脳科学つづき

河野哲也『暴走する脳科学―哲学・倫理学からの批判的検討』光文社新書,2008年.

脳科学の現実社会への適用について哲学・倫理学の立場から批判的に考察した本.「脳の十年」(1990年代アメリカ・ヨーロッパ,遅れて日本も突入する脳科学推進に向けた国家あげての支援体制の構築)以降の脳科学の進展をうけて,脳科学が「個人をコントロールするテクノロジーとして権力によって利用されてしまう」(35頁)危険性に対する警鐘の書.その時点で個人的に考えたいことのコアの部分はこぼれ落ちちゃう感なきにしもあらず.

BMI(ブレイン‐マシン‐インターフェイス:運動マヒ患者の大脳皮質・運動野に電極を差し入れ,そこからの信号をコンピュータ・モニタのカーソルの動きに連動させることによって文章の打ち込みを可能にする,とか),脳への電気刺激による神経・筋疾患や精神疾患の診断・治療,「スマートドラッグ」,精神障害等の脳鑑定,「脳指紋法」などマインド・リーディングによる法廷証言の司法判断,などなど,まあ確かに素人目には批判的に考察したくなる対象ばかり.

問題提起(第1章「脳の時代と哲学」)のあとは,「心」の脳科学的還元主義を批判的に考察するツールとして「拡張した心」概念を紹介したのち(第2章「脳と拡張した心」),「マインド・リーディング」の問題性を指摘(第3章「マインド・リーディングは可能か」),「拡張した心」概念を援用して「心的機能の社会的構成」(←う〜む)を論じ(第4章「社会的存在としての心」),ベンジャミン・リベットの実験を起点とした「自由(意思)」の原理的考察(第5章「脳研究は自由意志を否定するか」)へと降りていったあとは,今後の脳研究を導く道標としての「脳神経倫理(ニューロエシックス)」の議論(第6章「脳神経倫理」)まで辿りついて終了.

新書ながら思いのほか情報量が充実してて満足.叙述に対しては途中引っかかる場面もないわけではないのですが有益な書ではないでしょうか.全体的としては「危険な脳科学」像を大きめに膨らませておいてから話を進めてる印象つよし.「真の絶望状態にある人は実験に協力したりしないだろう」ってそりゃそうだけど,脳科学全般はもっと限定された対象と条件における技術的応用を考えてるじゃないんですか.

最後の「脳神経倫理」のところ,

脳科学研究の成果に基づいた脳テクノロジーは、私たち個々人を操作対象とする科学技術である。(中略)脳テクノロジーは、人間をコントロールするための技術である。(188-189頁)

としたうえで,

テクノロジーは無思想である。(209頁)

と「テクノロジーによる個人の操作」と「テクノロジーの無思想性」が強調されているのですが,こと教育とのかかわりに関してはここの論理に歪みが入る.

[脳科学的な教育観の:引用者]語り口では、教育とは、学習者の脳の内部に知識やスキルを構築することだと想定されているのである。そこには、知識を一種のモノとしてとらえ、それを学習者に効率よく注入させるという、かなり古臭い教育観をみることができる。(中略)民主主義的な教育哲学がこれまで培ってきた…理念に対する考慮は、先の脳科学的な教育観に見出せるだろうか。(中略)日本の教育システムの中に脳テクノロジーが導入されたときには、社会のために個人を教育するといった復古的な教育観を助長する可能性が高いように思われてならない。新しいテクノロジーは、古臭い考えを実現する手段を与えてしまうだろう。(205-207頁)

そうかもしれません.しかしテクノロジーが本来的に無思想であるという言明が真ならば,脳テクノロジーも「古臭い教育観」とだけではなく,「民主主義的な教育哲学」の思想とも十分に結びつきうるもののはずです.そして私見ではこちらの結びつきの方がありそうなことのように思えますし,考えておくべきことが多いとも思います.脳テクノロジーが「権力」による個人の「管理・操作」の手段となりうる,というとき,本当に考慮すべきなのはこちらのほうではないでしょうか.

「権力」と「テクノロジー」との関係以前に,そこで想定されている「権力」とか「管理」の内実そのものが問題なのだと思います.

脳テクノロジーは個人を管理・操作しうる.そして脳テクノロジーは「民主主義」と結びつきうる.だからこそ,その制御を根拠づける倫理についての討議を模索する必要がある.

暴走する脳科学 (光文社新書)

暴走する脳科学 (光文社新書)