「読むこと」「書くこと」の社会史の問題領域

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お蔵出し.

識字と読書―リテラシーの比較社会史 (叢書・比較教育社会史)

識字と読書―リテラシーの比較社会史 (叢書・比較教育社会史)

比較教育社会史研究会2010年春季大会の2日目に合評会が予定されている松塚俊三・八鍬友広編『識字と読書――リテラシーの比較社会史』(昭和堂,2010年2月刊行予定)

この著書につながる比較教育社会史研究会「識字と読書」セッション立ち上げ時の模様をレポートした小文.たまたま依頼があって寄稿した.題名は「セッション2『識字と読書』に参加して――『読むこと』『書くこと』の社会史の問題領域」『比較教育社会史研究会通信』(第4号,2-4頁,2005年5月).近いうちにどこかのリポジトリに収められる構想もあるそうだが,現時点では2005年当時に『通信』を受け取った研究会員の方しかアクセスできないものである.

研究会の承諾を得て以下に転載します.なお,文中にある報告者の方の所属はすべて当時のものです.

 大会2日目のセッション2「識字と読書」は、日本教育史学会による研究動向を検証する試みから派生し、今回新たに設定された部会だという。「識字と読書」というテーマには全くの門外漢であったが、事前にいただいたプログラムにある報告タイトルの魅力にひかれて会場に足を踏み入れた。


 セッション立ち上げの経緯が説明されたのち、座長である松塚俊三氏(福岡大学)の報告「識字と読書の社会史、問題の領域――ヨーロッパ近世・近代を中心に(中間報告)」を皮切りに、八鍬友広氏(新潟大学)の「近世日本における『読むこと』『書くこと』」、山之内克子氏(神戸市外国語大学)の「18世紀末ウィーンの読書文化――ヨーゼフ期パンフレットの『読み手』に関する社会史的アプローチの可能性」の3つの報告が行なわれた。それぞれイギリス(・フランス)、日本、ドイツ(語圏)を対象とした「識字と読書」の歴史研究の流れを概括すると同時に、その問題設定の射程と可能性とを提示しようとする熱意と意欲にあふれる報告であった。


 松塚氏は統計学的アプローチによるイギリスの識字研究の流れとそこで確定した発見事実とを簡潔に整理したうえで、1970年代以降の研究の展開を「主観的ないしは文化的要因への旋回」と位置づけ、ロジェ・シャルチエによって水路づけられた「読書(行為)の社会史」へと接続させる方向性を提示された。数量的研究の蓄積が識字率の変化の趨勢やさまざまな要因別の差異を明らかにしたのちも「なぜ識字率が上昇したのかについての説明は依然として困難」という現状からの転回の焦点は、「識字」という概念そのものの捉え返し(ex. 「読み」と「書き」の相対的独自性、「文化的識字」など)、身体実践としての「読むという行為」という視点の導入、といった点に求められるという。日本のイギリス教育史研究が識字率にまったく関心を示してこなかったことへの厳しい批判とともに、なぜ本セッションの名称に「識字 読書」が選ばれているのか、その問題射程の位相がきわめて説得的に提示されていたように思う。


 続いて行なわれた八鍬氏の報告では、日本史研究の一環としての識字研究を(ご自身の研究も含めて)網羅的に紹介することを通じて、近世日本の「読むこと」「書くこと」の世界のあり方の特質とその変容の輪郭が明快に描き出された。「読むこと」「書くこと」が多様に展開した社会としての近世日本にあって、「書くこと」から「読むこと」による世界理解への展開の様相、音読と黙読との交錯の実態の描出、さらには、「読むこと」「書くこと」の力量のほとんどが民間社会において形成され、近世国家はそうした力量の形成にも管理にもあまり関与していなかったことや、これらの多様な展開の帰結として「公論」世界の端緒的成立が用意されたことの指摘など、私のような初学者にも日本近世を対象とした識字研究の豊富な蓄積を思わせるに十分なものであった。イギリスと対比した際の日本近世における民衆層への「書くこと」の広範な広がりが意味するものは何なのか、比較社会史的な関心も強く呼び起こされる報告であった。


 他方、山之内氏の報告は、やはりドイツ(語圏)の先行研究の流れを概括しながらも、より具体的に、18世紀ヨーゼフ期のウィーンに訪れた出版ブームのもとで商品の中心を占めたとされるパンフレット(Broschüre)とその「読み手」に焦点をあてた社会史的アプローチの可能性を、Alphabetisierung(識字化)からLiterarisierung(文章の理解・議論のレベル)を経てPolitisierung(政治的意識の覚醒)にいたるプロセスの細部を明らかにする試みとして模索した、きわめて刺激的なものであった。それはドイツ(語圏)の多様性を前にした体系的な数量的アプローチの限界を踏まえ、「識字と読書」を「個々の地域に固有の社会環境と密接な関連性のなかで展開するもの」として捉えたうえで、その地域固有の文脈のもとに読書という「文化的実践」を位置づけ、そこに現れる「社会そのものの構造と様態を明らかにする」ことを狙ったものである。他のメディアや余暇・娯楽のなかでの「『読書文化』の位置価値」を探ろうとするその議論は、当時のウィーンにおける都市文化のダイナミックな展開を捉えるために有効なアプローチでもあるように感じられた。


 このような議論に初めてふれる経験をしたわたしにも、3氏の報告を共通して貫く軸のようなものを感じることができた。素人の誤読を恐れずにそれを紹介し、個人的な印象を付け加えたい。1つは、抽象的に操作可能な「識字」という概念を放棄して、あくまで「読むこと」「書くこと」という具体的な身体的・共同的実践としてそれを捉え返していこうとする視角である。何をもって「識字」とみなせるか自体が歴史的にも社会層ごとにも多様でありえたこと、したがって具体的な実践を明らかにする試みを通じて遂行的にしか「識字」の実態に迫りえないこと、それゆえに「識字と読書」の社会史というアプローチが要請されていること、等とまとめられるだろうか。このような視角が体系的な数量的・統計的アプローチによる研究のある種の「限界」に対する認識にもとづいていることは松塚氏・山之内氏の報告からも明らかであるが、今後の研究の発展においては、どこかで再び数量的アプローチとの「融合」や「対話」が要請されるようにも漠然とながら感じた。


 もう1つは、「メディアとしての文字」あるいは具体的なモノとしての書物・印刷物(パンフレット…)への着眼、(知識や内容を運ぶ)媒介物の様式そのものがもたらすものへの関心である。単線的変化の過程には還元できない口承文化と文字世界との重層的な関係や、図像文化と文字文化との競合と相乗の双方を含みこんだ相互関係、等といった問題領域がもう一方の軸に広がっているように感じられた。山之内氏の報告のあとの質疑応答で提起された、テクストを「読むこと」「書くこと」と母語/非母語との関係(政治的意識の覚醒という問題との関連で)や、「翻訳」の問題との関係性なども、この問題系のもとに理解できるのかもしれない。これら2つの軸は相互に独立なものというよりも、この2つの軸の〈間〉にこそ「識字と読書」の社会史の問題領域が広がっているのだと理解すべきなのだろう。


わたしの乏しい理解力による議論の整理が正鵠を射るものであるか否かは心もとないが、「識字と読書」の社会史の問題領域の広がりとその可能性の豊かさは確実に伝わるだろうと思う。最後になるが、本セッションの座長である松塚氏が、「今後の議論を深めていくために、さまざまな地域や時代についての情報を寄せてほしい」とセッションへの参加者に率直に呼びかけておられたことを、比較教育社会史研究会の皆さん全員にもぜひお伝えしておきたい。「識字と読書」セッションの今後に関心をもたれた方は、報告者である松塚氏・八鍬氏・山之内氏か、あるいは本研究会の世話役である橋本伸也氏にコンタクトをとってみていただきたい。いずれにせよ、数々の有意義な研究成果を発信してきた本研究会に、また新たに注目せずにはいられない部会がひとつ立ち上がったことだけは確かである。