は決して忘れ去られるべきでない歴史的意義と必然性、そして普遍性すら備えたものだったからです。「議論を尽くすべきだ」との主張が当座をしのぐためだけの掛け声に終らないように、私(たち)なりの問題意識とやり方で、議論を継続してきました。

その成果がこの2冊の本になりました。ここにあるのは、したがって決して「拙速な」議論ではありません。このことは断言できます。

しばらくのあいだ、この本にまつわるいくつかのことを書いていきたいと思います。

「藤田‐黒崎論争」を展開する

このブログを運用していたころに書いていた宿題をここにきてようやく片づけつつあるわたくし。

突然身辺整理を始めたわけでも、別に〇期が迫っているわけでもありません念のため。

これももう昨年のことになりますが、世織書房から刊行されている『教育学年報』の14号、「公教育を問い直す」という特集タイトルの号に、「「藤田‐黒崎論争」を展開する――教育行政=学校組織のエスノメソドロジーにむけて」という拙稿を掲載していただきました。
seorishobo.com

今ごろそんなネタ扱ってなんになるの、という声も聞こえてきそうですが、でもまあ一応書きました。

「藤田‐黒崎論争」についてもここでなんか書いてただろう、と踏んでいたのですが、意外とそうでもなく、もう15年も前に黒崎先生が亡くなったことを知ったときに軽く触れていただけでした。
morinaoto.hatenadiary.jp

そして実際に黒崎先生ご自身は,90年代末以降に日本を席巻する教育改革,とりわけ学校選択制の是非をめぐって,日本を代表する教育社会学者・藤田英典氏とのあいだで大きな教育論争を繰り広げることになります.いわゆる藤田‐黒崎論争.『教育学年報』(世織書房)を舞台とした議論の応酬は,他の教育論争にはみられない議論水準の高さと,その高さゆえに両者の対立構図ごとの袋小路への閉塞とを浮き彫りにするものとなりました.達成ゆえに明瞭となった「対立構図そのものの限界」こそが,この論争を現在でも顧みられるべき「遺産」としているといってよいでしょう.

今の私であれば、どのような話の流れのもとにあろうとも、「藤田‐黒崎論争」を指して、「他の教育論争にはみられない議論水準の高さ」などと評することはないでしょう(ただし「低い」と言ってるわけでもない)。ですが、「両者の対立構図ごとの袋小路への閉塞」とか「「対立構図そのものの限界」こそが,この論争を現在でも顧みられるべき「遺産」としている」といった論評は、今読んでもそんなにピント外れでもない気がします。

上記拙稿は、「藤田‐黒崎論争」にみられた対立構図とそれがもたらす「閉塞」感も、ちゃんと論争を読んだら、どこですれ違っちゃって、それが出口のなさ感につながっているか、そのポイントを指し示すことができるよ、そしてそのポイントを引き継ぎ展開していく方法もちゃんとあるよ、ということを述べた文章です。「そのポイントを引き継ぎ展開していく方法」というのは、具体的には、副題にしている「教育行政=学校組織のエスノメソドロジー」となります。

あまり大っぴらに言う話でもないと思いますが、この論考自体がエスノメソドロジー的に書かれています(と少なくとも意図されています)。ですが、別にこれを読んで「ああ、エスノメソドロジー的だ」などと感じる人はそういないと思いますし、感じなくても読むことはできますよね。

それぐらいからスタートすればいい、それだけで十分わたしたちは藤田-黒崎の先に進むことができますよ、ということを述べました。

ご関心の向きはぜひ。

「誰もが元気になる学校」を作りたい、あるいは「教育機会の平等」について

みなさん、こんにちは。ご無沙汰しております。いかがお過ごしでしたでしょうか。わたしは元気です。

というわけで、更新が止まってからもうすぐ丸6年ということのようですが、ひさしぶりに動かしてみます。ブログの書き方もすっかり忘れかけておりますが。

もう大昔に書いたものですが、私が教育の「現場」に関心をむけるようになったきっかけの書き物で、ありがたいことに今でもこのネタ(個別化個性化教育と「教育機会の平等」という課題)で話を聞かせてほしい、というリクエストをいただくことがあります。

morinaoto.hatenadiary.jp
morinaoto.hatenadiary.jp
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掘り出してみたところ、ほんとはもっとエントリがありましたけれども、とてもじゃないですが、この歳であらためてアップできるような内容・文面のものではありませんでしたのでこの辺で許しといてください。

こういう問題意識は今でもずっと抱えていて、自分なりに考え続けているところのものでもあります。

この当時から、私のこのネタに関心をもっていただいていた本務校・人文社会系の別専門の先生から、ぜひうちの(ということは本務校人文社会系がもっている)Youtubeチャンネルで話してくれないか、と言われて1年前にお話ししたのがこちらの動画となります。
筑波大学人社チャンネル❗️ 第15回「誰もが元気になる学校」を作りたい(全編):森直人さんに聞く 教育社会学の視点から - YouTube

お話したのは、自分の研究キャリアの入り口から、このネタに足を踏み入れるまでの経緯だったように記憶しているのですが、その話に「「誰もが元気になる学校」を作りたい」というタイトルが付けられようとは(これはそのお誘いくださった先生のネーミングです)、よい意味でまったく予想だにしなかったことです。

そうか、おれは「誰もが元気になる学校」を作りたかったのか?

みたいな。

話した内容がこう受け止められるのか、という経験ができるのも異分野交流の面白い――そしておそらくは有意義な――ところです。私はこれは「教育機会の平等」をめぐる話だと思ってしゃべっています。ですが、なるほど、それはたしかに「「誰もが元気になる学校」を作りたい」ということなのかもしれません。

ただ今の私は、「教育機会」と「学校」とを等値にみなす判断自体が成り立ち、存続し、あるいは変容する、という事実そのものを(社会学的な)検討の対象とすべきだと考えています。一方で、「平等」を「誰もが元気になる」と言い換えているところなんかは、このタイトルを考えた先生のセンスの卓抜なところだと思います。「元気になる」というのがいい。well-being ですね。

このお話につながるベースとなるような論題を、全国の(あるいは他国在住の参加者もいるそうです)高校生と一緒に議論する夏休み限定企画、全国高校「探究」キャンプ in TSUKUBA ONLINE 202〇 というのがありまして、昨年2023のウェブサイトはもう削除されたのかな? でも今年も同じ内容――「「教育機会の平等」について考えよう」――で開講します。
sites.google.com

この企画の特徴的なところは、高校生(がメインの対象であるのは間違いないのですが)だけでなく、中学・高校の教員の方にも受講者として門戸を開いているところです。実際、昨年の私の開講ゼミ「「教育機会の平等」について考えよう」にも現職高校教員の方がいらっしゃいました。

どっかで見たことのある顔だけど、まあそういう人って世の中に7人はいるってゆうしねー、ぐらいのノリで進めていたら、突然、「あ、この人、まえに私の大学院ゼミを履修していた卒業生だ」って天啓が降りてきて、確認してみたら実際そうでした。

先にゆうてよ。

進学校からいわゆる進路多様校に異動したことをきっかけに、「教育機会の平等」の問題を考えざるを得なくなったと、それで受講していただいたそうな。

そういうのを期待しての開講でしたので、ありがたいことでした。高校生が自分以上に真剣にこの論題について考え、議論している姿に刺激を受けたとのことでした。よき。

今年も7月23日(火)まで募集中です。高校生も、高校・中学の先生も、元教え子の先生も、そうでない先生も、ふるってご参加ください。お待ちしております。