現代の問題と〈社会史〉研究との接点

まあ,あのこんな感じのことを.梅田では.長いよ.

現代の問題と〈社会史〉研究との接点―「個別化・個性化教育」と情報社会論/アーキテクチャ論の視点から―


0.【はじめに】:「日本の個別化・個性化教育の現代史」と情報社会論(アーキテクチャ論)の関心から
■『格差・秩序不安と教育』:新自由主義改革の席巻以後のオルタナティヴの模索
→個性尊重・自主性尊重,「在り方生き方指導」「ゆとり」「総合学習」etc.
→教育社会学者の新自由主義批判
  とくだん「個性尊重」教育が新自由主義と親和的なわけでもないはずだが(cf. ナショナル・カリキュラム)
→*ポストモダン・「個性尊重」…近代教育の権力作用(〈規律訓練〉)のマイナス面(=「抑圧」)に重点
 *近年の揺り戻し…近代教育の権力作用(〈規律訓練〉)のプラス面(=「主体形成」)に重点
→むしろ学校教育における権力の作動形式を仔細にみること

■『ヒューマニティーズ 教育学』:「教育可能性に向けたテクノロジー」に外在的目的をいかにして外挿できるか
→内在的目的のみに従う=外在的目的は空虚 な技術知(109)...…「現代の教育学のもっとも深刻な危機」(110)
教育はテクノロジーである.(テクノロジー自体は無思想である.)「教育思想」はテクノロジーの内在的正統化の言辞である(=内在的目的しか語らない/語れない.),「人間は可塑的である」
→*どのような外在的目的(「思想」)とも結合可能(シニシズムともファシズムとも)であること

⇒二層構造*解(1):単一の外在的目的(思想)を実定的に語ること……未来社会の構想と選択
     *解(2):単一の外在的目的を語ることは最初から断念して,共有すべきプラットフォームを設計・維持することだけに専念……熟議民主主義と市民の育成?(プラットフォームの上部に対しては完全なリバータリアン
→解(1)には非常に強い負荷.最終的には複数かつ相対的でしかない.
しかし,解(2)でもプラットフォームの性格そのものがある種の「思想」性を帯びざるをえないという二重底

1.【 問 題 】
■広田本の整理(1);『格差・秩序不安と教育』
✓「新自由主義&保守主義」改革→世界金融危機=「新自由主義神話の崩壊」→不透明感→「教育のシニシズム
⇔「長い時間軸」での「未来の社会秩序に関する構想」の模索 & 具体的・漸進的な教育制度の設計
✓複数の未来社会構想をめぐる抗争とそこからの選択→「教育政治」の動態,〈市民〉の形成
✓既存社会のオルタナティヴの判断の困難化,グローバル資本主義の進展による民主主義の基盤の掘り崩し

「教育はその社会がもっている,未来社会についての構想によって規定されている」というふうに見ることができる(8)
「かくして,旧来の保守,新自由主義的保守,左翼の社民・リベラルという,三つの勢力が対立する構造となった―三極モデルである」(18)
「[改革派も批判派も:引用者]「教育と経済」というつながりのみが強調され,「教育と政治」の関連が見失われてしまっている」(26)

→教育(学)の役割
*1)未来社会の(制度構築レベルでの)構想と結びついた教育改革構想を理論的・実証的に練り上げること
*2)不透明ななかで「あるべき政治/経済/社会」にもっと関心をもち適切な政治的判断をくだせる市民の育成
「個々人が,自分が受けた教育を足場にして自分の人生を組み立てながら,まったく別の社会を作っていく主体になる,という点が重要になってくる」(10)
…・・・(シティズンシップ教育,科学技術リテラシー教育etc.)

→「市民」と「対抗軸(=複数の選択肢)」,そして「熟議の時代」

劇場型政治でも圧力集団政治でもない,生活実感保守主義でもないような,民主主義の担い手――神も王もいない現代の社会において,社会を動かすのはわれわれ自身しかいない.教育によって作られる主権者が社会を民主的に動かすという,かつてコンドルセが描いた理想は,まだ実現の途上にあると私は思っている」(31)

「教育政治の三極モデル」:12章・18章
新自由主義モデル/ヨーロッパ社会民主主義モデル/「日本的システム」モデル:1章
「一国主義で勝ち抜く国家像」/「東アジア共同体構想」‐教育の対抗構想(リージョナリズム):3章・11章
「若い世代に『政治的教養』を身につけさせる教育機会」「複雑な政治的対立軸」「議論を尽くした慎重な政治的判断の必要性」:13章

⇒論点:熟議民主主義

■広田本の整理(2);『ヒューマニティーズ 教育学』
✓近代の教育思想の誕生:社会の改革や変化をプログラム的に計画しようとする思想(16)
(現状とはちがう社会を構想し,計画的に作り出すという考え方)
→人間改造プログラム(としての教育,という思想)
→技術革新と情報革命:活版印刷術・文字情報の大量流通 (cf. 身分社会から階級社会へ/国民国家の形成)
 (狭義のテクノロジー)

✓近代の教育思想の展開:子どもたちの内発的な動機での学習をいかにして生起させるかについての,思想とテクノロジーの創出の歴史(73)
→子どもの学習可能性 を 教育可能性 へと組織するためのテクノロジーの進歩(96)
(単独の個人の特質)  (教育‐被教育関係)
→広義のテクノロジー:(1)「発達に沿った教育」,(2)一斉教授,(3)「進歩主義」教育(すべての子どもにバラバラなことをさせつつ,どの子の学習も進む教授技術)(子どもの自発性・能動性,子どもの多様性,子どもに関する科学的知識)

✓教育目的再構築論のアポリアシニシズムファシズムの狭間で;“バランス”,「社会を作り出す個人を作る」
一人の教師にすごい負荷→「個々の教育者が優れた見識をもっていなければならない」(126)

⇒論点:テクノロジーの進展と思想の更新,目的再構築ではなくプラットフォームの設計論
(1つに収斂する目的がなくても,個々の教師がたいしたことなくても「機能」するプラットフォームを設計すれば)

2.【 視 点 】:1970年代以降の日本の個別化・個性化教育
■オープンスクール・エデュケーション運動:戦後日本版

「オープン・エデュケーション運動は,人々の注目を集めた出来事だった.これまで,ほぼ一夜にして全米で有名になり,教育の指導者たちの熱狂的な支持を勝ち得,全米的な議論を独占し,そして2,3年のうちに消えていったような教育改革運動はひとつもなかった.20世紀には教育の一時的な流行の消長が少なからず見受けられたが,このオープン・エデュケーションは,華々しく始まりそして並外れた短命に終わった」[ラヴィッチ:429]

→1967〜1972頃頂点

✓加藤幸次氏の渡米(1970〜72;フルブライト奨学生でウィスコンシン大学,72〜74;現地小学校で教壇)
→帰国後,国立教育研究所・主任研究員(のち上智大学

✓70年代〜老朽化した木造校舎の建替えが全国的に進行:土地に余裕のある農村部・都市郊外で新校舎模索
→加藤幸次氏の出身地周辺で公立オープンスクール校舎建設→加藤氏が「新しい」教育実践の理論的指導者・紹介者
→愛知県東浦町立緒川小学校(1978年):教諭・成田幸夫氏→「総合学習」の教材開発・実践開発のパイオニア
1984年 全国個性化教育研究連盟の設立(2008年〜日本個性化教育学会);会長 加藤幸次
→個性化教育の理論的・実践的展開
→新学力観,「総合的な学習の時間」設置への流れ(先駆的教育理念・実践の政策化=通俗化のプロセス)

✓20世紀教育史=「進歩主義」教育運動の歴史=テクノロジーの精度向上の歴史 [ラヴィッチ]
→学校建築(オープンスペース),「生徒の周りを特定の教材,道具,器材などで取り囲み」,徹底して考え抜かれた教具・教材の選択と配置,のびのびとくつろげて自由に動き回れる床暖房つきの絨毯じきのスペース,コンピュータ...
→その空間に入ればどんな子どもも「学ばないではいられない」ような環境(アーキテクチャ)の真摯な追及
→「指導の個別化」と「学習の個性化」:無学年・個別・反復学習 + 個性化教育(「総合」,興味関心と問題解決)
(「詰め込み教育」批判,「登校拒否」「不登校」の増加を背景 → 新自由主義改革との共振関係→「学力低下」,「格差」「貧困」問題のクローズアップによる逆風)

未来の学校は,一連の「学習させるための環境」,すなわち,知覚に衝撃を与えることのできるすばらいいドーム,コンピューター,脳波分析,興味の範囲を広げる活動,そして学ぶことを「本当に楽しむ」ための方策から成り立っていた.レオナルドは,自己認識における興味,熟考,脳波の型,生体自己制御,集団感受性訓練グループなどとともに,人間の潜在的な心の動きの視点から教育をとらえていた.こうした「感情にまつわる」関心は,学校がこれまで伝統的に強調してきた「経験的知識に基づく」「古い教科のわな」に,じきに取って代わるだろうと,彼は思っていた.だが実際のところ,レオナルドの未来の学校は,ヒッコリーの木でできた杖しかもっていなかった古風な学校よりも,教師がマインド・コントロールの技術的な能力をもつことにより,はるかに個人の内面の自由を脅かしているように見受けられた.[ラヴィッチ:432-433]

✓「個性化教育」退潮後にも残る遺産
 「子どもが主体(興味関心)」 ⇔ 「教師の指導性」 : 「指導性」をもって子どもの学習環境を管理せよ
「[理想の教育とは]私(=教師)がおらんでも子ども達だけで発問・疑問・応答・展開がなされて結論にまでたどり着くような授業やねぇ」
→徹頭徹尾子どもを「自由」に振舞わせても「確かな学力」を保証できるよう環境全体を工学的に管理する発想
 =環境管理の徹底(指導する主体を環境へと融解させていくという理想)

 何の変哲もないふたつの教室。同じように前をむいて並んだ子どもたちが思い思いに自習している。部屋の大きさや形、席の数や配列、どこをとっても何らかわりはない。ただひとつの違いは、第一の教室では監督が前からにらみをきかせているのに、第二の教室ではうしろにいる、いや、いるらしいとしかわからないという点にある。たったこれだけの違いが生徒たちの行動様式に根本的な差異を生じさせていると言えば、大げさにひびくだろうか。
 第一の教室が前近代、第二の教室が近代のモデルとして提示されているということは、あらためて確認するまでもないだろう。たとえば、第二の教室の機能はフーコーが近代のモデルケースとしてとりあげたベンサムパノプティコンの機能と同一であり、第一の教室の機能はそれに先立つ絶対王制の権力装置の機能と共通している。浅田彰クラインの壺からリゾームへ――不幸な道化としての近代人の肖像・断章」

しかしこの「第二の教室」は「第一の教室」と、それほど違うものでしょうか。少なくとも「監督」の存在という点では、ふたつは共通しています。・・・あくまでも理想的/理念的に考えてみるならば、この二つの教室は、実はどちらも「超コード化」の段階にとどまっているのであって、ほんとうは、「監督」などどこにも居ないのに、各自がてんで勝手に振る舞うことによって、何もかもがうまくいくような「第三の教室」が構想されなくてはならないのです。[佐々木:62]

『構造と力』に出てきた「ふたつの教室」を思い出してみてください。一つ目の教室では「監督」がずっと見張っており、二つ目の教室では「監督」の姿は見えないが、確かに居る。「環境管理型社会」とは、いわば「第三の教室」です。しかしそれは、もはや「監督」がどこにも居ないのに、ただそれだけで全てがうまくいく、ということではなくて、確かに「監督」はいない、だがいわば「教室」それ自体が、けっしてそうとは見えない「監督」になってしまったようなものなのです。[佐々木:318]

■個別化教育と脳科学
OECD教育研究革新センター(CERI)
✓「脳の十年」:1990年代アメリカ・ヨーロッパ,遅れて日本も突入する脳科学推進に向けた国家あげての支援体制の構築
✓2007年に文科省の科学技術・学術審議会に脳科学委員会が設置:
脳科学研究の基本構想や推進の方策についての審議がなされている.2009年には第一次答申案も提出.

→「発達段階」「可塑的な人間」という観念の進化形としての「絶えず成長し続ける脳」「最も可塑的な臓器としての脳」.
⇒現在のところ脳科学の発展状況は広田本②がいうところの「実証的な教育科学」が置かれている現状と大同小異

教育社会学教育心理学のような実証的な教育科学は,厳密な手続きで明らかにできている部分は,実はそれほど多くない.複雑な連関構造をなしている現実の,ごく一部分を,限定された枠組みで切り取って検証した知にすぎない.だから,現実に対して何かを提言しようとすると,実践的教育学から規範を借りてきたり,実践的教育学が作ってきた推測を補助的な仮説として使ったりすることを,どうしても避けられない.[広田②:114-115]

脳領域とその働きは一対一の対応関係にはない.したがって脳活動計測によって「ある行動の際の脳の活動パターン」を示せたとしても,そこから「脳が“この”活動パターンを示した際には“その”行動をとるであろう」という予測が正しいことにはならない.にもかかわらず大半の「脳科学」言説はこの「因果の逆転」を所与の前提とする物言い(=非科学的な物言い)によって社会に流通してしまっている....
脳科学は後付けの説明原理としてのつじつま合わせにしかなっていない」[坂井:100].

⇒テクノロジーの進展と対応した思考の更新

3.【 議 論 】:『CODE』「なにがなにを規制するのか」
レッシグの議論:古いテクノロジーを前提とした価値観の「翻訳」と「選択」
サイバー空間でのふるまいの規制しやすさの増大がもたらす社会(研究者やハッカー→商業→政府):自由への脅威
サイバー空間でのふるまいが規制される独特な形態(コード(ネットのアーキテクチャ)を通じての規制)
→社会の根源的変容(これまでテクノロジーの精度の低さゆえに隠されていた価値観の「曖昧さ」があらわになる)
ex. かぎまわるワーム:
「汎用捜査令状」(容疑なしでの家宅捜査)⇔修正第4条・・・1791年には完全に負担なき汎用捜査が技術的に不可能

→価値観を新しい文脈に移し替える:新しいテクノロジーを前提とした価値観に「翻訳」する
→そして「選択」する(「ただしそれは,選択能力があればの話」)
1787年合州国憲法の1791年修正(修正第10条etc.)の本質的価値観(意味を現在の文脈でも保存する現代的読替え)
esp. 知的財産・プライバシー・言論の自由

■現実空間でのふるまいの規制:制約(権力)のモードの一般化
:処罰,規範: コミュニティが課す社会的制裁,市場:価格,アーキテクチャ:物理的な負担

タバコ;法=身分証明書・禁止場所,規範=他人の了解,レッテル貼り,市場=価格,アーキテクチャ=無煙タバコ
カーステ盗難;法=厳罰化,……アーキテクチャ=登録した車から外すと機能しない
飲酒運転:法=厳罰化,規範=教習所啓発ビデオ鑑賞,……アーキテクチャ=酒気自動検知
シートベルト;厳罰化,公共教育キャンペーン,補助金による保険料減免,エンジンロックシステム
住宅地の人種別ゾーニング;法=登記書規定……アーキテクチャ=横断しにくい高速道路等の建設
キセル;……アーキテクチャ=自動改札機

→4様式の規制の総和(ある制約条件は他と補強/相殺関係,1つの変化→全体の変化,有効性と価値観の対立)

✓自由への脅威;19C半ば〜規範→20C初頭〜国家(法)→20C半ば〜市場→20C末〜コード(アーキテクチャ)?

アーキテクチャの特徴
*(1)ルールや価値観を被規制者に内面化させるプロセスが不要
*(2)規制の存在に気づかせることなく被規制者が「無意識」のうちに規制を働きかけることが可能
→法や規範は内面化(主観化)が必要,内面化が進むほどコードのように有効化する,しかし内面化には時間がかかる
 アーキテクチャは被規制者が制約の存在を知ろうと知るまいと機能する

環境管理型権力(⇔規律訓練型権力):東浩紀
 監視や規範の視線を「内面化」する必要はない=主体化なしでも機能する
〈人間〉(規範の内面化=主体)じゃなくても〈動物〉(快/不快原則≒興味関心)であるだけで機能する
 (⇔「社会を作り出す個人を作る教育」)
→権力作用の異なるモードが交錯/葛藤/相乗してきた場としての学校教育(〈動物〉を〈人間〉にする営み)

レッシグの「翻訳」と「選択」:新しい前提のもとで古い価値観を保存するために「過去」を考える
✓知的財産:著作権の保護はかつてないほど完璧になされるアーキテクチャ
「コードは文化の伝搬に対してますます完全なコントロールを可能にしている」(262)
古いテクノロジーのもとでのバランス
*知的財産生産者への十分(not完全)なインセンティブ
*知的文化的共有物(コモンズ)へのアクセス・利用の十分(not完全)な確保
→「作者が…自分の知的財産の利用を完全にコントロールできるのは許されるべきか」(もとの自由の領域を作り出すために別の制限を確立するのか)」という選択

✓プライバシー:永続的で安上がりなふるまいの監視を可能にするアーキテクチャ
デジタル監視(捜索):機械しか見ていない,「そうした活動監視能力にどんな制限があるべきか」(292)
憲法修正第4条と「汎用令状」;捜索の負担からの保護か,ある種の尊厳の保護か,国の規制力を制限する方法としてのプライバシー(理念)か
→かつては「3つの根拠すべてが,存在したテクノロジーと一貫性を持っていた」
→「正しい翻訳は…翻訳すべき適切な根拠をどう選ぶかにかかっている」(299)

言論の自由:いかなる言論でもフィルタしてしまえるアーキテクチャの確立
フィルタリングが知らないうちに起っている=目に見えないフィルタリングが可能に
「民間の活動だけに頼ったら,政府が賢明かつ効率よくふるまった場合より多くの言論がブロックされてしまう」(356)
→「フィルタリングされないものに直面することにも価値がある」(361)
   この露出のおかげで,われわれはもっといい市民になれる(362)
   市民として機能するために理解すべき問題に,確実に一通りさらされるべきである(362)

✓対応
・司法の対応:「再審理主義」
・コードに対する反応:規制における透明性
 ex. コンポーネント化システム=オープンコードとクローズドコードの妥協案
・民主主義の対応:「討議する」世論調査
「われわれは政府が検討するあらゆる事項に関して『国民』が何を思っているかについての絶え間ないデータを作り出している」
→しかし,「その時点での人々の気分を完璧に反映するような民主主義が,われわれの理想であったことは一度もない」∵一時的な気分=無知の産物
→審議フォーラムの設計(単に一票を投じるのではなく,その投票の理由を説明できる)

4.【 課 題 】
レッシグのやろうとしていることから
憲法起草者がどういう前提で(社会状況・技術水準etc.)どういう価値観を込めて(思想・目的etc.)どういう法制化を帰結したか(法律・制度),を「過去」にさかのぼって探索する
→なんのために?
→「現在」の新しい状況(テクノロジー)を前提にした価値観への「翻訳」を行い,
「未来」にむけた「選択」を行うために

✓〈社会史〉:法制史・思想史・社会史.・技術史...etc. 折衷歴史研究

✓「教育可能性に向けたテクノロジー」(広義のテクノロジー)は狭義の科学技術とはちがう(精度の本来的粗さ)
✓「教育」はたんなる「テクノロジー」でしかないか?
 「教育思想(教育学)」の歴史的展開が有する他の側面や意味の検討
→「教育」は純粋なテクノロジーでもなければ,たんなるテクノロジーでもない

✓「コンドルセが描いた理想」

■「福祉と教育」「保護と遺棄」と論点とのかかわり
✓「福祉と教育」……「福祉国家」再考:ベーシック・インカム論(熟議民主主義の条件としてのBI[田村 2008])
→「官僚制による福祉給付が,人々の規制・監視・従属をもたらす」[ハーバーマス 1985=1995]
→「自由(意志)」「自己決定」の基底(としての福祉/教育)

✓「保護と遺棄」……出生前診断・選択的中絶:生命科学生命倫理(テクノロジーの進展と思想の更新)
→既存テクノロジーの精度の「低さ」を前提とした思想や制度の限界
→「自由(意志)」「自己決定」の質的変容

⇒社会を成立させてきた基礎概念(基底)を再構築する必要性……思想や制度の更新
⇒「自由」を突き詰めた先に「自由」が浸食されるような事態:「自由」「管理」「自己決定」
                         (⇔ 新自由主義/管理社会)

【文献】
愛知県東浦町立緒川小学校(1983)『個性化教育へのアプローチ』明治図書出版
東浩紀北田暁大(編)(2009)『思想地図vol.3 アーキテクチャ日本放送出版協会
岐阜県揖斐郡池田町立池田小学校(1987)『指導の個別化・学習の個性化―地域社会に支えられた学校』明治図書出版
加藤幸次・安藤慧(1985)『個別化・個性化教育の理論』黎明書房.
河野哲也(2008)『暴走する脳科学―哲学・倫理学からの批判的検討』光文社新書
ダイアン・ラヴィッチ(2000=2008)『学校改革抗争の100年―20世紀アメリカ教育史』東信堂
ローレンス・レッシグ(1999=2001)『CODE 』翔泳社
カトリーヌ・マラブー(2004=2005)『わたしたちの脳をどうするか―ニューロサイエンスとグローバル資本主義』春秋社.
成田幸夫(1987)『オープンスクールの挑戦3 学校を変える力 緒川小・学校改革の軌跡』ぎょうせい.
OECD教育研究革新センター(編)(2006=2007)『個別化していく教育』明石書店
OECD教育研究革新センター(編)(2004=2005)『脳を育む 学習と教育の科学』明石書店
坂井克之(2009)『脳科学の真実―脳研究者は何を考えているか』河出書房新社
佐々木敦(2009)『ニッポンの思想』講談社現代新書
田村哲樹(2008)「民主主義のための福祉―『熟議民主主義とベーシック・インカム』再考」『思想地図』vol.3,115-142頁.
緩利誠・田中統治(2007)「脳科学と教育の間―カリキュラムへの応用方法を中心に」『教育学研究』第74巻第2号,24−34頁.