12.28『「多様な教育機会」から問う』読書会メモ

もう1か月以上前のことになりますが、某所で開催された拙共編著『公教育の再編と子どもの福祉』シリーズ(全2巻、明石書店、2024年9月刊)から、第2巻(研究編)『「多様な教育機会」から問う――ジレンマを解きほぐすために』を指定文献とした読書会に参加させていただきました。あつかましくも主催者の方に参加を希望し、ご厚意により快諾していただきました。編者が参加するのがよかったのかどうなのかは不明ですが、少なくとも私自身はたいへん勉強になりました。ありがとうございました。以下、備忘。

メインの検討対象書籍は上述のとおり2巻・研究編でしたが、これは2巻で1つのシリーズなので、参加者のなかには――ありがたいことに――1巻・実践編『「多様な教育機会」をつむぐ――ジレンマとともにある可能性』にも目をとおしてくださった方もありました。論点は多岐にわたりましたが、個人的に印象に残ったのは拙稿と深くかかわる以下の3点です。

① 2巻の拙稿「〈教育的〉の公的認定と機会均等のパラドックス――佐々木輝雄の「教育の機会均等」論から「多様な教育機会」を考える」の最終第5節「「教育の機会均等」のパラドックスの展開にむけて」での議論を引きつつ、「佐々木輝雄が「教育の機会均等」のパラドックスを『福祉国家による再分配』という解決策ではなく『教育の論理』に閉じたコミュニケーションとして解決しようと考えたのはなぜか」、また、「佐々木の問題意識は『教育の論理』に閉じたループに単に回帰しているように読めるがそれでよいのか、パラドックスの展開とは教育システムの通常運行で生じている過程なのか」というコメントをいただきました。

前者に対しては、佐々木輝雄は職業訓練――という当時の教育学界で周辺化され、貶価された領域――を拠点としてその教育的価値を考えた(異形の?)“教育学“者だったから、そして後者へは端的に「イエス」がミニマムのリプライとなるでしょう。そして両者は教育という機能を引き受ける領域が自律的に存立するために、そして自律的でありつつ環境の問題・変容に対応し、教育領域の問題としてそれを引き受ける進化を遂げるために不可欠なありように触れる点で通底しています。

やはり1990年代は日本の教育(学)界においてひとつの転機でした。そして先日のエントリ(https://morinaoto.hatenadiary.jp/entry/2024/12/21/193513
でも述べたように、それは「臨教審以後の教育改革路線がやつぎばやに具現化していく時期であり、それへの対抗言説の産出母体として教育社会学が存在感を増していく過程でもあ」りました。その過程で教育社会学界では「教育学は『教育の論理』に閉じた議論をしている(_だからよくない)」という趣旨の教育学批判が人口に膾炙したように感じます。ですが教育学が「教育の論理」に閉じたコミュニケーションを展開するのは、経済学が「経済の論理」に、政治学が「政治の論理」に、法学が「法の論理」に閉じてそうするのと同様、本来ふしぎなことではないはずです(のみならず、「そういう教育学はよくない」とする教育社会学による発信もまた「教育の論理」に閉じて流通する、といえる側面があります)。それが「よくない」と言えるためには、そう言えるための(歴史的)条件があるはずで――つまり普遍的に「よくない」わけではない――、その検討がなおざりにされてはいけないと考えます。

私はこうした教育(学)批判の定型は――よくも悪くも――苅谷剛彦先生が確立したと考えていますが(しつこい)、いちばんコンパクトに完成されたマニフェスト広田照幸先生による「教育学の混迷」(『思想』第995号の「思想の言葉」、岩波書店、2007年3月)ではないでしょうか。その冒頭、「教育学が、他の学問分野との問で共有する言葉を失うようになってから久しい。・・・・・・社会科学・人文科学の一分野として考えると、教育学は閉鎖的で、その水準もはなはだ心寒いものがある。」との断定から話がはじまります。もっとも、この小文は直後に続けて「どうしてこうなってしまったのだろうか。」との問いを立て、「そうなってしまった歴史的条件」の考察へと進んだのち、末尾で「教育学の一隅にいる者としての危機感から、政治や経済の変化に対応して理論を再構築するための足場を模索」し、「諸社会科学と教育学との対話の糸口を探すとともに、政治や経済と教育とをつなぐ思考の枠組みを探していきたい」との決意表明で締めくくります。

まあだから別にいいっちゃあいいんですけど――そして「歴史的条件」の一つひとつの指摘にもとくに異論はないのですが――、「諸社会科学と教育学との対話の糸口を探すとともに、政治や経済と教育とをつなぐ思考の枠組みを探」す営みもまた「教育の論理」に閉じるかたちで接続する、という側面を切り離さずに考えたい。別言すると、『教育には何ができないか』(広田照幸著、春秋社、2003年2月)と『教育は何をなすべきか』(広田照幸著、岩波書店、2015年3月)とは切り離さずに論じられる必要がある――そういう問題意識を佐々木輝雄という具体例にそくして展開したかったのですが、まだぜんぜん言葉足らずですね。近いうちにもう少し整理して発表できるようにしないといけません。(今後の課題(1)

② 1巻・2巻をつうじて、本シリーズ『公教育の再編と子どもの福祉』では、教育と福祉の区別、がひとつの軸となるテーマを構成しています。構成しているのですがしかし、その区別の内実がよくわからない、というより複数の異なるタイプの区別が混在しているようにみえる、という趣旨のコメントが――その複数の区別の具体的な定式化をともないつつ――ありました。これも重要な指摘です。

そのコメントによれば、たとえば一方で「何らかの政策的・公的介入のモードが「教育」として作られていくか「福祉」として作られていくかについての区別」がある(具体的には9章 小長井晶子「教育制度と公的扶助制度の重なり――就学援助と生活保護を対象として」)。他方で「教育の実践(コミュニケーション)が実質的に福祉の実践(コミュニケーション)になっている――作動的にカップリングしている――事例を考察」している論考もある(具体的には8章 金子良事「教育と福祉の踊り場――「居場所」活動の可能性についての考察」)。

これはまず「そのとおりだと思います」とリプライしたうえで、しかし前者が可能であるのは後者があるからではないでしょうか、つまり「何らかの政策的・公的介入のモードが「教育」として作られたり「福祉」として作られたりできる」のは、「教育の実践が実質的には福祉の実践になっている(場合がある)」からではないでしょうか、という問いに変換したうえで、自分でもう少し考えつづけてみたいと思います。(今後の課題(2)

ここで後者に「作動的カップリング」なる文字列が入っているのはニクラス・ルーマンの所論が念頭に置かれているからですが(2巻の拙稿もそのひとつ)、②のコメントと連動して、ルーマンのシステム理論では「福祉は教育や政治・経済・宗教と等価な機能システムとして成立しているとはみなされてい」ない、したがって「福祉は……他の機能システムに寄食的な性質を持つとみることができる」のではないか、「教育と福祉はそもそも異なる制度的特徴を持っている(等価ではない)ことから出発するべきである」のではないか、とのコメントもいただきました。これも超絶重要なご指摘です。

たしかに、福祉の領域では教育福祉をはじめ医療福祉、司法福祉など他の機能領域の名称と結びついた「連辞符福祉」概念が使われることにはすぐ気がつきますし、社会保険は経済システムと接合して機能する仕組みですので、「福祉は他の機能システムに寄食的な性質「も」持つ」という点に異論はありません。ですが、それに尽きるかどうかは検討の余地があるようにも思われます。ここで「福祉の領域では」という言い方がとくだん不自然でなく通じてしまうことをもって、私たちは「福祉」と呼ばれる機能領域が「在る」ということから出発してよいのではないか、とはいえないでしょうか。

以下の諸考察は、「(諸)システムが在る」ということから出発する。(ニクラス・ルーマン馬場靖雄訳)『社会システム――或る普遍的理論の要綱』(勁草書房、2020年):27頁=第1章冒頭)

裏を返すと、では教育はほんとうに「政治・経済・宗教と等価な機能システムとして成立している」といえるのかどうか。「人間」――という社会的システムにとっての環境――のよりよい方向への変化にむけて働きかけるコミュニケーションの全般がそうなのかもしれません。

したがってこの[象徴的に一般化されたコミュニケーション――引用者]メディアは、環境を変化させることを機能とするようなコミュニケーション領域には適合しないということになる。……人間の身体の変化も、意識構造の変化も含めて、である。だからこそ……医療のための、教育のための象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアは存在しないのである。これらの事例においては、象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアの自己触媒〔過程〕をスタートさせることになる問題が、そもそも登場してこない。その問題とはすなわち〔コミュニケーションが〕拒否されるほうがきわめて蓋然性の高いことである、という点であった。少なくとも全体社会の中で医療と教育のために分出した機能システムは、何よりもまず組織化された相互作用に高度に依存しており、独自のコミュニケーション・メディア抜きでやっていかねばならない。今挙げた……[医療や教育といった――引用者]問題領域のどれも、単独のコミュニケーション・メディアによって支配されてはいない。真理によっても[科学のように――引用者]、貨幣によっても[経済のように――引用者]支配されているわけではないのである。……なるほど象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアは重要ではあるが、全体社会システムの機能分化は単純にメディア図式にしたがうものではありえない。むしろ全体社会システムがその時々の発展水準において解決しなければならない問題次第なのである。ニクラス・ルーマン馬場靖雄ほか訳)『社会の社会1』(法政大学出版局、2009年9月:467-8頁)

だとすればむしろ私たちは、教育といい福祉といい、その制度としての成立可能性条件を、それを構成する当該領域に特有なコミュニケーションに差し戻しつつ検討する、といったかたちで経験的研究を進めていき、その過程で教育と福祉の区別であれ、「寄食的な性格」であれ、制度として等価であるかどうかであれ、に適切な記述を与える課題に取り組めばよい(取り組むべきである)のではないか、と。(今後の課題(3)

また、拙稿以外の論考をめぐるやりとりのなかから関連する論点をひとつ。教育と福祉の区別は普遍主義か選別主義かの区別とは「関係ない」、と。福祉=選別主義でなく、教育にも選別主義と普遍主義がある。普遍主義か選別主義か、ではなく、「何を目的とするか」が教育と福祉の区別を構成する、と。なるほど。

いずれにせよ、重大な宿題を複数いただきました。とりあえず「福祉も一つの機能システムであるという主張をしている」というルーマン弟子筋、と思しき文献は取り寄せはじめました。(どうなることか。

③最後に、「教育機会」概念についても複数の重要なコメントが寄せられました。それらは2巻1章 卯月由佳「多様な教育機会とその平等について考える――ケイパビリティ・アプローチを手がかりに」と同3章 仁平典宏「「バスの乗り方」をめぐる一試論――教育社会学の禁欲について」とを対比的にとらえる論述形式において共通していたように記憶しています。

ここからは私なりの理解で展開した敷衍です。「教育機会」概念には複数性があります。3章の仁平論文は冒頭でその簡単な整理から入っていますが、仁平の論述の基底には一般にSSM研究や「教育と社会階層」研究で前提とされる「教育機会」概念がある――「社会的属性の教育・地位達成への効果」(83頁)や、佐藤俊樹を引きながら「機会の不平等は事後的にしかわからない」(84頁)との指摘など――と。それとケイパビリティ概念に依拠した卯月論文の「教育機会」概念には違いがあるし、2章拙稿で佐々木輝雄が問題にしていた「教育機会」はもっと制度的に限定的な意味で用いられている、と。

卯月論文がもちいる「教育機会」概念の抽象性(?)を指摘するコメントがあったようにも記憶しています(が、私の理解が間違っているかもしれません)。あるいは「意思決定以前の時点での介入や改善の必要性」を強調する卯月論文と、「事前の介入・制御」に懐疑的な仁平論文、という対比もあったような(が、記憶に自信がありませんし、かりにそういう指摘があったとしてそれが妥当な指摘かどうかはいまは不問で)。さらに、いずれの論考においても「教育内容」に踏み込んだ「教育機会」概念は提起されていない、という点にも言及があったように思います。これは私が拙稿2巻2章の最終節・5節「「教育の機会均等」のパラドックスの展開にむけて」のなかで取り上げた佐々木輝雄による問題提起のひとつ――「普通教育」とは何か――にもつうじる指摘かもしれません。

教育機会が不平等なとき、政策的対応による是正が必要なことへの疑問は少ないでしょう。ですが、どのようなときに教育機会が不平等だといえるか、公共政策によって対応すべき不平等とは何か、その対応はどのような規範にもとづくべきか、そしてそもそも教育機会とは何か、について必ずしも明快な合意があるわけではありません。そうした「教育機会」概念の特性が、ここでも浮上しているのだと思います。

思いのほか長くなりました。今日はここまで。
(※なお末尾になりましたが、以上の記録は私の理解を介したもので、当日発言された方々の趣旨を歪めて記述している可能性があります。その点を含め、上記の文章にある誤りの責はすべて筆者である私が負うべきものであることを強調しておきます。