某研究会の備忘。
「松下圭一」の名前は、私の記憶が間違っていなければ、じつはRED研(多様な教育機会を考える会)の立ち上げ前のブレインストーミング期に出てきていた。今回のRED研本のなかでも1か所だけ、2巻(『公教育の再編と子どもの福祉2 研究編 「多様な教育機会」から問う――ジレンマを解きほぐすために』明石書店,2024年)所収の3章・仁平典宏「「バスの乗り方」をめぐる一試論――教育社会学の「禁欲」について」の88頁で登場する。
「4節 他者としての戦後教育学――教育社会学的アイデンティティの起源」の「(2)戦後教育学の社会認識と教育社会学①――「欠乏からの自由」との関係で」の箇所、小玉重夫の議論を紹介しながら、1950年代の教育構造論争のあとをうけた堀尾輝久の立論が「政治学者の松下圭一の大衆国家論を下敷きにしている」という(小玉による指摘)の形で。
まあ丸山門下だしね、的な。
しかしRED研ブレインストーミングででてきたのは松下圭一そのものが重視されてではなく、その教育社会学的展開を担(うことになるかもしれなか)った松原治郎、への注目、だったはず。この人が若くして亡くならなければ、というのは教育学畑では持田栄一などが代表例だが、松原も53歳という若さで亡くならなければ、たぶん日本の教育社会学はいまとは異なる何かになっていただろう。そしてそれはRED研的な関心と――肯定的にかそうでないかはさておき――密接に結びついた「何か」をもたらしていたはずだろう、的な。
「生活」、「地域」、そして「ふたつの新自由主義」。
とても興味深かったし、RED研初発のところで射程に収めていた(が、その後の展開のなかで零れ落ちた)テーマと密接にかかわるところでもあったので、次回以降も積極的に参加したい。(決意
仁平論文はぜひこちらをご購入のうえ参照してください。
「多様な教育機会」から問う――ジレンマを解きほぐすために (公教育の再編と子どもの福祉)

その仁平論文がなぜ「「バスの乗り方」をめぐる一試論」という風変わりなタイトルになっているかというと、こちらの1巻『公教育の再編と子どもの福祉1 実践編 「多様な教育機会」をつむぐ――ジレンマとともにある可能性』(明石書店,2024年)の拙稿「序章 バスに乗る――反復される対立構図を乗り越えるために」へのアンサーソングとなっているからです。
というわけで、ぜひこちらもあわせてご購入のうえ序章を参照してください。
「多様な教育機会」をつむぐ――ジレンマとともにある可能性 (公教育の再編と子どもの福祉)

(これは本の宣伝エントリである。――定式化