都内某公立小学校参観記

また長いです。

もうずいぶん前の話になるけれど、都内・某公立小学校の授業を見せてもらった話をする。

都心から北北西に私鉄で数分、場所もそうだし都内・公立、あらかじめ聞いていた情報でも児童の家庭環境はなかなかしんどい、みたいなことであった。

近年オープンスペースを大胆に配した新校舎へと建て替えられ、区のモデル校として新しい取り組みが開始された。かつて30数年前に愛知県は東浦町で産声をあげた「個別化・個性化教育」の実践プログラム、なかでも「2教科同時進行単元内自由進度学習」の実践が新たに導入されたということである。その実践開発のアドバイザー(「講師」)役としてこの2年、全力を傾注してこられた敬愛する友人からお誘いの声がかかり、それはぜひに、とお邪魔した。

学校の中のこと、それも教師が行う実践を対象とした分析など生まれてこの方したことなかった私が、宮寺晃夫(編)『再検討 教育機会の平等』(岩波書店、2011年)という本に「個性化教育の可能性――愛知県東浦町の教育実践の系譜から」という文章を書くことができたのも、この敬愛する友人(以下、略して「敬人」)のおかげである(なお残るこの文章のあらゆる瑕疵は(当然ながら)すべて私に帰される――そもそも彼の助力がなければこの文章はこの程度のものとしてすらこの世に存在していない)。

「2教科同時進行単元内自由進度学習」――舌を噛みそうな名称がつけられたこの実践は、発祥の地・愛知県東浦町では「週プロ」と呼んだほうが通りがよい。「個別化・個性化教育」を生み出した町立緒川小学校で「週間プログラム学習」と名づけられた、「あの実践」を受け継ぐものだからである(詳細は拙稿参照)。

上記拙稿が扱ったのは、東浦町の石浜西小学校(略称「石西(いしにし)」)という学校にこの実践が新たに導入されてからのことであった。だが、ゆうても同じ東浦町である。教師の世代を超えて地域で受け継がれる実践開発の伝統と遺産というのは、ある。それを強調するのが拙稿のモチーフの一つでもあった。

それに対し、この都内某公立小学校の取り組みは「個別化・個性化教育」だとか「週プロ」だとかいう言葉を聞いたこともない教師たちばかりの学校にそれを導入する試みである。唯一例外は石浜西小学校の公開研究授業に足を運び、その目で実際の姿を確かめている若い女性教師。事実上、全部イチから自分たちで実践開発に取り組むというのは、そのアドバイザーである敬人にとっても初めての経験だという。

自分たちだけでやっているとどうしても入り込んでしまって盲点ができてしまうだろうから冷静な目でみて率直な意見がほしい、というリクエストは少なくとも私に対するものとしては明らかに不相応な要求水準の高さであったが、喜んで足を運んだ。当日はもう一人、もっと「学校の中で起こること」の分析に長けた専門家とともに。

体育館で行われる全校朝の会的な合唱の時間では、もう見るからに朝ごはんなしで栄養(というかエネルギー)が足りなくて倒れる子ども複数。もうほんとに保健室で牛乳とおやつ食べてからでないと無理、みたいな。

やっぱきびしいかなあ、、、とか思いつつ、1・2限が6年生の「2教科同時進行単元内自由進度学習(算数/社会)」、3・4限は5年生の「コース選択型単元内自由進度学習(社会)」。5年生のほうは「1教科」だけで「単元内自由進度学習」をやるという形態。2教科ぶんの学習パッケージ(学習カード・学習環境)は用意できないけどやろう、というパターンであろうかと推測(「学習カード」「学習環境」などの具体的な説明は拙稿参照)。

なるほど「教室」(といってしまってよいだろうか)はオープンスペース。図面書くのめんどいからクチで説明すると、1学年は2クラス、で2学年4クラスが一単位の大きな空間を共有する(私が見たのは5・6年生4クラスのフロア)。その中央に手洗い場などの区画があり、その周りを大きく「ロの字」に児童は回遊することができるようになっている。各クラスのベースとなる空間は一応あって(黒板があるなど、そこだけ見ればいわゆる「教室」の風情)、それがこの大きな一単位の空間の四隅にある。だから「ロの字」型になってはいても、児童がメインに動くのは同学年で構成される四角形の一辺側に偏ることになる。

その一辺側は「各クラスのベースとなる空間」と「その間の空間」とを分節する仕切り壁があり、その他には壁がない。仕切り壁が設置されていることによって「各クラスのベースとなる空間」が意識づけられる(ふつうの一斉授業形式の際の便宜)と同時に、仕切り壁自体が教師の作成した「学習環境」を掲示・陳列するスペースとして活用可能となっている。

記憶が間違っていたらごめんなさい。

入ってみて驚いたことがある。

まず、とくに6年生のほうに置かれていた学習環境がすばらしかった。なんか、でっかい城と甲冑(を模したもの)が作って置かれていた。手間暇かけられている。おっしゃこれからしばらくこの単元すっぞみんな、というテンションが伝わる。

あと、子どもたちの様子に前もって伝えられていた「しんどさ」が感じられない。あれ、どっちかっていうとむしろそれなりに恵まれていそうなお子様たちで、校内の雰囲気もずいぶんと落ちついていませんこと奥様、ってなもんである。もっと子どもがしんどそうにしていて、もっと「荒れ」ている公立小学校なんざ、東京ではざらである。

この点は私の偏見ではなく、同行したもう一人の研究者も同じことを感じたという。

だが実践開発アドバイザーの敬人も、朝方お話をうかがった校長先生も、昼食時に長くお話できた教頭先生も、異口同音に「子どもの家庭環境はしんどい」と強調された。正直、「しんどさ」強調しすぎなんじゃね、との違和感もあったが――だがアドバイザーの彼が子どもの実態を見抜く眼に疑いはないはず――、当日は保護者に向けての授業公開日でもあったため来校していた幾人かの母親が「ずいぶん学校の雰囲気が落ちついたよねえ」と言っていたそうだから、やはり「もともとよい」のではなくて「改善された」とみたほうがよいのだろう。学習活動に対する子どもたちの反応のよさは、私の予想を超えていた。

だとしたら、この一点で、この小学校の新しい取り組みは――少なくとも現時点において――評価されてしかるべきである。

教育実践というのは「実践記録」というのが無数に残されてはいるけれど、文字で読んだり話で聞くだけでは中身を具体的に思い浮かべるのは困難だ。そんななか、その実践のことを知らない人間たちばかりで、しかもその人間たちにとっての「授業とはこういうもの」という常識とかけ離れた実践を形にするというだけで――しかもこれだけの短期間に――、私はこの実践開発に携わった人びとに敬意を表したい。参観の感想は一言、十分っす今の時点でこれだけのものができてたら、で終わりである本当にありがとうございました。

しかし、それだけで終わるのももったいない経験をさせてもらったので、ちょっと余計なことも書いてみる。見せていただいた実践の「欠点」をあげつらうように読めてしまうかもしれないが、それはまったく本意ではない。むしろ取り組み全体への私の評価はポジティヴだ。だが同時に、私はこの参観を通じて、翻って「石西の教師がやっていたことは何だったのか」ということも考えた。そこにはもしかしたら私以外の人にとっても有益な示唆が含まれているかもしれないので、書いてみる。

私がこの日みた実践は、全体にすごく「生真面目」である。学習カードも学習環境もすごく字が多い。ということは字が小さい。そして情報量が多い。いや多すぎる。もっと情報量をそぎ落としてよい。子どもが――「読む」のではなく――「見て」、ひらめきを得るための「きっかけ」に徹したほうがよい。下手をすると、学習カードや学習環境の「そこ」で「教えよう」としているかのようである。しかし、それはこのプログラムの設計理念からすれば、必ずしも適切ではない。学習の成果は子どもの活動トータルで確保しようとなされるべきで、学習カードや学習環境にその機能をもたせようとするのは逆に子どもたちの活動を阻害する。

その「生真面目さ」はチェックテストの場面にも現れる。この大きな一単位の空間への入り口は2箇所あって(学年別に1つずつ)ちょっとしたエントランス空間になっている――雪国の風除室みたいなことで(←わかりにくい)――のだが、そこに机とイスをいくつかセットしてチェックテストを行い、教師が一人常駐してテストの達成を確認する。いわば、独立したチェックテストの空間。

石西と比較してのまったくの印象論で恐縮なのだが、チェックテストの内容がヘビーすぎる気がした。そして採点は丁寧である。言い換えると「厳格」だ。チェック係の教師の前は長蛇の列になる。だけでなく、チェックテストをするための机も足りなくなってきたので急遽新たに机とイスが持ち込まれる。エントランスの外の廊下にもはみでていく。

子どものフラストレーションもここで溜まっているように見える。ある男児は「字もきれいに書き直せ、って言われた」といってテストをくしゃくしゃに丸めて捨てた。「きみチェックテストの部屋にくるの何回目?」と尋ねると「3回目」とのことだった。別の女児も「学校のテストってぜーんぶ意味わかんないからさぁ、もうしわしわですよ」(実際、すでに何度かくしゃくしゃに丸められた形跡)、「先生!! なんでこの丸が見えないんですか!!」といって彼女はチェックテストの用紙を再度くしゃくしゃにして投げ捨て、その場で泣き始めた。

ちょっとしんどいんかな、と思う。彼女はテスト問題の「中身」以前に、問題文の日本語の意味がうまくつかめていない。そのフラストレーションが、自分の書いた記号の不明瞭さに向けられた教師からの何気ない指摘に対する感情的な暴発につながる。

ここまで見てきた教師側の「生真面目さ」や「厳格さ」は、新しい実践に果敢に取り組んでいるこの教師たちの経験不足もさりながら、しかしそれよりむしろ、知多半島の牧歌的な田園風景が広がる地域の小学校と比べて、いかに東京の小学校が「学力保障」「学力テストの結果」の呪縛に強くとらわれざるを得ないか、というこの社会の現状を映し出しているように思う。

チェックテストが難しすぎたり厳格すぎたりすることのデメリットは、チェックをクリアしていくことに伴う子どもたちの達成感や「自己効力感」の増進に、うまく接続していかないことにある。この実践は一斉授業形式ではなかなか「褒めにくい」子どもたちを「褒める」ことができる、そういうチャンスを多く埋め込んでいくこともポイントの一つだ。学習途中のチェックはむしろ子どもと教師の1対1のコミュニケーションを確保し誘発する場と割り切って、もっと「いい加減」にやってよい。「いい加減」というのは「いい」加減である。そこはもっと思い切ってよい。

全体の印象として「チェックテスト重視」の空間編成に見えてしまう。それも一案だ。しかし見ようによっては、子どもをあまり信用していないようにも映る。教師が見ていないと「カンニングする」という風な。だがそれはあまり心配する必要がない。子どもは教師に信用されて、かつ自信をもって学習に取り組めるという基盤ができたら、そんなに簡単に「カンニング」しない。だからチェックテストは子どもたち各々の好きな場所でやらせてよいし、その達成度をチェックする機能は空間全体を回遊している教師複数に適宜分散させてもよい。そして、そのタイミングでもっと自由に会話したほうがよい。そんな気がする。

教師の子どもに対する働きかけも石西とはちょっと違う。こちらでは、つねに誰かを_教師の側からつかまえて_「教えて」いる、といった風情だ。それはちょうど、ふつうの一斉授業形式の際の「机間巡視」中のやりとりを個別に切り出したような、(他の子どもへの広がりがないという意味で)「限定的」なやりとりだ。まさに「指導」、といってよい。

石西では、まずこんなに教師はしゃべりかけない。教師から子どもをつかまえて、というのはある意図をもったときに限られる。抑制的だ。「子どもが聞いてきたら」、反応する。それでも極力「教えない」。周囲に他の子どもがいたらそっちを巻き込んで「これどうするんやったっけ?」みたく話を“ふる”。つまり可能な限り、子どもの側で問題が解決されていくように「仕向ける」、、、そんな感じである。

見たなかでは6年生担当の若い女性教師がいちばん「石西」っぽい感じで子どもに接していた。一人だけ有意に違っていたと思う(この点は同行した研究者の方も同意だったと記憶する)。一度だけではあっても、実際に自分の目で実践を見ている、ということの意味は大きいのだと痛感される姿だった。私も勉強になった。

なんだか目に付いた欠点ばかりあげつらってるようになっているが、そもそも授業時間中の子どもへの働きかけについて、どこまで押してどこから引くか、みたいなことは永遠の課題である。お互いに授業を公開して意見交換を積み上げ、試行錯誤を繰り返していくしかないだろう。

「あげつらい」ついでに、授業時間「前」のポイントについて気づいたことを2点指摘したい。

一つは学習環境のセッティングの仕方、とくに「子どもの動線をあらかじめ計算する」ことの重要性である。

全体に学習環境の素材がすばらしく丁寧に、数多く用意されていたことはすでに述べた。ただ残念なことに、それらがうまく「機能して」いない。子どもの学習活動の「動線」を事前に予測して種々の学習材を選択的に配置し、さらなる学習活動の連鎖を誘発するような学習環境を設定することが理想である。掲示物の字が小さく情報量が多すぎる、という点に加えてすごく気になったのは、ヒントカードや学習する「島」のセッティングが、ことごとく子どもの動線を切断してしまう帰結を招いていたことだ。

子どもが学習活動に入ると、やがて個々にオープンスペースを動き始める。まずその動きが阻害されてはならない。と同時に、どこかで学習のヒントを得たら一人で_あるいは複数で、学習を深めるためにゆっくり腰を落ちつけられる「定点」になる場所が欲しい(もちろん個々の子どもにとっての「定点」は「移動」してよい、というより「移動する」ものだ)。それがここで「島」と呼んでいるものだ。

とくに5年生の時間では、「島」にするのにふさわしく見えた机が、すべてヒントカードの単なる「置き場」になってしまって、しかもそのヒントカードは残念ながらほとんど参照されていない。逆に子どもが参照したがる掲示の前には大きなゴザが敷かれてみんなが座っているために、参照すべき掲示の参照を断念して学習に戻ってしまう子どもが続出していた。

「回遊」と「定点」。魚の養殖ではないが、その設定に改善の余地があるように見えた。

この点について同行したもう一人の研究者からは、各クラスのベース空間が「大きな一単位の空間」の四隅にあるために、最初から最後までそこに留まってしまい学習環境たる「オープン」なスペースまで出てこない子どもがいた、という問題点が指摘されていた。これも同種の指摘ではなかろうかと思う。出てこさせるための、何か「仕掛け」がいるということだ。

逆に言えば、こうした実践を行うために学校空間が「オープン」であるか否かは十分条件でもなければ必要条件ですらないということだ。オープンスクールじゃないからうちには関係ない、ではなく、実践を支える理念の共有と具体的な技法の開発の問題だということだ。この点は強調しておきたい。

最後にもう一点。これを今のこの時点――取り組み最初期の現時点――で指摘するのは不適当であることを承知の上であえていえば、「学習カード」の検討はまだまだこれからの課題であろう、というのが正直な感想である。

まずこの実践形態を実際に運用可能な状況までもってくるのが最初の最大の課題であったことは明白。そして、その最初の課題について私が目にしたものは十分な達成であったことも明らかな事実。この点について異論の余地はない。

だがそれにしても、各「コース」の「学習カード」を一瞥して、これらの学習パッケージがそれぞれ一体何を狙って構成されているのか、「どの(ような)子ども」をターゲットに想定して用意されたのか、その意図を推し量ることは難しい。

手元に6年生算数の3種類の学習パッケージがある(「スマートコース」「クールコース」「ハッピーコース」)。社会は「ヒストリアンコース」と「タイムトラベルコース」の2種。だが、私の眼には、それらのコースが互いにどう違っているのか、「今でも」理解できない。私が理解できないのだから、子どもはもっと理解できないだろう。どの子どもも、「このコースは自分を呼んでるぜ」とは思えなかったのではないか。

もともとの「週プロ」がどれほどの濃密な教育的視線と徹底した設計意思とを貫徹させる実践であったかについては拙稿140-141頁に書いたので繰り返さない。正直なところ、ここまでの厳密さを求めるのは必ずしも適切ではないと私も思う(←「あの先生」には怒られるなぁ...)。

けれど、「こういうカード、こういう学習環境を用意したら、○○は食いついてくるだろう」というような具体的な子どもは想定されていてほしいし、そういう発想でなら経験のない先生にも作れるのではないか。「ここにこれを用意しておいたら、ぜったい××は反応してくれるはず」という風に。石西の先生たちは、たぶん、学習パッケージを作成するときに、あるコースを作る際には○○の顔が、別のコースの時は××の顔が、というように、具体的な子どもの顔を浮かべながらやっている。「子どもの固有名詞で実践を語れるようにしましょう」、というのは「個別化・個性化」の一番ベースにある思想だと思う。

残念ながら、今回見せていただいた学習カードはどれを見ても、誰だかわからない誰かの同じ顔、しか思い浮かべられないものだった。「こんな子ども」というイメージがわかなかった。もしまた見せていただける機会があったなら、次はその点を期待したいと思う。

とはいえ、教師も初めて、子どもも初めてで、これだけのことができたのはすばらしい。「2教科同時進行単元内自由進度学習」は子どもが主体となる学習活動なので、子どもの側にもこの実践形態への「習熟」がある程度必要である。

5年生のほうは学習パッケージがまだ1教科しか完成していなかったからだろうか、「2教科」の様子と比べて参観すると、やはり「単元内自由進度学習」は「2教科同時進行」のほうが望ましいのだなとわかる。チェックテストのところにいっそう人が溜まってしまうのだ。子どもたちの学習活動のタイミングがシンクロしてしまって、「時差」がうまく作り出せない。先生方には、ぜひなんとか知恵を絞って、少しずつでいいので、学習パッケージの数を積み上げていってほしい。

拙稿の主張の繰り返しになるが、私はこの実践には可能性があると感じている。実証的な根拠は薄いが、追究してみてよい試みだと思っている。私がそう主張する根拠については拙稿にて論じたが、ここでは最後に、当日同行した「学校の中で起こること」分析の専門家が指摘していた点をご紹介したい(私の解釈が入っているので、ご本人の言いたいこととは異なる可能性があることには留意されたい)。

私が彼女の指摘でああなるほどな、と思ったのは、「一斉授業形式もじつは子どもが“個別に”やんなきゃいけないことって、すごくたくさんあるんですよね」ということだ。たしかに、教師がプリントを配ったら何かをしなきゃならない、教師が発する言葉から今自分がやるべきことを察知する、わからなければ周りの友だちのやってることから推測する、地図帳を見るだとか、資料集のどこを開けばいいのかとか、なるほど、一斉授業形式でも小中学校で子どもがぼけっと座っていればいい授業など、今ではほとんどない。

そして、たとえば日本語の点でハンディのある外国人児童などが、じつはいちばんつまずきやすいのは、この水準での《知識》だったりもするはずだ。

「2教科同時進行単元内自由進度学習」での学習に「慣れた」子どもにとって、一斉授業形式に埋め込まれた“個別タスク”の遂行はとても「楽な」ものに感じられるようになるのではないか、というのが彼女の指摘である。だから、この学習形態を導入した学校では、それ以外の一斉授業形式の時間にも集中力が上がったり学習の雰囲気が持続したりといったプラスの効果がでやすいのではないかと。

なるほど。「一斉授業」も「個別」が組み上げられてできているという面はある、。

もう一つ、彼女によれば―――これは以前やはり同じ2人で石西の公開授業を参観したときの話だが――、「2教科同時進行自由進度学習」において発生しやすい子ども相互の「教えあい」による知識伝達のほうが、一斉授業形式による教師からの直接の知識伝達よりも、「伝達される知識の均質化」に帰結しやすいのではないか、という可能性も指摘されていた。つまり、子どもたち相互の「伝言ゲーム」のほうが均質な解釈へと収斂しやすく、後者の一斉授業形式のほうが伝達された知識のさまざまな解釈のバリエーションが――「誤解」も含めて――個々の子どもの側において生じうる、ということだ。

(ちょっと言ってたことと違うかもしれない。)

この可能性の含意は一意ではないが、検証と考察に価する論点が提起されている。

6年生の1・2限。

ボウズ頭の男児が算数を一心不乱にやっている。いっしょにやってる相方の男児が思い立ったように顔をあげて口を開いた。

「やっぱおれ発展やろうかな、社会の」

「なんで?」(ボウズ頭)

「だってあとで時間余んなかったら、おれたちだけカブトかぶれないよ?」

カブト、というのは先にすばらしい学習環境として指摘しておいた、先生方が作成した渾身の紙製甲冑のことである。社会の「発展」まで学習カードを消化しないと、あれをかぶることができない。

「うそ、なんで、みんなかぶれるんでしょ?」

「だから、この勉強の時間は違うって先生いってたじゃん。カブトまでいきたかったら発展のカードまでいかなくちゃならないんだって。みんなでいっしょにじゃなくて、一人ひとりでやるんだから最初に計画表つくって計画的にやりなさいっていってたじゃん」

「そっか!」

......みたいな。

その後、猛然と学習計画表を見なおした2人は社会へと学習活動を変更した。

終了5分前に音楽が鳴ると同時に、子どもたちはその日の「振り返り」を記入する。そのときに2人、

「え? なに、もう2時間終わったの?」

......ええリアクションするなあ。

いい。いいよ。悪くないよ。そうなんだよ。そうやって勉強するの、この時間は。みんなで力を合わせて一人で勉強する、そういうことを身につけて。

再検討 教育機会の平等

再検討 教育機会の平等