前エントリのなかにでてくる「「よい教育」を実践しても、その要因独自の効果が安定した頑健なものとして取り出されることは、今のところ、めったに、ほとんど、ない」といった表現には、ご想像の通り、一定の誇張が入り込んでいる。少なくとも心理学系の専門家からは「ちょっと待った」の異議が入るところではある。
ある教育のやり方が他のやり方に比べてより高い効果をもたらす、という結論が安定して得られている事象も――もちろん――存在する。門外漢ではあるが一例を挙げると、ある学習環境(たとえば教室)でどのような目標が重視されるか(=目標構造、goal structures)――競争的/協同的/個別的 etc.――によって子どもの学業成績や良好な友人関係形成への影響に有意な違いがあることなどは、かなりの程度、研究者内での合意が得られる水準にまできてるだろう(上記三者の目標構造のなかでは「協同的 cooperative」が「競争的 competitive」や「個別的 individualistic」に比して安定して良好な成績を収める。仲間内で教えあうとか、集団内で劣位にあるメンバーもそれ自身の成績向上にさえ努めれば集団に貢献できるといった形で、ポジティヴな強化要因が働きやすいとかいうあたりが重要なのではないかと素人は推測する←あまりにもひどい勘違いが入ってたら突っ込みを入れてください>識者)。
だから、「「よい教育」を実践しても、その要因独自の効果が安定した頑健なものとして取り出されることは、今のところ、めったに、ほとんど、ない」という(まあたしかにあまり褒められたものではない、誤解を招くような)表現に飛びついて、ほれ見たことかやっぱりね、という形で「教育さん」的議論のすべてを放擲してしまう姿勢というのは――そうやりたくなる気持ちもわからないでもないが――、あまり生産的ではない。反「教育さん」という裏返しの「教育さん」状態を反復しているに過ぎない。
そうはいっても、↑でみたような研究結果も、「複雑な連関構造をなしている現実の、ごく一部分を、限定された枠組みで切り取っ」たときにはそのように結論づけられる側面もある、という次元に留まるものであることに違いはない(というか、そもそも実証研究というのはそういうものだ。だからといって直ちにこれを貶価するのは、裏返しでもなんでもない「教育さん」への第一歩である――だからややこしいのだ、このあたり)。
政策評価や実践評価としての実証研究において、学級規模、教員の質、給与、経験年数、学歴、学校の施設、カリキュラム、教育実践のタイプ、児童生徒一人当たり支出、等々の影響力が、たとえば児童生徒の家庭環境変数のそれに比してかなり微弱で、かつ、なかなかポジティヴな効果の安定した観察結果が(少なくとも異論の余地のない水準では)得られづらいというのは否定できない現状ではなかろうか、と思われる。それが今の「科学」の水準だ、と。
さて、だとしたら、われわれはどのように教育を語るべきか。
あるいは、こう言い換えてもいい。社会経済的地位の観点からみて不利な子どもが集まる「教育困難校」においてなんとか学力保障を、と寝る時間も削って実践開発に取り組んでいる教師から、「われわれが何をやっても変わらないっていうんですか、先生?」と問われたときに、なんと応えるべきなのだろうか(私は現に問われた)。
「ええ、今のところ、これをやったら効果がある、っていう確実な方法は何も言えないみたいなんで、あんまり真面目にやってもムダですよ」と応えるべきなのだろうか。それとも、「まあ、自己満足を追求することですね」とでも返したらよいのだろうか――かつて、私が同様の問いを向けたとき、ある教育学者は実際そのように応えた(「そりゃ自己マンっちゃあ自己マンですよ」)。
しかし、「「よい教育」を実践しても、その要因独自の効果が安定した頑健なものとして取り出されることは、今のところ、めったに、ほとんど、ない」からといって、「ある限定された枠組みで切り取った」ときに、採られる実践方式によって教育効果には違いがある、という一定の頑健さを帯びた観察結果が確認できることまで否定されるものではない、ということは忘れられてはならない。子どもを取り巻くありとあらゆる変数のなかに紛れたときには教育効果の痕跡を取り出すことが困難であるということと、あらゆる教育効果には実質が「ない」、ということとは明らかに異なる。それはまるで、低線量被曝の健康被害への効果が統計的に有意なものとしてはなかなか観察されない、ということをもってして、だから放射線には健康被害をもたらす実質が「ない」、と言ってしまう錯誤と似てはいないだろうか。なぜって放射線はたしかにわれわれの細胞や遺伝子に影響し、遺伝情報を攪乱する「効果」をもっている(そのことまで否定する人はいないだろう)。
ふたたび、やってはならないアナロジーによる議論(←飯田泰之氏著の『ダメな議論』(ちくま新書、2006年)を参照してね☆ >「5. 比喩と例話に支えられた主張」)。
いや、語り方なんていくらでもある。すべてのものには、「科学」の語り口で語れる範域と、そこを超えて語らなければ語りようがない範域とがあって、「教育」もまた同様だと、その程度のことである。要は「科学」の語り口で語れる範域を超えるときの〈超え方〉の問題であって、「教育」語りがある種の特性――過剰さ――を帯びるように感じられるのは、それが対象として前エントリでみたような要素が折り重なったものであるということ(ほんとかおい)を除いては、ほんとはそんなに特殊なことではない。今次の「放射能汚染」による健康被害への恐怖や不安で右往左往している親たちに向けられたある種の人びとの揶揄の温度と「教育さん」に向けられたそれとの笑えるほどの相同性をみてみればよい。
そして私ならこう言う。不安になるのは当然じゃん、だって放射線が遺伝情報を攪乱するという事実に異論の余地はないんだから。そして、現時点では科学的合理性にその程度の「精度」しか期待できないのであれば、とりあえず影響があるって前提で動いとこうぜ、あとで「有意性がないとか言っててやっぱごめん間違えてた」って言われても取り返しつかねーし、というのが「生活の知恵(≒合理性)」というものである。
だからといって、とぎ汁腐らせてスプレーするまでいったらアウト。このあたりの科学的、だけではない、それとは異質の要素も含んだ合理性を「語り」としてどこまで担保できるかというさじ加減、それが「教育さん」や反「教育さん」(という名の「教育さん」)と、それ以外とを隔てる分水嶺となろう(そして、その程度の分水嶺「しか」ない)。
たしかに統計的有意性の観察は頑健なものではない。だが、多くの分析結果において、(いくつかの)教育効果の期待される方向性(正/負)と観察されるそれとは同方向である。だから、そのような前提で議論を組み立てるのは基本的には妥当である。
ただ重要なのは優先順位と「程度の問題」。そして、どこまで/どのように「科学」を超えて対象を語るか、という次元での語りの総合性とバランス感覚。これへの感度を失うことを――「教育」を語る場合にはとくに――つねに怖れておく必要があるのだろう。
そもそも、20世紀に入ってから徐々に学問としての自律性を獲得してきた日本の教育学について、その今日に至るまでの歩みをざっくり言えば、一世代前の「教育」語りを「観念的・思弁的」な「伝統的教育学」と名指したうえで、自らを「教育科学」――新たな、あるべき「教育」語り――と位置づける、その反復の軌跡として描くことが可能である。
したがって、「教育学」は規範を語るが「教育社会学」は事実を論じる、とか、「規範的な言説に覆われた「教育」の世界の自明性を疑い覆す、それが教育社会学」、的ないささか不正確なスローガン――私は後者のスローガンに便宜上「苅谷教育社会学」という呼称をあてることにした――のもとで80年代以降に存在感を増していった日本の教育社会学による自己規定のパターンも、そうやって20世紀以降繰り返されてきた「教育科学」自称のステレオタイプの何度目かの反復でしかない。実際、そこで「観念的・思弁的・規範的」と名指され批判の対象(であるかのように)とされた「教育学」も、それ以前の「教育学」に対する自己規定として「教育科学」を自称していた(し、今日においても自称している)のだから――もっとも「科学」の語の意味内容こそ変容したが。
ということは、今、「科学」だと自認している教育社会学―「苅谷教育社会学」(仮称)―――の言説も、もう何年かしたらきっと「過度に観念的・思弁的」な「伝統的教育学」のカテゴリにざっくりと入れられて、十把一絡げで批判される日がくることだろう――かつて自らがそれ以前の「教育科学」をそう扱ったように。
もう「知」のほうの下準備はとっくにできている。あとは「データ」のインフラが整いさえすれば、そうした流れは一気に進み、「教育」語りの風景は一変することだろう。どちらかというと私はその日を心待ちにしている。教育社会学お得意の「パラダイム転換」というやつさ(まあしかし、このインフラの確立というお題が日本では一番の難物なのさ)。
苅谷先生は当時まだ「戦後教育学を代表するきら星のごとき〈進歩派〉教育学の先達がいらした」東大に着任したときから、「戦後教育学や教育運動を批判的に研究すること」(苅谷 2009,285頁)を今後のライフワークにしたい、という意味のことをおっしゃっていた。95年SSM調査の実査で2人で一緒に東京都墨田区の対象地に行ったとき、公園のベンチに並んで座って休憩していたときにも問わず語りにそうおっしゃっていた――「ぼくは戦後教育学の〈知識社会学〉的な研究がしたいと思うんだ」――ことを覚えている。
そういう問題意識を形にしたのが、『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書、1995年)以降の先生の仕事であり、それは途中、『階層化日本と教育危機』(有信堂高文社、2001年)など90年代以降の教育改革に対する批判の様相を強く帯びた論説群を挟んで、ひとまず、『教育と平等』(中公新書、2009年)で一区切りつけられたということになるのだろう(いや、もう一冊「大衆教育社会」論を書いて三部作にしたい、という意欲をお持ちのようではあるが(苅谷 2009,286頁))。
だが私は、『教育と平等』を一読して、これはもう、一つの知の生み出し方の終わりを告げる本だ、と直感した(なんか最近似たようなことを別件でつぶやいていた人物もいたが)。そして、私も「苅谷教育社会学」のしっぽを生きる人間である以上、次にくるであろう新しい「教育科学」によって、私自身の知の生み出し方もそう遠くない未来に「観念的思弁的」で「伝統的」な「教育」語りとして、そのアリーナからの退場を宣告されるだろうと直感した。
だから私がやるべき仕事は、「苅谷教育社会学」的な知の生み出し方をどのように学的言説のアリーナから退場させるか、ぎりぎりまで突き詰めたうえでこれを葬送し、次なる「科学」にきちんと場を明け渡すことだろうと思う。正しく葬送することは、新たにもたらされる言説の地平においてそれがふたたび必要とされるとき――必ず、そして一層切実に必要とされる時はくる、なぜならどんなに「科学」が発展しても「科学」を超えて語らなければならない語りの範域があるからだ――、正しくそれを召喚するための前提条件である。
なんか、私はいろんなところの言説群に引導渡すのを仕事にしてる気がしないでもない。
そのための布石は(それなりに)打ってある。
8月9日刊行予定の 宮寺晃夫編『再検討 教育機会の平等』(岩波書店) に収録された拙稿は、そのための外堀を埋める作業の一つである(ということにしておこう)。
ということで、みなさん、もうお気づきかもしれないが、ここにいたるまでの一連のエントリはすべて、この本の出版予告の一環だったわけである。そして、次回以降、さらなる議論の展開を期し、本格的な販売促進キャンペーンを推進していく所存である。
よろしく。
【追記】
これからここには大将に代わってカーリヤ先生の登場頻度が多くなるであろうと予想される。乞うご期待。
- 作者: 宮寺晃夫
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2011/08/10
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