私語する学生、居眠りする学生

学生の受講態度のだらけぶりに呆れ果ててしまって、もう大学で教鞭をとる気も失せるほどらしい(伝聞)。

たしかに、講義中に私語する学生はいるし、居眠りしている学生もいる。後者は他の受講生の邪魔をしていないぶん前者に比べればどうということもないはずだと思うのだが、何時間もかけて講義ノートや配布資料を準備した教師の側からすれば許しがたい受講態度と映るのかもしれない。教える側にとって自分が教えている内容が有する価値というのは自明でもある。それに価値を見出さない(かに見える)学生の姿は許容しがたいものに違いない。

......などとわかった風に書いてみたが、正直に言うと、そういう教師の発想というのは私にはちょっとよくわからない。あなたは講義中に居眠りしたことがないのか、あるとすればどのような講義の時にそうだったか、と問うてみたい気もする。

しかし私語は教師としては困る。真剣に講義を聞こうとしている学生に迷惑となり、申し訳ないからだ(そして真剣に講義を聞こうとしている学生が皆無などという講義は皆無である)。だから講義の初回には私語(を中心としてケータイでの「通話」や講義時間中の「食事」(←匂いと音が問題)など、、、要するに周囲への迷惑行為)だけは厳禁、という契約を交わす。それ以外――つまり周囲に迷惑がかからない行為――であればお好きにどうぞ(もっとも、そんなこと言うまでもなくみんな講義中に食ったり飲んだりなどしない。当たり前だが、ポリシーを明確化するためのレトリックだ)。しかし同時に、教師である私には私語する気すら起きないような質の高い講義を目指すという努力義務が課され、あなた方はそれを評価する機会をもつ。その評価の契機が十分にあるとはいえないが、しかしまったくないわけではない、と。

今はこんなやりとりはしていない。その必要がないからだ。以前は少し違った。私が今以上に未熟な教師であったということである。もちろん今でも十分未熟である(自慢することではない)。ついこの間も久しぶりにやってしまったところだ。学生の受講態度に甘えてしまって授業準備の推敲が甘かった。大反省である。

大学教師になった最初の年、私語がうるさかった。すごくうるさい時もあった。抜き差しならない状況に置かれ、どうやって授業開始時の喧騒から10分かからずに授業秩序の確立までもっていくかという課題の克服に身命を賭した(大いなる誇張)。

授業が成立したと思っても、学生の集中をずっと引きつけていられなくなると、私語する学生がでてくる。その場合、どうしても注意せざるを得ない。「そこ。 静かにしなさい。しゃべりたいことがあるなら教室の外に出てしゃべりなさい。他の受講生の邪魔にならなければ教室からの退出はあなたがたの自由です。しゃべりたいなら退出しなさい」。

私の講義の場合、女性の学生であることが多かった。少し恨めしそうな目で私を凝視したあと、視線をノートに落とし、(しばらく)黙る。退出する気はなさそうだ。お互い、気まずい。そういう学生は毎時間、この手のやりとりをせざるを得ない。常連さん、というやつだ。

でもある日、いつも私語がうるさく、教師としては注意したくなるストレスをずっと感じていたある女子学生が、講義終了後のドロのような疲労感にまみれた教壇の私のところまで駆け寄って嬉しそうに語った。

「先生、今日わたし最後まで私語しないで授業聞けましたw」。

「おお、そうだった、めずらしいなww」。

「今日のも難しかったけど、今日のは最後までがんばれたwww」。

いつも大事なことが話されていそうな授業だ、とは思ってくれていたらしい(ありがたいことだ)。でも途中でわからなくなる。どうしてもついていけなくなる。周りを見る。自分以外はわかっていそうな風に見える。なにごとか思う。悔しい、だろうか。情けない、だろうか。つまんない、だろうか。あるいは、そのような感情を抱かせるこの授業、この教師に対する敵意(?)だろうか。よくはわからない(本人も表現できない)――隣の子にちょっと話しかけてみる。隣の子も応じてくる。その子もちょうどきつくなってきたところだったのだ。よくわかんないし。だよね、わけわかんない。

妄想が続いた。

でも今日のはなんとなくはわかったそうだ。だから最後までがんばってついていったんだそうだ。だから今日は最後まで「聞けた」のだ「このわたし」が。「先生の授業は私語したくないんだよね」――いや毎回私語していたのだがw

私はこの日、学んだ。私語する学生のなかに、私語してしまう自分を嫌悪している学生がいるんだな、ということ、そういう自分を克服したいと思っている学生もいるんだな、ということ、そういうことを学んだ。そして、私語してる学生のうちどの学生がそう思っているかは、外から見てもわからない、少なくとも私には絶対に見分けがつかない、ということも学んだ。教師としてのささやかな進歩。

やはり一年目の別の日。

最終評価試験の監督をしていた。もちろん自分の講義の、である。問題は前ばらし。論述式筆記試験。他人のノートのコピー以外はなんでも持ち込み可。試験時間は90分。試験開始後60分経ったら答案提出&教室退出を認めていた。

ある男子学生が試験開始後20分ほどで筆を置き、机に突っ伏して寝始めた。え? なんか、がっつり寝てるし。教室内巡視を装って、その学生の答案用紙を覗いてみる。全然書けてないんですけど。こっちのほうがドキドキする。大丈夫か、時間なくなるぞ、単位落とすなよ必修なんだから。でも全然起きない。まったく起きない。そのまま30分ぐらい経った。ああ、この学生はもう単位あきらめたんだな。授業にずっと出てたかどうかも怪しい。試験だけ受けてみて単位がきたら儲けもん、っていう例のやつか。見た感じ、そんな風貌(どんな風貌?)でもある。

しかし30分ぐらい経つと、むっくり起きた。目は充血している。顔もなんか腫れている。でも2、3度強く目をこすったあと、彼は答案作成を再開した。そのあと時間いっぱいまで回答を続けた。あとでわかったのだが、彼は授業にずっと出ていた学生だった(いやずっとは言い過ぎだ。そこそこ、まあまあ、だ)。

こういう学生って結構いる。だが私は大学教師になるまで自分の周囲にそんな行動パターンを示す人間がいなかった。試験の途中でがっつり一回休んで英気養ってからがんばりますタイプ、はいなかった。試験時間は制限ぎりぎり目いっぱい使う、そうして一点でも多く奪い取る、というのが試験に臨む当然の態度だと信じて疑ってこなかった。でも、そうすることがいついかなるときも合理的、というわけではない。たとえば、試験の前日も夜遅くまでアルバイトをしなくてはならない学生にとっては。睡眠不足。遅刻・欠席するわけにはいかない。試験が始まる。頭が働かない。どうしよう――ちょっと仮眠とって頭リフレッシュしてから本気出すか、、、、、、十分合理的である。

このタイプは断然男性に多かった。試しに訊いてみたことがある。昨日の夜何してた、と尋ねると、たいていバイトだった。もしかしたら経済的には試験前日までバイトを入れる必然性は薄かったかもしれない。そうであるのに、そうしなかったことに、なにごとかの「欠落」を見出すことはできなくもない。でも、経済的に一日でも多く働かざるを得ない学生もいる。その区別を外から見て私に判断可能だとは思えない。

それに。

教師にとっての試験は「その日、一日」だけかもしれないが、学生にとっては「一週間」続く。「一週間」、、、その間ずっとバイトを休むのか。休めるのか。収入的に、職場的に。一週間も休んでクビになったりしないのか(←しない。してはならない。もし君がそこでバイト始めて結構経ってるなら。そういう法律があるから(あるのだ)――でも学生がそう思えるか、はまた別問題だ)。職場でお世話になってる人に「そっかあ、でも困るなあ」、と言われて断れるのか。

ついでに言おう。

私はお金のある家出身の人ではなかったので(学部・大学院とも授業料は全額免除してもらった、入学金は半額免除してもらった ←ありがとうございます全国の納税者のみなさま、そして免除制度を作ってくれた先人たち)、学生・院生時代はハンパなく働いた。親への仕送り(というほどの額ではないが)、生活費に加えて、親に万が一のことがあったときの蓄えが欲しかった。貯えがなかったのだ。すでに父親はいなかった。母親が倒れたときに親子もろとも生き倒れになるのが怖かった。親が倒れたら住む家も失くすな、みたいな。その恐怖を知らない人間に「そんなにバイトすることもないだろう、試験の前日ぐらい翌日に備えて休んでおくものだ」などと訳知り顔で言われたくない。それを「文化資本の欠落」なんて言葉で説明されたくもない。

あの頃バイトに費した時間の3分の1でも学問に割いていたなら、今とは違ったアカデミック・キャリアを辿ったのかもしれないと夢想することがある。でももう一度あの頃に戻れたとしても、私はやはり働くだろう。だから私は、空いている日をすべてバイトのシフトで埋めてしまう学生の焦りを共有する。共有したうえで、説得する。それでも学生はバイトでスケジュールを埋めてしまうだろうが。今の日本の大学生の多くはすでに「労働者」であるから。そこに非正規、不安定、という修飾語をつけてもよい。

話が長くなった。

言いたいことは簡単だ。私語する学生にも居眠りする学生にも、それ相応の事情、ってものがある。それ相応の事情もなく私語や居眠りしてる学生も、もちろんいる。でもそうじゃない学生もいる。それは外から見ただけでは分からない。いや分かる、という人もいるかもしれない。実際に見分けられる人もきっといるだろう。だが少なくとも私には見分けがつかない。そういう判断を自分の中で下してみようとしたとき、そしてあとで親しく付き合う機会を得て知ったその学生の実情と照らしたとき、むしろ私の予断はしばしば正反対である。そして、仮に教師の予断がつねに正しいとしても、「この仕事」の大前提に変わりはない。

「教育する」という仕事のスタートラインが、つねに学ぶ本人の既得の「現況」にあるという大前提は変わらない。

学生の経済状況、精神状況、生活状況、学習状況、習得されている(/いない)知識の程度、なんでもいいが、実践としての「教育」が準拠すべき前提は学習者の現況である。与件である。それを「肯定する」ところから始まる。「肯定する」という言葉に規範的な意味を読み込む必要はない。事実として「受け入れる」というぐらいの意味だ。患者の病や怪我を治癒しようとする医者が「この患者はなぜこんなにも不摂生な生活を続けてきたんだ」とか「なんでそんな不注意に横断歩道を渡ったんだ」なんて嘆いたり非難したりしないだろう。そう言ってるあいだに患者の症状を吟味し、最善の治療法を模索して呻吟するはずだ。

そういう仕事だから。

今の学生はあんなこともできない、こんなこともできない、、、意欲がない問題意識がない積極性がない基礎学力がない自分の頭で考える力がない自ら調べようとする探究心がない、、、、、、そりゃいろんなことができないだろうし、いろんなものがないだろう。だが、だからなんだというのか。ではこれぐらいのことはできるようにしましょう、身につけましょう、という話にしかならないのではないか。そのために最もよい方法を模索し実践するだけではないのか。外野が言うなら無責任なところでガヤ入れてるだけだろうとも思えるが、当の教師がそう言っているのを目にすると「それがどうした」と返してみたくもなる。

いや、教育機関にはもう一つの与件として、「達成目標」というものが厳然とある。大学教育修了ではこれこれができるようにならなければならない、しかるに入学してくる学生がこんなことも身についていなければそんな教育目標の達成など不可能だ高校はなにしてる→→高校教育ではこれこれができるようにならなければならない、しかるに入学してくる生徒がこんなことも身についていなければそんな教育目標の達成など不可能だ中学はなにしてる→→(以下同文)。なるほど、本来あるべき大学教育が成立しえない、と、そういうことだ。

まず。

教育機関の機能を「選抜した人材の訓練可能性を示すシグナル提供」にしか見ない、まったくの、純然たるスクリーニング理論的前提をとらないかぎり、大学教育の機会を開放することには意義がある。もしも、まったくの、純然たるスクリーニング理論的前提をとるならば、大学教師であるあなたの教育業務の存在意義は皆無であるので、辞めてよい。

大学の社会化機能の存在をいくばくか認めたとしよう。だがそれでも、その社会的収益率は初等・中等教育のそれに比べれば見劣りがするだろう。なぜなら大学のような「高等」教育は過剰なのだから。そんな収益が上がるはずもない人材の育成に税金を投入する大学教育など、無駄な公共投資である。

だが、ほんとうに?

大学教育の成果を測る一つの指標が、投資収益率である。・・・この指標からみても、決して日本の大学が過剰だとはいえない。最近の10年間では、20代および30代における学歴間の賃金格差が拡大している。若年層のおける労働力の質的向上と教育投資が求められているということである。大学教育に対する公的資金の投入は、機会の均等化政策のためだけでなく、経済の効率性からみても支持される政策的含意である。(矢野眞和・濱中淳子、2006「なぜ、大学に進学しないのか:顕在的需要と潜在的需要の決定要因」『教育社会学研究』第79集(85-104頁)、101頁)

「本来あるべき大学教育」にふさわしいとはとても思えない学生がこんなに増えているというのに、大学が過剰じゃない?

大卒者比率が大きくなれば、大卒の価値が低下するから、高卒との相対賃金は小さくなると一般に考えられている。「大学進学率が上昇したから大学に進学する価値はなくなった」「もはや大学は過剰だ」。そういう話しがしばしば語られる。今でもそういう語りが根強い。・・・ところが、必ずしも、そのようにはなっていない。・・・高学歴化が進展し、大卒比率が上昇しているにもかかわらず、大卒の価値は減少するどころか、増加した。注意しておかなければならないのは、「大卒が増えれば大卒の価値が減少する」という説は、いつでも、どこでも通用する法則ではないということである。労働需要が変わらなければ、労働供給の増加によって賃金は下がる。しかし、高卒よりも大卒の労働需要が多くなれば、労働供給が増えても賃金は減少しないし、増加する場合もある。知識集約的な仕事が増えれば、高卒よりも大卒を優遇するようになる。世間の通念とは逆に、日本の大学は決して過剰ではない。(矢野眞和、2008、「人口・労働・学歴:大学は、決して過剰ではない」『教育社会学研究』第82集(109-123頁)、119〜120頁)

労働需要が変化した。産業構造・職業構造の転換、とはそういうことか。しかし、正確を期そう。

大卒の価値が低下しても、高卒の価値がそれ以上に低下すれば、大卒の相対価値は上昇する。(同上、120頁)

大学教育は決して過剰ではないが、だからといって、大学教育の効果が大きく上昇しているわけではない。高卒と比較した相対的な評価である。・・・「製造業からサービス業へ」、「専門的職業の増加」がこれからの大きなトレンドである。この構造変動に適応できるかどうかが、大きな問題だ。大卒の有利さは、高卒と比べて「相対的に強い」ところにある。「消極的な強さ」かもしれないが、大卒が経済変動と不況に強いのは確かだ。この消極的な大学有利説は今日の社会経済政策を考える上で示唆的だ。(同上、121頁)

なぜ?

賃金(=結果)の平等化ではなく、教育機会を平等化する再分配政策が、「社会変動と不況」による「不安と危険」を回避し、しかも経済を効率化する社会経済政策の要である。教育機会を再分配する「教育社会(Education-based Society)」の構築が新しい福祉社会モデルだと思う。(同上、122頁)

ここに、例の「外部経済性」のお話を付け加えてもよい。

歴史的にみて、教育機会の開放すなわち教育拡大とは、このような「合理性」のもとに進展してきた。そのことを踏まえない「今どきの学生dis」「Fラン大学dis」に見るべき価値はない。中世大学はフンボルトの理念と19世紀ドイツ型近代大学により淘汰され、変質を余儀なくされた。完膚なきまでに。そして、19世紀ドイツ型近代大学は機会均等理念に棹さし多様性と柔軟性を具備した20世紀アメリカ型現代大学により淘汰され、変質を余儀なくされた。完膚なきまでに。いま、21世紀に起きつつある変質がどのようなもので、どのような理念に根ざしたどこの・どのような「大学」により象徴されるものとなるのか、現在の私にその全貌は見えない。だが、新しい時代に適合的でなくなった前(前々?)世紀の大学像にすがりつつ新たな大学像をdisすることに見るべき生産性がないであろうことは、私にも分かる。

さて。

高校以下の教育段階で昨今憂慮すべきなにごとかが突然起こって冒頭の大学教師が慨嘆するような現況がもたらされたわけではない。今日であれば「そういう学生候補者」であっただろうところの広範な「そういう高校生(未満)」は、かつては大学に辿りつくことなく(=学び足し/学び直す機会を得ることなく)社会に放たれて行ったのだ。

大学は補償教育機関ではない、という。初等・中等教育で学ぶべきことは初等・中等教育で学ぶべきであって大学でそれを行うのは間違っている、という。制度の建前上、まったく正しい。それでは学び足し/学び直しの機会をどのように用意したらよいだろうか。標準的な答えは、各教育段階において厳密に学力到達度を精査して、身につけるべきものが身についていない学習者に対しては「その時点での学び直し」を命ずる=機会を保障する、というものだ。こういう考え方を「課程主義」とよぶ(1年経ったら全員に進級を保障する考え方は「年齢主義」とよぶ)。つまり、課程主義を厳格に適用して原級留置をバンバン出す、ということになる。もういい大人の年齢になった人間の小・中学校再入学を制度上可能にする、という選択肢を付け加えてもよい。

現時点で、義務教育に課程主義を残している先進国もあるが(かつてはたいていのところで課程主義だった)、果たしてそこは日本よりも学力水準が高いのか。原級留置きを繰り返し経験する人間は「課程主義」の発想が期待するようにその都度学び直し、ドロップアウトすることなく教育階梯を所定の水準まで確実に上ってくるのか。何度つまずいても? 周りがどんどん年下ばかりになっていっても? 既存の日本の諸制度を前提にしたとき学び足し/学び直しの機会保障として一番リーズナブルな選択は何か。義務教育が普遍化した現在、学び「直す」という選択は、それ自体既に負の刻印を覚悟する選択ではないのか。

すべての「大学」が義務教育補償機関となっているわけではないし、そうなるべきでもない(当たり前だ)。そして義務教育補償の機能を事実上担っている「大学」も、カリキュラムのすべてを「補償」にあてているわけではないし、あてるべきでもない。実際に模索されている/されるべきことは、大学レベルの専門教育の中身を学習する_プロセスにおいて_それ以前の教育段階において確実に身につけておくべきだった知識・リテラシーを(再)獲得しうるカリキュラム・実践の開発である。早期の教育段階に資源を厚く投入すべきことは論をまたないが、このような開発を蓄積しつつある/しうる大学教育に資源投入を図ることにも十分な合理性がある(大学は過剰ではない)。

そこに、今日の「大学」教育のフロンティアがある。

そもそも、現在の大学生のレベルが低下している、という言説の妥当性に疑問符はつけられよう。今の学生より昔の学生の方がレベルが低かった(レベルとはなんぞや、という話でもあるが)という憶測を傍証するエピソードには事欠かない(身の回り数メートルの事例だが)。初等・中等教育時代に身につかなかったものの習得がなぜ大学で可能なのか、ということもある。だが、「できない」と思い込まされてきた自身の思い込みさえ排除できれば、そして、かつては無意味に思われた学習すべき内容の「意義」をそれ以後に蓄積した種々の生活経験とうまく接続し回復できれば、驚くほど伸びる。まさに、「手をかければ、伸びる」。しかも、かなりの短期間で。

もちろん、現実は厳しい。だが、さしあたり、そうした現実の厳しさと所与の制度・組織の制約のもとでぎりぎりの解を模索しつつ対応するしかない。その模索の過程で、漸次的に踏むべき制度改革の歩みを刻んでいくしかない――それは教育費負担の親がかり状態から大学と学生とをともに解放することを基軸に据えたものとなるだろう。おそらく、その先に新たな大学像が立ち現れる。厳しい現実に置かれている大学――ノンエリート大学――の懸命な模索のなかから、新しい大学像が浮かび上がる。それは、教授言語を英語にするとかしないとか、入学式を春から秋に変えるとかよりももっと本質的な大学像の刷新をもたらすはずだ。

こう考えることができる――労働者が管理者や経営者に、誰もが医者や弁護士になりうる機会を開くことは民主主義的かもしれない。しかし管理者や経営者の意のままにならない労働者になること、医者や弁護士の不当な専門家支配を批判しうる市民になることのほうが、もっと根底的に民主主義的である。〈機会の平等〉以上に、名づければ〈決定権の(階層間)平等〉を重視するこの思想・・・・・・(熊沢誠「〈組合ばなれ〉の〈民主主義〉」『日本的経営の明暗』ちくま学芸文庫

新しい大学像の可能性は、〈機会の平等〉の唯一性を問い直し、〈決定権の平等〉の意義を確認する思想に根ざした「大学」を、ノンエリート大学生たちがついにわがものとしていく歩行のなかにある――バブル絶頂期の1988年にある労働研究者が労働者と労働組合復権を見据えて語った言葉を借りて、「労働者」と「労働組合」の箇所を「大学生」と「大学」とに読み換えて、その復権を語りたい。

冒頭の大学教師は自分の目の前の学生の実態に「絶望」したと語った。最近この国では「絶望」という言葉がずいぶんと安くなっている。「絶望」するほどの「希望」を自分の大学と学生とに、かつて賭けたのか。

あなたより若く、努力を継続する才能もあり、今日の大学のフロンティアに賭ける覚悟を備えた後進たちが、あなたが座っているその席が空くのを待っている。席を立ち、場所をあけろ。

私はまだ大学にも、自分の目の前の学生にも、「絶望」などしていない。