濱口桂一郎先生と田中萬年先生が、それぞれブログ上で宮寺晃夫(編)『再検討 教育機会の平等』所収の拙稿にコメントをくださいました。ありがとうございます。とくに田中先生のコメントは詳細にわたり拙稿が論じた射程をはるかに超える評論となっており、大変刺激を受ける点がありました。
そもそも「教育機会の平等」というテーマが与えられて、もしも私のフリーハンドで論題が選べたなら、きっと私は佐々木輝雄氏の「教育の機会均等のパラドクス」をとりあげたことだろうと思います。そのことを制度の次元で論じ、その後、制度から実践へ、というベクトルで考察を敷衍しただろうと思います。
しかし今回は編者の宮寺先生から「個性尊重教育をめぐるテーマで」という要請をいただきましたので、この論題に即して実践を論じつつ、実践から制度へ、という方向の志向を(明示しないまま)基底に据えています。
その点で、
森さんの「個性化」には期待がある。それは、職業と密接な関係があるからだ。周知のように尾高邦雄は職業の三要素の一つとして個性の発揮を示しているが、個性尊重の重要な意味として職業の尊重に連なることになるからである。集団主義的な教育観では職業尊重までには至らないのである。
という田中先生のご指摘は、拙稿が明示していない基底の志向を捉えていただいたもので、射程をぐんと伸ばすべき論点が含まれています。
抽象的なレベルで語るなら、個別化・個性化のプログラムとは《具体的な人格像を結ぶ》実践です。あえて筆をすべらせるなら、それは伝統的な職能形成の世界の論理に連なる系譜だと言ってしまってもよいでしょう。そうでない一斉授業方式に象徴される育成方式は《普遍的/抽象的な人間という可能性》に準拠した実践、というより、それへのコミットを表現した型式です。この点は、実践から制度構想へと論点を移動させる際に決定的に重要なポイントです。
《教育》という対象が《近代》固有のカテゴリーであり、《近代性》の不可分の構成要素である、というとき(稲葉振一郎「斜めからみる「日本のポストモダン教育学」」)の、《近代性》とは、まさにこの点にかかわっています。
田中先生ご自身はこの点をめぐって、
タイトルの「個性化教育の可能性」というのは私の立場からは二つの側面から疑問がが有る。森さんの主張はどちらを是とするのか、という点の理解が必要になることである。一つは、もともと「教育」は画一的な営みであり、教育にて「個性化」が可能なのか、と言う疑問であり、第二は、そのあり得ない「個性化教育」の可能性を求めることが目的なのか、と言う事である。
という疑問を寄せられたうえで、
実践の紹介を見ると、私にはどうしてもその営みは「教育」には思えないことなのである。それは、「個性化学習」であろうと私は考えるのだ。例えば、森さんが紹介する「六つの学習態様」として、次のように記している。・・・(中略)・・・このような「学習様態」をどう考えても「教育」という必要はないからである。
と記されて、むしろそれは田中先生いうところの「キョウイク」とまさに重なるものであり、
基本的に森さんの論と私の整理に大きなずれは無いと思われる。詰まるところは「教育」を使うか使わないかの違いのようなのだが…。
という述懐で締めくくられています。
この点は、ほとんど田中先生の整理の通りでよいと思われます。なぜなら、ここでは実践の次元で語っているからです。しかし、そのことと制度構想の次元の議論とは混同されてはならない、と言わねばなりません。実践レベルと制度・政策レベルとは、繋げて論じられなければなりませんが、しかし、それは混同されてはならないのです。
その点でいうと、濱口先生の、
高邁な個性化教育論というのは、きちっとやらせなくてもできる上位の子を念頭に置いている。
それに対して、きちっとやらせなくてはできない中くらいの子をどうしてくれるんだ、っていうのが教育社会学言説ってヤツ。
ところが、きちっとやらせなくてはできないってのは、きちっとやらせればできるっていう前提なんだけど、きちっとやらせてもできないもっと下の子はどうしてくれるんだ、そういう子にはこうするんじゃってのが、その石浜西小の高邁じゃない方の個性化教育、ってストーリー。
それはすごくよく分かるけど、それって苅谷批判になっているのかな、という気もしました。
というコメントは、私の理解では、実践レベルで語られた事象を再び制度レベルの議論に(繋がりをつけつつ)差し戻すようなご指摘だと受け止めました。
制度構想を考える際には、「きちっとやらせなくてもできる上位の子」/「きっとやらせなくてはできないが、きちっとやらせればできる中くらいの子」/「きちっとやらせてもできないもっと下の子」という分け方(=ストーリー)は、考察の最初の第一次近似としては基本中の基本です。ここは「できる/できない」用語系で表現されていますが、学校的「できる/できない」基準が階級的背景と対応しているという(自明の)要素を挿入すれば、これこそ近代ヨーロッパ的三分岐型の発想だからです。
そして、このことを再び田中先生のコメントに差し戻せば――拙稿ではなく佐藤俊樹さんの論考「「奪われなさ」と平等原理」に寄せられたコメントですが――、「ドイツ等の複線型学校体制」への評価、裏を返せば「日本的単線型学校体系」をどう評価するか、どう変化させていくか/いかないか、という論点と直結します。
この点は、私個人の本筋の研究方向と重なり重要度の高いものですので、拙速な応答は申し上げられませんが、抽象的な考えの見通しだけ述べるならば、こうです。
ドイツ的な複線型学校体系にあって国民の「全てが不幸な不平等に甘んじている国民である、ということ」になど決してならないような、そのような遡及可能な歴史的遺産(≒プレ・モダン)をわれわれは有していない、というよりも、われわれはわれわれの歴史において作り上げてきた日本的単線型学校体系が象徴する《近代性》を捨て去ることなどできないし、捨て去るべきでもない、しかしながら、その制度理念をそのまま維持していくだけで持続可能なフェイズ(≒モダン)はとうに終焉してしまった、という、そういう二重の諦念のもとに、「ポスト・モダン」の教育の構想は語られなければならないのだ、ということです。
かつて、「ポスト・モダン」を言祝ぐ言説にいささか躁気質の軽佻浮薄のきらいが付随したのは事実でしょう。そうした言説を過去のものだと嗤い流してしまうのは容易いことです。しかしながら、われわれのいる今ここの世界がすでに拭い去りようもなく「ポスト・モダン」性を帯びてしまっているとする認識には一抹の妥当性を認めざるを得ず、しかも、「ポスト・モダン」を考えるということは、これほどにぱっとせず、地味で、面白味もなく、かといって避けて通ることができるほど浮ついた話題でもない、そういう論題を考え抜くという地道な作業を延々と積み重ねていかなければならない気乗りのしない苦行である、という事実性が浮き彫りになっているというわけです。
閑話休題。
ところで、「実践レベルで語られた事象を再び制度レベルの議論に(繋がりをつけつつ)差し戻すようなご指摘だ」と先ほど申し上げました濱口先生のコメントを拝見して、一つ思い出した話があります。
私は「高邁な個性化教育論」の具体像を知っているわけではないので、多少知っている東浦町の「個別化・個性化教育」についてだけ言うと、少なくともそれは「きちっとやらせなくてもできる上位の子を念頭に置い」た実践プログラムではありません。元の緒川小も石西に比べればもちろん断然落ち着いた地域だと思いますが、ふつうの公立小学校ですし、アッパーミドルクラスの集住地域だとかいうような特殊要因もありません。
むしろ、そういう風な理解――個性化教育のベースが「きちっとやらせなくてもできる上位の子を念頭に置いている」ところにあるという理解――が「批判者側の暗黙の前提とされてきた経緯がある」(拙稿 122頁)ため、必ずしもそうではない、という注を付しておきました。この注(3)は、初稿の段階でいただいた成田先生のコメントをうけて、校正の段階で加筆したものです*1。
実践側の人と話をしていて興味深かったのは、子どもの「個性」に照準した実践というのは、付属校などの階級的に恵まれた(≒きちっとやらせなくてもできる子の多い)学校で成功したら「それは他の学校には適用できない」と言われ、緒川で成功したときには「これは緒川だからできることだし意義あることだが、他の学校には適用できない」と言われ、こんど石西でも成功したら「これは石西(のような社会経済的背景を負っている子が多い学校)だから可能だし意義あることだ」と言われた(←これはそのときの会話で私が発言したことを受けています)、とどのつまり、どこで成功しても「ここだからできる/意義ある、だがそれ以外には無理/不要」と言われる、ふつうこれだけあれば、どこででもできるし意義あることだ、という認識になると思うのだけどそうはならない、なぜそうなのかは「そちらさん」(←つまり私のこと)のほうで説明してほしい、という指摘を受けたことでした。
些末なことですが、「実践の論理」とはそういうものです。その存立の余地をきちんと確保することは、絶対に必要なことです。しかし、そのことと、どのような構想に基づいた制度設計を描き上げるか、という課題とは同列に論じられるべきではないのです。
*1: 「論を展開するうえでは、この方が[これまでの個性化の実践は(実践側にとって)「恵まれた」ところのみで行われてきた、という認識にした方が:森]おもしろいのですが、本当でしょうか。横浜の本町や、根岸・台東区上野などは確かにそうかもしれませんが、三春・福光・池田などはそうばかりとは言えないのではないのでしょうか」 というコメントと、 「石西の位置づけに異論はありませんが、これを言うなら、個人的には東海市上野中の実践こそ検証する意味があると思います。上野中は、私が緒川の後に赴任した学校で、新日鐵のブルーカラーの城下町です。となりの富木島(ふきしま)中と並んで80年代中盤には荒れに荒れた地域で全国ニュースや書籍にも取り上げられた程です。ここで、私は明確に「中学校における個別化・個性化」をめざして実践しました。校則の自由化・教室の再配置とリニューアル・総合学習の導入(兵庫のトライアルウィークの何年も前に勤労体験もしています)・学習パッケージによる一人学び・学校行事の改革などを通して、多感な中学生が劇的に変わっていきました」 というコメントとの2つです。 なお、前者のコメントに対する私の認識は――調べることによって得られた情報に依る限り――成田先生の認識とはやや異なります。 しかし、少なくともいずれの学校の取り組みも、都会のアッパーミドル集住地域のようなところでの「実験」のようなものを連想されるのだとしたら、それは否定しておかなければなりません。