執筆者(=自分)への3つの質問の回答編(1)――『公教育の再編と子どもの福祉』【全2巻】合評会の予習用②

9月29日(日)には多様な教育機会を考える会(rethinking education研究会、以下RED研)からでるシリーズ『公教育の再編と子どもの福祉』全2巻の合評会が開催されます。対面参加の申し込み受け付けは終了しましたが、オンライン参加の申し込みは前日28日(土)まで可能です。
「多様な教育機会」をつむぐ――ジレンマとともにある可能性 (公教育の再編と子どもの福祉)
「多様な教育機会」から問う――ジレンマを解きほぐすために (公教育の再編と子どもの福祉)

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9月29日10時~書評会申し込み_多様な教育機会を考える会出版刊行記念@日本大学文理学部

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「合評」「書評」と謳っていますが、前半は編者と1巻第Ⅱ部・第Ⅲ部執筆者の方からの振り返りなどをメインに進め、後半で末冨芳さんから2巻本全体への(かな?)コメントをいただく、のような構成になっているはずです。去る8月29日に日本教育学会で開催した(基本的に学会員のみが参加する)ラウンドテーブルでは2巻〈研究編〉のみを対象に扱ったので、公開企画となるこちらは1巻=実践畑の方を(どちらかというと)メインターゲットとして考えています。

さて、ある本の著者が参加する「合評会」のような場では、著者自身による簡潔な自著紹介(上記2巻本のような論考集の場合は「論考紹介」)があると便宜です。とりあえず、その場でその論考についていちばんよく知っているのは著者であるはずなので、その人自身による「解説」があると助かります。たとえば、以下3つの質問への回答のようなかたちで。

①この論文で取り組んだのは、どのような課題ですか?
②その課題に対して与えた回答は、どのようなものですか?
③こうした課題に取り組むことには、どのような意義がありますか?

これへの著者による「回答」と評者の「評」とを対置すれば、聴衆にとっても話に入りやすい、というわけです。

上記の質問は、contractioさん(https://socio-logic.jp/)企画の書評会等で常用される質問ですが、この質問に回答しようとすると、論考で展開していた議論を別の言い方に言い直す(パラフレーズする)ことが行われます。それはすでに読んでいる人の理解も深めますし、まだ(十分に)読めていない人にも必要最低限の情報提供となるでしょう。contractioさん企画のニクラス・ルーマンという社会学者の書いた本をもとにした講演でも――各質問の趣旨の明示とともに――用いられています(たとえば以下、
酒井泰斗+三谷武司「ニクラス・ルーマン解読3:組織合理性の社会学─『目的概念とシステム合理性』を読む(質疑応答)」(2016年04月-06月、朝日カルチャーセンター新宿) - 日曜社会学

Q01. 本書で ニクラス・ルーマンが 取り組んだのはどのような課題ですか。
 -まだ本を読んでいない方を念頭に、「何について書かれた本なのか」を教えてください。
Q02. それぞれの課題に対して、ルーマンが与えた回答はどのようなものですか。
 -すでに本を読んだ方にとっての再読のガイドとなることを狙って、この本のポイントがどこにあるかを教えてください。
Q03. こうした課題に取り組むことにはどのような意義がありますか。
 -本書に直接記されていないことやアカデミックな文書の中にはふつう記されないが 知っておくと理解に資するような背景的な状況・文脈などを伝え、読者が、より広いコンテクストのなかで本書の評価を行えるよう手助けをしてください。

これにもとづくと、編者である私には2巻本のシリーズ全体を対象としたこれら3つの質問への回答が求められるところになりそうですが、ここではそうではなく、私が寄稿した一つひとつの論考を対象にした「執筆者への3つの質問の回答」を順に公開していきましょう。

といいますか、このかん私自身が1巻・2巻に寄稿してくださった執筆者のみなさんに「執筆者への3つの質問」を投げかけていました。以下は、その質問を自分自身に対しても同様に投げかけてみた、それへの回答となります。ただし、今回私が執筆者のみなさんに投げた質問は1巻と2巻で微妙に違っています。

-1巻〈実践編〉の執筆者のみなさんへ
[RED研について]
①RED研に参加し(続け)たのはなぜですか?
[寄稿した文章について]
②今回の本に寄稿した文章で取り組んだのは、どのような課題ですか?
③その課題に対して与えた回答は、どのようなものですか?

-2巻〈研究編〉の執筆者のみなさんへ
①今回の本に寄稿した文章で取り組んだのは、どのような課題ですか?
②その課題に対して与えた回答は、どのようなものですか?
③こうした課題に取り組むことには、どのような意義がありますか?

つまり、1巻〈実践編〉への執筆者の方には、そもそもなんでこんな――いささか風変わりな――研究会に参加し(続け)たんですか? という質問に替えています。これは素朴に、私が一度みなさんに尋ねてみたかった質問だったからです。

さて、私は1巻の「序章」と「1章」、2巻の「2章」を書いていますので、今日から3回にわけてご紹介します。9月29日の合評会でも自分の担当箇所について話す機会はありそうなのですが、与えられた時間をみると、とてもじゃありませんがすべてを語る時間は到底ありそうになかった――たぶん与えられた時間の3倍はないと話し終えられない――ので、あらかじめこちらで少し。

前フリが長くなりました。以下、今日は1巻・序章「バスに乗る――反復される対立構図を乗り越えるために」について。

[RED研について]
①RED研に参加し(続け)たのはなぜですか?

私はRED研を立ち上げた張本人のひとりですので、RED研のウェブサイト多様な教育機会を考える会 - 立ち上げの経緯にも書いたとおり、いちばん最初は「多様な教育機会確保法案」に潜む問題点や危険性についての問題意識・危機意識をもったことがきっかけです。ですが、その認識が素朴すぎることに気づいてからは、この法案の提起した問題がそれ以前に参加していた共同研究――1巻10章の座談会で紹介している「広田理論科研」、広田照幸・宮寺晃夫編『教育システムと教育――その理論的検討』(世織書房、2014年)――で考察していた問題と重なっているんだということに思い至りました。それまでアカデミックにのみ議論していた問題について、現実のほうがものすごいスピードで追い越そうとしているように感じられて、これにキャッチアップしていかないといけないと考えたことがひとつめの理由です。


RED研を立ち上げてから3年目が終わるころ、現場で支援の取り組みにかかわってこられた実践者や運動家の方々による話題提供が多くなってきたころからは、その人たちの話す内容が――少し語弊があるかもしれませんが――ただひたすら興味深くて、それを聞くことが楽しみになって続けてきたところがあります。


もともと私は調理しているコックさんや板前さんの手元をずっと見ていられるカウンター席での食事とか、通りすがりの建築現場で作業している大工さんたちの仕事ぶりを立ち止まって凝視する癖があるというか、いつまで見ていても飽きないぐらい好きなのですが、それと似た感覚があります。プロのやる仕事を見たり、プロが自分の仕事について語るのを聞いたりするのが好きといいますか。


まず、自分にとって「赤の他人」でしかないはずの誰かのために、ここまで真剣に取り組む人がいるということ、そういう人がいま目の前にいて話をしている、ということが私にとってとても重要な出来事です。その人が自分の取り組みについて語るなかに、私には到底思いつかない――でも言われてみると「なるほど」と思える――さまざまな工夫やスキル、配慮や洞察・分析があることに気づかされます。さらに、それらの人がそれぞれの現場でモヤモヤしたまま自分でもうまく言語化できずにいる悩みや考えを、時間をかけてなんとか言葉にしようとする営みのなかに自分も引き込まれ、いっしょに考え始めることになる――そういう経験を繰り返すことが、私にとってとても重要な時間になりました。


もちろん、「いっしょに言語化しようとする」営みの結果、それがアカデミックな考察につながることにも意義を見出していましたが、それ以前/以上に、「人のよりよい・より望ましい方向への変化にむけたコミュニケーション」にかかわる人びとの「プロ」性――これは必ずしもそれを「職業」にしているということを意味しません――や専門性、そしてそうであるがゆえにこそ抱えることになる悩みや手応えや憤りや喜びなどの表明に触れる経験を毎回の研究会でできることが、私がここまでRED研を続けてこられた最大の理由ではないかと思います。

[寄稿した文章、1巻・序章「バスに乗る――反復される対立構図を乗り越えるために」について]
②今回の本に寄稿した文章で取り組んだのは、どのような課題ですか?

序章では、RED研がどういう集まりなのか、そして、この2巻本がどのような主題を、いかなる角度・スタンスから扱う本なのかについて解説・紹介する課題に取り組みました。とはいえ、RED研がどういう集まりなのかついては、すでにRED研ウェブサイト多様な教育機会を考える会 - 本会の趣旨のページに、〈何を議論するのか〉、〈なぜ議論するのか〉、〈何をめざして議論するのか〉という3つのセクションに分けて簡潔にまとめた文章があります。したがって、まずはこれを冒頭で紹介したうえで、そうしたスタンスが選び取られた/選び取られなければならない「必然性」をあらためて説明する必要があります。


序章ではこの課題に取り組むにあたって、まず公教育(の形成と変容)を福祉国家の形成と再編という大きな歴史的趨勢のもとでとらえる視角を採用したうえで、ある歴史的局面ごとの教育をめぐる議論に特徴的な、それぞれの時代に反復されがちな対立構図の移り変わりを示しました(3節)。そして、そうした移り変わりの次なる局面への移行が求められている現在、という時代背景のもとでRED研の議論スタイルが生まれてくる必然性があったこと、そしてこのような2巻本が刊行される意義があることを説明する、という手順で議論を進めました。


その結果、この序章は上記ウェブサイト「本会の趣旨」ページの文章のうち後半2つのセクション、すなわち「多様な教育機会」について論じるRED研が、なぜそれについて議論する必要がある(と考えている)のか、そして、何をめざして・何のためにそれを議論するのかという会としての存在理由や最終目標に重点を置いた説明になっていると思います。

③その課題に対して与えた回答は、どのようなものですか?
まず、戦後日本の教育をめぐる議論の対立構図の移り変わりを以下のように描きました。第2次世界大戦後の福祉国家形成期には、教育政策の多くを立案・推進する与党・自由民主党&文部省と、その動きを戦前への回帰・復古を意図した「国家による教育への介入」とみなして強く批判する野党・社会党日教組とのあいだにあった保守・対・革新の政治的イデオロギー対立が、教育をめぐる議論で反復される構図の基盤にありました。


それが次の局面へと移るのは、1984-87年の臨時教育審議会答申が打ち出した「教育の自由化」路線への評価をめぐる対立構図の反復が見出されるようになる1990年代です。学び、成長する人びとの「自由」を重視して現状の改善をめざした制度改革の構想と、それを臨教審の「教育の自由化」論と同じく序列化・競争・不平等の拡大をもたらす「新自由主義的」な改悪だとして批判・棄却する議論との対立です。


この対立構図の反復のもとでは、人間の多様性を深刻に受け止め重視したうえで「決定権は、その人にある」という根本的な自己決定=自由の実現をめざす教育改革の構想や実践すら「格差拡大をもたらす改悪でしかない」といって切り捨ててしまう定型的な批判――これを「「教育社会学的」批判のテンプレート」と名づけています――が浸透・定着してしまいかねません。RED研は「教育の自由化」論以降にあらわれた新たな対立構図において、その一方の極をなした「「教育社会学的」批判のテンプレート」がもたらす「副作用」を問題視して誕生します。


自由=自己決定の強調が「自己責任論」の増長と結びつくことは絶対に回避しなければなりませんが、自由=自己決定こそがあらゆる人への尊厳の根底に据えられるべきことも譲ってはならない一線です。「多様な教育機会確保法案」の提起した問題も同様です。つまり、この法案は「そのまま通してはならない法案」ではありましたが、同時に、「潰してはいけない法案」でもあったのです。それゆえに、RED研はウェブサイト「本会の趣旨」ページの文章にあるようなスタンスを選んだのだ、と結論しました。


政策批判の「副作用」を重視するということは、言い方を変えると、ある政策への批判がひるがえって別様の政策を推進・正当化する機能をもってしまう可能性に自覚的になる、ということでもあります。教育実践の主軸を子どもの自由と主体性を重視した「子ども中心主義」的なものに置き換えようとして推進される政策への批判言説が、「子どもの規律訓練」を名目にした抑圧的管理を正当化する機能をもってしまう、のように。


つまり、ある構想の推進者も、その批判者も、どちらも同じ社会を構成して未来を展望する、「同じバスに乗り合わせた乗客であり、乗員なのだ」とする前提のもとで議論を交わし、そのつどの暫定的な合意を形成していかなければなりません。序章の最後では、RED研が選んだスタンスから帰結されるこの規範を、「バスに乗る」という比喩のもとで表現しました。

今日はここまで。