教育学をつかめる?

稲葉振一郎さんの『社会学入門』に感化されて少し構想がわいた.「社会契約論→ルソー/デュルケム→教育学」で同じラインの仕事ができないか色気がでる.ちょっと教科書ものを物色.最近でた有斐閣の「つかむ」シリーズから『教育学をつかむ』.

しかし,少し読み進んだとたんに固まる.

「狼に育てられた子」のお話登場.第1章unit3「人間の発達と教育」の「重要ポイント」というコラム欄に「狼に育てられた子カマラの記録」として採用.ゲゼル版『狼に育てられた子』の概要が2パラグラフにわたり簡略に紹介されたあと,次のように続く.

この狼に育てられた子の話が日本の世間一般に広まるのは1950年代以降である。日本の教科書でも紹介され,人間は工夫次第でどこまで人間性を回復できるかというヒューマニズムの思想とつながって,人間の可能性を説く教育学の言説を流布させるうえで少なからずの役割を果たした。しかしこんにちにおいて・・・

ここからである.

しかしこんにちにおいてそこにある人間中心思想に対しての問い直しがある西平は「[シング]牧師夫妻の献身的努力はなにをカマラから奪ったのか」という問いを示している。カマラたちを救うために狼を射殺したことにあるように,人間のために狼が犠牲になるのは当然という考え方に対して別の価値判断やものの見方も成り立つという認識がそこにはある。そうした観点も含めてこの記録をとらえることの必要性が示されてきている(西平,2005)[←西平直『教育人間学のために』東京大学出版会](32頁)

そこ?

この部分はさらにunit末確認問題の3番目(Check 3)にも登場.「カマラの記録など「野生児の記録」をこんにちにおいて読む際に,考慮しなければならない点について考えてみよう」.

これは,上記引用部分の内容を答えるべきなのか,それとも,この「お話」自体の真偽のほどや,にもかかわらず「人間の可能性/適応性」話として手垢にまみれ何度疑義が呈されてもよみがえってくるある種の「ダーティー」さの側面を答えるべきなのか...*1

...読み切れない.

本文中でも都合2回登場する.

1920年代には[日本では]すでに子どもは「授かるもの」ではなく,「つくるもの」という意識が一部の階層で醸成されていた。1960年代以降,それが日本の社会全体に拡張する。この時期は子どもをいかに「よく」育てるかが大きな問題になった。unit 3の重要ポイントでふれる「狼に育てられた子」が世に知れわたるのもこうした動きのなかにおいてである。(25頁)

ここではそれこそ「構築主義」的な文脈にのせて言及されているし,もう一箇所,「人間の発達と教育」のunitでは教育学において「発達」がいかに捉えられてきたかのレビューのなかで大田堯(1987『教育研究の課題と方法』岩波書店)が取り上げられて,

さらに,[大田は(というふうにしか読めない.そういう文脈として読むしかないですよねぇ?―引用者)]インドで発見された「狼に育てられた子」の記録(→重要ポイント)や「アヴェロンの野生児」の記録に注目し,狼に育てられると人間の子は狼にまでなりうる適応性をもった存在,すなわち,人間を越えて他の動物にまで開かれた可能性を秘めた存在であることを指摘した。(32-33頁)

とあり,そこは大田の議論を紹介する,というスタイルになっている.あくまで「そういうことを言ってた時代もあったよね,あのころ」という文脈に読める.

要するに「野生児もの」の客観的実在に関する疑義や指摘の類は一切スルー.

しかし,これはどうでしょう? 心理学者の布教活動も無視しますか,この際.

私個人は動物学者でも心理学者でも文化人類学者でも民族学者でもないし,まして「ここ」を研究テーマにしている専門家ではないので,事実の所在について直接判断する材料をもっているわけでは(もちろん)ありません.しかし,教育学の教科書としてみた場合に,この話題を,ここまで茫漠とした文脈のなかに置き去りにしてよいものかどうか,一考以上の検討を要するものではないでしょうか*2

いや,私が間違ってるんでしょうか? なんか最新の研究成果が更新された?

教科書そのものは意欲作です.今日はここで固まっちゃいましたが.
以下,つづく.

教育学をつかむ (テキストブックス「つかむ」)

教育学をつかむ (テキストブックス「つかむ」)

オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険

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*1:ちなみに私は西平さんの『教育人間学のために』は未見のままこのエントリを書いています.

*2:コラムでは「カマラたちを救うために狼を射殺したことにあるように」ともある.