戦後の学習指導要領の改訂の経緯を眺めてくると,それが経験主義・進歩主義・児童中心主義といった「自ら学ぶ主体」としての《子ども本位》の教育理念と,系統主義・注入主義といった「知識重視」の《教師本位》の教育理念とのあいだを振り子運動のように往復してきた軌跡として描くことができます.
戦中教育(天皇制イデオロギーの注入主義)への大きな反省意識の上にたった戦後教育の延長上にある第1次改訂(1951)では,《子ども本位》の教育理念に立脚した経験主義の問題解決学習(「社会科」「コア・カリキュラム」etc.)に象徴される「教育の生活化」が目指されました.
そののち冷戦体制の確立とスプートニク・ショックを転機とした西側陣営の焦燥を背景として,系統学習への転換と基礎学力の充実という「教育の系統化」へ振り子が大きく揺り戻される第2次改訂(1958年)を迎えます.10年後の第3次改訂(1968年)ではその方向の延長上として科学的な概念と能力の育成に重点をおいた「教育の科学化」がさらに追求されることとなります.
こうして学習時間・学習内容とも増加の一途をたどった結果,1971年には「落ちこぼれ」という日本語が誕生し,70年代の高校進学率9割超への急速な上昇とともに校内暴力の発生が大きな社会問題となります.その原因として批判の矛先が向けられたのは「落ちこぼれ」を生んだ「詰め込み教育」と「管理主義教育」でした.ここで再び振り子は《子ども本位》へと大きく揺り戻されます.学校生活における「ゆとり」と「充実」を目指した「教育の人間化」を謳った第4次改訂(1977年)はこうした社会背景の下で産み落とされたわけです.
以後,1989年の第5次改訂では「新しい学力観」に基いた個性の重視(「教育の個性化」),第6次改訂(1998年)では特色ある学校づくりと「総合的な学習の時間」の創設を目玉とした「教育の総合化」が図られます.
そして戦後三度振り子は揺り戻され,授業時数の増加と「道徳・伝統・公共の精神」といった徳目の注入主義を特徴とした今次改訂(2008年)の現在を迎えています*1.
学制施行から大正自由教育・新教育運動,さらに1930年代以降の天皇制国家主義イデオロギーの注入主義へ,といった流れも考慮にいれるなら,近代日本教育史の全体がこうした振り子運動の軌跡として描かれるかもしれません*2.
つまり,「自ら学ぶ主体」としての子どもを強調し,子ども自身の学びへの意欲や態度を重視する立場と,系統的な科学知識を背景とした子どもへの知識伝達を強調し,テスト点数といった形で客観的に測定される教育水準の向上を重視する立場との両極の間をつねに20〜30年スパンで揺れ動いてきたのが近代日本の教育史であったとまとめられるでしょう.そして,それは――たとえばリセとよばれる中等教育機関では200年前と変わらぬ教授法が採られ続けているというフランスの「揺らぎなさ」に比べれば――日本の教育界のある種の「健全さ」のなせる業かもしれません.ランカスター・システムの誕生が「教育思想」の誕生と軌を一にしているところに〈教育〉という実践/現象の本質があるからです.日本の教育界の歴史はその本質を愚直に反復している稀有な事例といえるかもしれません.
教育の社会学的研究を遂行していくうえで,最も狭義での「教育実践」を把握する視点として私が近年採用しているものは,それを2種類の権力作用が交錯/葛藤/相乗する相互作用として把握するという視角です.その2種類とは,〈規律訓練型権力〉と〈環境管理型権力〉という2つの型で捉えられる権力の作動形式です.
前者はいうまでもなくフーコーの洞察がもたらした概念であり,1970年代以降の教育研究や教育運動に大きな影響力をもちました.日本の教育社会学でも1980年代後半から90年代前半には言説研究もどきの習作群ともいうべき諸研究が簇生することになります.このインパクトは当時のポストモダン的風潮に棹さすことになり,〈より善き未来〉への投企としての近代教育に懐疑的な眼差しを向ける議論が支配的となりました.教育運動でも「学校/教育=抑圧装置/実践」という短絡的な批判図式が大勢を占めます.
それが90年代後半以降の若年労働市場の変化や「格差社会」論の流行とともに大きな揺り戻しがきて,教育社会学でも格差是正に向けた教育実践・教育政策を構想する政策科学志向が強まっているように思われます.84年の臨教審以降の教育政策をいろどった「ゆとり教育」「総合学習」「在り方生き方指導」「個性尊重/自主性尊重」などの教育理念に対する総バッシング状況とでもいうべき現状も,同じ系譜のもとにある現象とみなしてよいのではないでしょうか.
しかし,このような教育研究・教育運動にみられる今日の状況には――もちろん,そこに重要で妥当な問題提起が多く含まれていることは間違いないですが――,それ自体,90年代前半までの潮流のコインの裏返しにすぎないような短絡があるように思われます.その原因は,近代教育に作動する権力作用をもっぱら〈規律訓練型〉のそれとしてしか把握しないため,その権力作用のマイナス面(=抑圧)をみるかプラス面(=主体形成)をみるかという非生産的な二分法的発想に陥っているところにあります.
むしろ近代学校教育にはその成立まもなくから,もう一つの権力の作動形式が埋め込まれていたことに着目すべきです.ローレンス・レッシグ『CODE』がいうところでは社会統制には4つのやり方がある.「威嚇的命令(法律)」「市場」「規範」「アーキテクチャ」です.このうち学校教育は規律訓練によって子どもに規範を内面化させ〈主体化〉をうながす装置として位置づけられるわけですが,私見では,それは近代学校教育の一面にしか光を当てられていません.もう一つ学校教育はつねに同時に「アーキテクチャ」=環境管理による統制を埋め込んだ実践/装置として誕生し発展してきました.
夜中に公園でたむろし騒いでいる中高生に対して,「夜中には家に帰り明日の学校に備えるべきだ」「夜中に騒いで人に迷惑をかけるべきではない」という規範を教え込み,内面化させようとするのが前者であるなら,もう一つありうる方法が,若者にしか聞こえない周波数の不快なモスキート音を公園から発することでたむろさせない統制方式です.後者の場合,子ども/若者は規範を内面化する必要がありません.本人は快/不快原則にのみ忠実に反応するだけでよい――今風にいうなら「人間=主体」である必要はなく「動物」であるだけでよい.
今日,社会のあらゆる場面でこのアーキテクチャ/環境管理型権力の作動が顕著になっていることが哲学的・思想的課題になりつつありますが,教育とはもともとこの2種の権力作用が交錯/葛藤/相乗してきた場であると認識すべきでしょう.なぜなら,教育実践とは,いまだ「動物」的でしかない子どもを「人間」へと〈主体化〉していく営みであるからです.ランカスター・システムの発明と同時に「子ども中心主義」の教育思想が誕生することが,その証左です.近代教育はつねに「注入主義」と,「子どもの興味関心・自主性本位」の2極の間を大きく揺れてきたとみるべきです.近年の「総合学習」「興味関心本位」の教育理念から「教師本位」のそれへの揺り戻しも,その大きな振り子運動の一環でしかありません.
学習指導要領の今次改訂の直前,2006年から私は地方の公立小・中学校に頻繁に出入りする機会を得るようになりました.そこで現場教員に対するインタビューをするように学生に指導すると,そこに決まって語られる一つの「理想」があることに気づきました.その「理想」とは,「今はまだ私(=教師)がいないと授業が進行できとらんけども,いつかこうなりたいっていう理想は,私(=教師)がおらんでも子ども達だけで発問・疑問・応答・展開がなされて結論にまでたどり着くような授業やねぇ」と語られる〈教育〉です.1人や2人の偶然の一致ではなく,みなさんそれを共通の「理想」として語るわけです(おそらく研修の機会などで教え込まれている「理想」をオウム返しにしている面もあるでしょう).指導する主体としての形象を環境(アーキテクチャ)へと融解させていく欲望.非常にうまく表現されていると思います(そして,それは当時の文科省が推奨する指導形態でもあったわけです).
学校教育の規律訓練型権力の作動のみが焦点化され,それに対する是/非で立場を争う現状の不毛さよりも,規律訓練(「指導」)/環境管理(「支援」)の2種の権力が作動する現場を緻密に分析することが教育の社会学的研究になにより必要とされていることだと考えます.子どもが快/不快原則(「自分の興味関心や知的好奇心」)に依拠するだけで望ましい発達を遂げていくことを理想とする環境管理型権力作用を,まずは正確に分析対象として捕捉すること.そのうえで私たちは重要な2つの教育学的課題に直面するはずです.一つは環境管理の〈倫理〉問題.若者たちを夜中公園にたむろさせないために本人たちには黙ってモスキート音を流すという環境管理は倫理的に是認されるか.こういった問題群が教育思想の今日的課題を構成します.もう一つは環境管理の〈設計〉問題.どのようなアーキテクチャ/環境設計がより望ましい主体形成へとつながりうるか.こういった問題群が教育の実践研究や政策科学を主導するでしょう.
その基盤をなすものとしての社会学的研究が今必要とされていると思われます.