(仮)不登校とはいかなる問題か:藤根論考(2巻)・前北論考(1巻)と社会システム理論にもとづく検討

「本書、こんなにルーマンっぽい話してるのに対談の中にしかその名が出てこないとは!と思ってたら本文にも出てきた。」

と、contractio先生につぶやかれていた(当該つぶやきへのリンクは省略)2巻シリーズ『「多様な教育機会」をつむぐ――ジレンマとともにある可能性 (公教育の再編と子どもの福祉)①〈実践編〉』『「多様な教育機会」から問う――ジレンマを解きほぐすために (公教育の再編と子どもの福祉)②〈研究編〉』(明石書店、2024年9月刊)についての話をひきつづき。

ということですので、上記contractio先生のつぶやきの「本書」のところは「本シリーズ」と読み替えましょう。「対談の中にしか出てこない」のなかの「対談」というのは、1巻・第10章「「多様な教育機会を考える会」の歩みをふり返る」の座談会のことです。「本文にも出てきた」のところの「本文」とは、2巻・第2章、拙稿「〈教育的〉の公的認定と機会均等のパラドックス」です。

たしかに、私にとって――あくまで「私にとって」です――RED研(多様な教育機会を考える会)での活動は、ニクラス・ルーマンという社会学者の所説を勉強しなおすプロセスでもありました。その成果は、たんにひとつの(たとえば上記2巻・第2章)論考に反映されるだけのものではなく、1巻・2巻をつうじて「多様な教育機会」をめぐる議論とどのように向き合うか、という姿勢そのものに影響をおよぼすものでもありました。

このシリーズには序章が1巻にしかありません。そのいみで、本シリーズはやはりあくまで「2巻で1冊」だと思っています。ですがじつのところ、編集開始当初は2巻にも2巻限定の序章的な性格の文章を収録することが目論まれていました。しかしながら遺憾なことに、その文章は結局ボツになりました。執筆開始時点でつけていた仮タイトルは「教育の規範科学と経験科学の連携にむけて」です。ここに私がルーマンを学ぶことでたどり着いた「「多様な教育機会」をめぐる議論とどのように向き合うか」という課題へのひとつの解決策を提示する構想だったのですが、それは刊行までには間に合いませんでした。したがって、本シリーズは――少なくとも私にとっては――未完です。

この文章がボツになったということは、「「多様な教育機会」をめぐる議論とどのように向き合うか」という課題への解決策の提示が未完だということです。そして「「多様な教育機会」をめぐる議論とどのように向き合うか」という課題が「1巻・2巻をつうじて」本シリーズ全体にとっての課題である以上、これへの解決策のさらなる探究は、刊行時点で1巻と2巻にわかれた〈実践編〉と〈研究編〉とを関係づける(関係づけ直す)作業にほかなりません。

以前、こちらのエントリ(「2巻で1冊」、RED本――『公教育の再編と子どもの福祉』【全2巻】合評会の予習用① - もどきの部屋 education, sociology, history)では本シリーズの特徴のひとつとなっている充実した巻末索引を利用して「1巻と2巻をブリッジ」して読む読みかたの提案をしました。とはいえ、それ以上なんの示唆も与えず読者のみなさんに「ということでひとつみなさん、なんでもいいのでご自由に1巻・2巻をブリッジさせてお読みください」とだけ丸投げしてあとはお任せ、でうまくいく話でもないでしょう――という気づきを得ました。むしろ、編者である私(たち)がある程度積極的に、1巻・2巻をブリッジさせる読み方のある程度のバリエーションを例示するモデルをプレゼンする企画があってよいのかも、と思い至ったしだいです。

そうだとして、本シリーズが完成し刊行された時点であらためて全体を通読した私の念頭にまっさきに浮かんだのは、2巻・第4章の藤根雅之さんによる「不登校や多様な教育機会に関する社会学的研究は議論を開き継続させていけるのか」と、第1巻・第8章の前北海さんによる「不登校支援の考え方――子どもを中心に考える」をブリッジした検討です。それに仮タイトルをつけてみたのが本エントリの標題です。

私の理解では、2巻・第4章の藤根論考こそ「教育の規範科学と経験科学の連携にむけて」という課題にいちばん肉薄して――そのうえでその課題への悲観を表明して――いる文章です。読んでいただければわかりますが、藤根論考のタイトルは修辞疑問文になっているとみるべきです。つまり、「議論を開き、継続していくなんて無理じゃね?」と。

不登校に関する研究やそれに伴う形で注目されてきた多様な教育機会に関する研究は、「議論していくプラットフォーム」を開き継続させていくことができるのだろうか。もしできたとしても、そもそもそれを何のためにやるのかというところまで問い直す議論はどこまでできるのだろうか。そして「アカデミックな言語を新たに作りだそうとする模索」はこの社会のなかでどのような意味を持ちうるのだろうか。その模索自体と、その模索が位置づく社会を問い直し続けていくことはどこまでできるのだろうか。


研究者がある立ち位置や観点から研究を行う事を批判したいのではない。それはこの社会で生きながら社会を論じるという社会科学の性質上避けて通れないことであろう。不登校の研究のあり方をめぐる問い直しの議論が繰り広げられてきた歴史を踏まえて本章が問いたいのは、その議論を現在もそしてこれからも継続していくことがどれだけ現実的なのだろうかという疑問である。(藤根 2024: 122)

藤根論考に「連携」にむけた展望が書かれてあるのではありません。むしろ逆です。藤根論考はそこを悲観している。その悲観はもしかしたら正しいのかもしれない、と私は思う。でも同時に、まだ考えるべきことが考えつくされるまえに表明された悲観ではないか、という直感がある。では「まだ考えるべきこと」とはいったいどこに、どのようにあるのか。そのヒントのひとつはここ(実践(者)指向的な教育の社会学的啓蒙(?) - もどきの部屋 education, sociology, history)にすでに書いた。これをもう少し展開したい。そのための検討(読書会)である。

私の理解では、もしも藤根論考がいうとおり「その議論を現在もそしてこれからも継続していくことがどれだけ現実的なのだろうか(いや現実的ではない)」が正しいのだとしたら、1巻・第8章の前北論考のような実践者による模索だって「現実的ではない」。「そもそもそれを何のためにやるのか」、「その模索が位置づく社会を問い直し続けていくことはどこまでできるのだろうか」――この問いははたして研究者にだけ向けられた修辞疑問といえるだろうか。そのような限定が可能な主張だろうか。

だからまだ、考え、そして議論すべきことがある。いや逆である。本シリーズがこういうかたちで刊行されたいまだからこそ、これを踏み台に考えるべきことの所在がみえてきた。そのためにも、1巻と2巻を別々に読んでいてはいけない。両者をブリッジして考えなければならない。

そのように考えた私が最初に提案しようと思ったテーマが標題である。不登校とは問題なのか。問題だとしたら、それはどのような問題なのか。というか、問題とはなんですか? ――みたいな。本エントリを書き始めた当初はこれを「スタート地点」に話を始めるつもりだったのですが、ここにたどり着くまでにすでに字数が尽きました。本日はこれまで。