黒崎勲先生

昨日エントリを書きました広田照幸『格差・秩序不安と教育』(世織書房)のあとがきで黒崎勲先生が御逝去されていたことを知りました.遅ればせながら御冥福をお祈りいたします.

黒崎先生が都立大学に在職当時,東京大学大学院教育学研究科に非常勤でゼミを開講されていたことがあります.当時M1だった私は同じ研究室の先輩院生などと2〜3人でそのゼミに参加していました(他コース開講のゼミだったので).『現代日本の教育と能力主義』(岩波書店)を出版されて間がなかったので,それを題材にしたディスカッションが中心だったと記憶しています.

教育行政学者である先生の議論は,教育社会学の研究成果を厳しく批判的に咀嚼したうえで,深度のある哲学的・原理的考察へと沈潜していき,そのうえであくまで別様の教育の可能性を展望する課題に正面から応えようとする,きわめて緊張度の高いものであったと思います.

当時の先生の中心課題は「能力主義」批判.それはとりもなおさず「戦後教育学」の王道だということでもあります.実際,その凛としたお姿には(表現が適切かわかりませんが)「戦後教育学」の最後の世代,とでもいった雰囲気が漂っていたように思います.

人間の可能性を「市場能力」という経済的要請に切り詰める「能力主義」理念は間違っている,と.新しい教育理念にもとづいた多様化こそ求められる教育の姿なのだ,と.

その真摯で清冽な議論に接するなかで,しかしながら自分のなかに沈殿する違和感をどのように言語化していくか,ということが,その後の私の研究生活にとって一つの大きな道標となりました.

そして実際に黒崎先生ご自身は,90年代末以降に日本を席巻する教育改革,とりわけ学校選択制の是非をめぐって,日本を代表する教育社会学者・藤田英典氏とのあいだで大きな教育論争を繰り広げることになります.いわゆる藤田‐黒崎論争.『教育学年報』(世織書房)を舞台とした議論の応酬は,他の教育論争にはみられない議論水準の高さと,その高さゆえに両者の対立構図ごとの袋小路への閉塞とを浮き彫りにするものとなりました.達成ゆえに明瞭となった「対立構図そのものの限界」こそが,この論争を現在でも顧みられるべき「遺産」としているといってよいでしょう.

なによりも広田照幸氏の『思考のフロンティア・教育』から『格差・秩序不安と教育』の考察こそ,この藤田‐黒崎論争のアポリアから脱するための試行錯誤がもたらした最良の成果であるわけです.

最後になったが、本書を、故黒崎勲先生に捧げたい。本書への辛口の批評を黒崎先生から聞きたかった。

という広田照幸氏の述懐は,読者である私自身の切実な読後感そのものでもあります.

先生の御冥福をお祈りしつつ,微力ながらこの試行錯誤の営みを引き継いでいく所存です.

黒崎先生であれば,ここでどのような厳しい批判をされるだろうか,と思いを馳せながら.

現代日本の教育と能力主義―共通教育から新しい多様化へ

現代日本の教育と能力主義―共通教育から新しい多様化へ