このブログを運用していたころに書いていた宿題をここにきてようやく片づけつつあるわたくし。
突然身辺整理を始めたわけでも、別に〇期が迫っているわけでもありません念のため。
これももう昨年のことになりますが、世織書房から刊行されている『教育学年報』の14号、「公教育を問い直す」という特集タイトルの号に、「「藤田‐黒崎論争」を展開する――教育行政=学校組織のエスノメソドロジーにむけて」という拙稿を掲載していただきました。
seorishobo.com
今ごろそんなネタ扱ってなんになるの、という声も聞こえてきそうですが、でもまあ一応書きました。
「藤田‐黒崎論争」についてもここでなんか書いてただろう、と踏んでいたのですが、意外とそうでもなく、もう15年も前に黒崎先生が亡くなったことを知ったときに軽く触れていただけでした。
morinaoto.hatenadiary.jp
そして実際に黒崎先生ご自身は,90年代末以降に日本を席巻する教育改革,とりわけ学校選択制の是非をめぐって,日本を代表する教育社会学者・藤田英典氏とのあいだで大きな教育論争を繰り広げることになります.いわゆる藤田‐黒崎論争.『教育学年報』(世織書房)を舞台とした議論の応酬は,他の教育論争にはみられない議論水準の高さと,その高さゆえに両者の対立構図ごとの袋小路への閉塞とを浮き彫りにするものとなりました.達成ゆえに明瞭となった「対立構図そのものの限界」こそが,この論争を現在でも顧みられるべき「遺産」としているといってよいでしょう.
今の私であれば、どのような話の流れのもとにあろうとも、「藤田‐黒崎論争」を指して、「他の教育論争にはみられない議論水準の高さ」などと評することはないでしょう(ただし「低い」と言ってるわけでもない)。ですが、「両者の対立構図ごとの袋小路への閉塞」とか「「対立構図そのものの限界」こそが,この論争を現在でも顧みられるべき「遺産」としている」といった論評は、今読んでもそんなにピント外れでもない気がします。
上記拙稿は、「藤田‐黒崎論争」にみられた対立構図とそれがもたらす「閉塞」感も、ちゃんと論争を読んだら、どこですれ違っちゃって、それが出口のなさ感につながっているか、そのポイントを指し示すことができるよ、そしてそのポイントを引き継ぎ展開していく方法もちゃんとあるよ、ということを述べた文章です。「そのポイントを引き継ぎ展開していく方法」というのは、具体的には、副題にしている「教育行政=学校組織のエスノメソドロジー」となります。
あまり大っぴらに言う話でもないと思いますが、この論考自体がエスノメソドロジー的に書かれています(と少なくとも意図されています)。ですが、別にこれを読んで「ああ、エスノメソドロジー的だ」などと感じる人はそういないと思いますし、感じなくても読むことはできますよね。
それぐらいからスタートすればいい、それだけで十分わたしたちは藤田-黒崎の先に進むことができますよ、ということを述べました。
ご関心の向きはぜひ。