授業設計と信頼

小山虎編,2018,『信頼を考える――リヴァイアサンから人工知能まで』勁草書房

信頼を考える: リヴァイアサンから人工知能まで

信頼を考える: リヴァイアサンから人工知能まで

13章「高等教育における授業設計と信頼」(成瀬尚志)は、かつて某大学にあった「あの授業」から始まる考察。

・・・ここで検討したいことは、そうした[教える側と学生・生徒との――引用者]個別の信頼関係の構築ではなく、授業設計の中に信頼関係の構築が前提とされているか、あるいは不信が前提とされているか、という点である。(307頁)

ここで一つの仮説が立てられる。授業設計において、学生に対する信頼を前提とした授業設計は高次の学びを生み出すのではないか、というものである。(同上)

「信頼を前提とした授業設計」というとたいへん麗しく響くかもしれないが、実際にそうした授業をご覧になってみるとよい。表面上しか見ない人には非常に「フシンセツ」な授業に映る。「こんなものは授業じゃない」とまで言う人もでてくる(あるいは「これでは学生がカワイソウだ」(?)とか?)。

だがポイントは授業の「設計」である。「学生の主体性」に準拠し、またそれを引き出そうとする授業実践とはいかなるものか。そうした問題を考えたい全ての人に。(参照:たなかよしこ他,2014,「ラウンドテーブル 学生の学習効果を高めるフシンセツ授業の実践報告――教員のための手間と学生のための手間」『大学教育学会誌』36(2): 74-77.)

ここではどちらかというと大学に固有の問題設定として論じられていますが、私がかつて教員養成大学で教職科目を担当していたときにもよく言っていた話。

「(義務教育学校の)教師になったら子どもや親との信頼関係が大事」と学生さんはみんな言う。でもそこでほぼ全員が「どう信頼される教師であるか?」「信頼されるためにはどうしたらいいか?」しか考えない。そうじゃなくて、むしろ考えなきゃならないことは、あなた(教師)のほうが子どもや親をどう信頼できるか、どこまで信頼できるかじゃないの? と。

これは本ブログでも散発的に言及してきている個別化・個性化教育の「単元内自由進度学習」も同じ話。

個別の人間関係としての「信頼」ではなく、授業の設計原理(ないし評価基準)としての「信頼」。

まだ流し読み段階なのでいずれまた。
(※「単元内自由進度学習ってなに?」という方は本ブログを「自由進度」で検索してでてきた記事を見てもらうか、しかし所詮書きなぐりのブログ記事なので、できればこちら宮寺晃夫編『再検討 教育機会の平等』(岩波書店、2011年)所収の「個性化教育の可能性」を参照していただければ幸いです)

少し検索していたら、ウェブ上に成瀬さんによる記事もありました。じつは私もこの授業を見学させてもらったことがあります。

私は上記「単元内自由進度学習」という類似の原理で設計された授業を小中学校で見ていたので、授業そのものへの「戸惑い」みたいものは相対的には薄かったのですが(とはいえ、大学の大教室であれをやっていたのはすごい、あまりにすごくて笑いました ←いい意味で)、むしろ私が驚いたのは、小中学校でこういうのをやると多くの(すべての、ではない)児童生徒が嬉々として取り組むのに対して、高校まで出ちゃった人の場合、その多くの罵声怒声苛立ちがハンパなかったという実態でした。もちろん、それがわかっているからこそ、それを打ち崩すためのこの授業というわけなのでありますが。

それは日本の高校教育、とくにその中堅どころ(?)において、どういう設計原理の授業が日常となって(しまって)いるかを考えさせるところではないでしょうか。