さて、『公教育の再編と子どもの福祉』【全2巻】合評会(9月29日10時~書評会申し込み_多様な教育機会を考える会出版刊行記念@日本大学文理学部)の予習用と題した連続エントリも今日で4回目、これでとりあえず打ち止めにする予定です。
今日は2巻〈研究編〉の第2章として寄稿した論文「〈教育的〉の公的認定と機会均等のパラドックス――佐々木輝雄の「教育の機会均等」論から「多様な教育機会」を考える」の執筆者(=自分)への3つの質問に対する回答文です。
このブログを「佐々木輝雄」で検索してもらうと16個のエントリがヒットするはずです。それぐらい多く言及してきた人物です。そのいちばん最初の日付はじつに2010年6月23日です(佐々木輝雄と「教育の機会均等」・序 - もどきの部屋 education, sociology, history)。
そこに書いてあるとおり、田中萬年先生から、ほんとにただの(=「無料」と二重の意味で)ご厚意で『佐々木輝雄職業教育論集』【全3巻】(多摩出版,1987年)を送っていただいたのが最初でした。また、佐々木輝雄が1974年に日本教育学会の『教育学研究』に投稿して不掲載のまま終わった投稿論文「教育刷新委員会第13回建議の『教育の機会均等』概念について――第3項建議を中心に」の本文とその周辺資料を編纂した私家版の資料集もこのときあわせて送っていただきました。
この論文は14年前の田中萬年先生のご厚意に応えようとした、現時点での私の「卒業論文」です。長く、佐々木輝雄の言ってる(書いてる)ことはほとんど何もわからない状態が続きました。あまりにも時間がかかり過ぎたので、これがふつうの大学だったらとっくに放校処分になっているところですが、なんとか自分なりの答えを出しました。ご笑覧いただけたらうれしいです。
①この論文で取り組んだのは、どのような課題ですか?
この論文では、佐々木輝雄という研究者が論じた「教育の機会均等」論を解読する作業を行いました。佐々木輝雄は1938年生まれで1985年に47歳で死去した研究者で、職業教育・訓練論を専門とし、1968年から1985年に死去するまで職業訓練大学校に在籍しました。この人が1975年と76年の2年間に「教育の機会均等」を主題とする論文を集中的に書いています。
その内容は、戦後直後の占領期に内閣総理大臣の諮問機関として戦後教育改革の重要事項を調査審議した教育刷新委員会が行ったある建議――第13回建議「労働者に対する社会教育」――に注目し、建議に至る審議過程で交わされた議論のなかに「二つの異質な「教育の機会均等」概念」とその「対立」を見出すものです。
佐々木はこの「二つの異質な「教育の機会均等」概念」に、「学校教育制度内/学校制度外」とか、「組織志向/個々の教育行為志向」とか、「制度的整合性/非整合性」とか名称を与えます(が、これらはすべて同じ「二つの異質な「教育の機会均等」概念」の区別を言い換えたものです)。そして、もしわれわれが「教育の機会均等」の実質的かつ完全な実現を追い求めるなら、この「二つの異質な「教育の機会均等」概念」のあいだにある「対立を発展させる」ことが必要だと述べます。いいかえると、「教育の機会均等」の実質的な保障は、この相対立する「二つの異質な「教育の機会均等」概念」を同時に追求するという「パラドックス」のもとでしか実現しえない、と主張します。
私は以前から佐々木による「教育の機会均等」論は重要そうだと直感しながら、「二つの異質な「教育の機会均等」概念」を同時に追求する「パラドックス」というのが一体どういうことを指すのか、なぜ「教育の機会均等」の実質的な保障は「パラドックス」のもとでしかなされえないといえるのか、そして、もしそれが本当に「パラドックス」であるならそもそも「教育の機会均等」というのは実現不可能な理想でしかないのか、等々といった疑問を解消できずにいました。
今回の論文は、この疑問に答えを与えるものです。
②その課題に対して与えた回答は、どのようなものですか?
回答はつぎの2つのステップにわかれます。まず、佐々木の述べる「「教育の機会均等」のパラドックス」とはいかなる事態を指すのか、つぎに、「教育の機会均等」は実現不可能な理念でしかないのか、実現可能なのだとしたらそれはいかにしてか、という手順で答えました。
われわれが社会にある何らかの問題の解決を試みようとするとき、あるいは、人びとのより望ましい生のあり方を追求しようとするとき、準拠しなければならない理念や正義が二つ(複数)あり、そのいずれも追求しなければならないが、同時に、二つの理念のあいだには相互に矛盾する側面がある、というのは普遍的に直面せざるをえない事態です。ここで二者択一の発想になって、どちらか一方のみの追求に限定してしまい、他方を忘却・無視してしまうと、われわれはその問題の解決可能性を永遠に手放し、解決不可能な難問の前で立ちすくむことになります。
「教育の機会均等」という課題についても同様です。一方で教育制度の整合性を重視して、行き止まりのルートのない、開放的な学校体系を整備・維持することが重要ですが、他方で、現実の不平等な社会のもとでは学校制度だけで「教育の機会均等」を完全に保障することはできないので、学校体系の外部にも教育機会を用意する必要があります。ですがそうすると、今度はそれが教育の「制度的整合性」を裏切る「袋小路」を用意してしまうことになる、という矛盾があります。この両立不可能な課題を、しかし、同時に追求することを放棄してはならない、いいかえると、二つの「教育の機会均等」概念のあいだにある矛盾にどちらか一方を消去することで対応してはならない――これが佐々木の主張の第一の要素となっています。
では、われわれには何ができ、何をなすべきなのでしょう。佐々木によればそれは、解決不可能な難問にみえる課題に潜むパラドックスを明るみに出し、そのパラドックスを「展開」することです。「パラドックスを展開する」というのは、そのつどの状況のもとで可能な解決策を暫定的に講じつつ、その解決策のもとで新たに発生するだろう次なる問題状況に対しては、その新たな状況のもとで、その状況に応じた可能な対策を新たな暫定的解決策として講じ、またその解決策のもとで生じた新たな問題に対しては……という営みを飽くことなく、絶えることなく継続することです。
すなわち、自らが直面する課題――今の場合は「教育の機会均等」の実現――に永遠・絶対・普遍の唯一解が存在するという仮定のほうを捨て、部分的で一時的な暫定解(としてしかありえない解決策)を不断に産出しつづけること、そのための問題把握と採りうる解決策の探索をやめないこと、となります。
これが佐々木の「教育の機会均等」論の中核にある主張です。
③こうした課題に取り組むことには、どのような意義がありますか?
そもそも、私が今回のRED研の著書のなかで佐々木の「教育の機会均等」論をとりあげようと思った理由は、佐々木の注目した教刷委第13回建議「労働者に対する社会教育」の第3項が「技能連携制度」案を建議するものだったからです。
技能連携制度というのは1961年に実際に成立する制度ですが――現在の通信制高校はこの制度とともに誕生しました――、教刷委が建議したのはこれとは重要な一点で異なります。それは工場などの職場に設けられた技能者養成所や見習工教習所といった技能養成機関で行われた活動や行為に対して、高校の授業と同じ資格の「単位」を授与する、ということは、そうした「正規の学校(=学校教育法の第一条に規定されたいわゆる一条校)」でない場・組織・機関で行われた活動を「正規の学習」として公的に認定するという内容をもつものでした。
重要なのは、単位認定にあたって、これら「学校にあらざる教育機関」に学校としての組織認定をクリアすることを求めなかったという点です。学校にならなくても、学校でないまま、そこでの活動を「正規の学習」として認定するということです。これは「多様な教育機会確保法案」が当初描いていたのと同種の構想です。学校としての組織認定を受けていない場や組織――フリースクールをはじめとする民間組織や家庭――で行われた活動・行為を「正規の学習」として公的に認定することを規定した「個別学習計画」案です。
この構想は、「学校である」という組織の規定と関係なく、ある活動や行為が「(正規の)教育である」ということをどのような制度的規則のもとで公的に認定していくか、という課題に取り組むものでした。本論文が明らかにした佐々木輝雄の「教育の機会均等」論の中核にあった主張は、この「多様な教育機会確保法案」の当初構想をさらに展開していこうと試みる運動や作業に重要な指針を与えるものだといえるでしょう。
佐々木によれば、1961年に実際に成立した技能連携制度は、「(通信制)高校に在籍する」という条件を外さなかったので、「二つの異質な「教育の機会均等」概念」のうちの一方だけ――「学校制度内教育の機会均等」だけ――を追求したものだといいます。戦後日本の教育全般が同様の方針を採ったので、そこでの「教育の機会均等」は部分的な保障にすぎないものとなり、その結果、高学歴化という形で「教育の機会均等」の保障を限定的には実現しつつも、その内実は「学校間格差の拡大」や「学校教育の空洞化」を進展させてしまうものだったという評価を下します。
ではどうすればよかったのか、という話になると(職業教育・訓練研究を専門とした)佐々木は、(1)「職業教育の人間形成的意味」についてもっと掘り下げるべきだったこと、それと同時に、(2)職業教育と対になるべき「普通教育」にかんする具体的検討をなすべきだったこと、の2点を指摘します。
私は、これは当たり前のようにみえて、とても重要な指摘だと思います。「多様な教育機会確保法案」が報道されて、「個別学習計画」案が問題視されたときに、ではフリースクールで行われている活動の「人間形成的意味」はなんなのか、とか、法案の名称にも入っていた「普通教育」の内実をどのように考えればよいのか、といった検討に踏み込んだ議論がどれほどあったでしょうか。
これはほかならぬ教育学が取り組むべき課題だと思いますし、RED研に集う人びとのあいだでも共有し取り組まれ続けねばならない課題だと思います。フリースクールで不登校支援に携わってこられた1巻8章の前北海さんは、いみじくも同じポイントを指摘されています(1巻: 212-3頁)。
最後、太字にしたようなかたちで、この2巻本の1巻〈実践編〉と2巻〈研究編〉とは、そこかしこで共鳴しあっています。ここの太字にした箇所以外での共鳴を、ぜひ読者のみなさん自身によって見出し、引き継いでいただけたら、編者としてこれ以上の喜びはありません。
だからみんな、2巻セットで買ってね!!