なぜ語「多様な教育機会」をタイトルに含む本を出したのか

2016年4月の立ち上げから8年半、立ち上げ準備から数えると丸9年、活動を継続してきた多様な教育機会を考える会(rethinking education研究会、略称RED研)が近くシリーズ『公教育の再編と子どもの福祉』【全2巻】を明石書店から刊行します。アマゾンにも書影がでました。

1巻〈実践編〉「多様な教育機会」をつむぐ――ジレンマとともにある可能性

2巻〈研究編〉「多様な教育機会」から問う――ジレンマを解きほぐすために

9月29日(日)10:00-12:30には合評会『公教育の再編と子どもの福祉【全2巻】』合評会のお知らせ - 株式会社 明石書店も開催されます(対面@日本大学文理学部とオンラインの併用、詳細はリンク先を参照のこと)。

2015年に通称「多様な教育機会確保法案」という小さな法律案が話題にのぼりました。不登校の子どもたちを支えてきたフリースクールの関係者が中心となって推進されたものです。そこには義務教育段階の学校以外の場での学習活動を「正規の学習」として認定しようとする構想がありました。これは日本の義務教育の原則を「就学義務」から「教育義務」へと大きく切り替えることを意味します。ですが、フリースクール業界内部にも反対の声が沸き起こり、最終的にこの法案は廃案となりました。その後、条文中の「多様な」という文言がすべて削除され、就学義務制を維持・補完する「教育機会確保法」という法律へと姿を変えて、2016年に成立します。

「多様な教育機会」という語は、したがって日本という島国の、その教育の歴史のごく一瞬、最終的には廃案になった法案の推進・反対をめぐる種々の政治的思惑や運動上の便宜などの偶然が重なってたまたま埋め込まれることになった「あだ花」のような言葉です。そもそも当初法案の正式名称は「義務教育の段階に相当する普通教育の多様な機会の確保に関する法律」でしたので、「多様な教育機会」はその「略称」のなかにしか登場しない、何重にも便宜的・偶然的な歴史の産物でした(ちなみに条文(案)中にも一度も登場していません)。

そんな言葉を2巻とものメインタイトルに据えた本シリーズは、いったい何をなした(かった)のか。

2015年から2016年にかけて、当初法案が廃案に至るプロセスのなかで、「これだけ反対と憂慮の声があるのに、議論を尽くさず法案推進を強行するのは拙速に過ぎる」といった類の物言いを何度か目に(耳に)しました。そして、その後、その言葉どおりに事態は推移しました。

しかし、あのまま運動を進めることが「拙速」だったとするならば、拙速でない議論とはどのようなものであり、だれが、どこで、どのように進めるべきものなの(だったの)でしょう。

私(たち)は、法案が廃案になったあのときに「尽くすべき」だとされた議論を、その議論の交わし方の模索もかねて、9年という時間をかけて尽くしてきました。なるほど、たしかに語「多様な教育機会」とは上記のような経緯がたまさか生んだ産物でしたが、その法案が提起していた問題は決して忘れ去られるべきでない歴史的意義と必然性、そして普遍性すら備えたものだったからです。「議論を尽くすべきだ」との主張が当座をしのぐためだけの掛け声に終らないように、私(たち)なりの問題意識とやり方で、議論を継続してきました。

その成果がこの2冊の本になりました。ここにあるのは、したがって決して「拙速な」議論ではありません。このことは断言できます。

しばらくのあいだ、この本にまつわるいくつかのことを書いていきたいと思います。