1993年の授業感想文――『授業巡礼〜哲学者 林竹二の残したもの〜』を見て

戸崎賢二先生からお送りいただきました.1993年4月19日の東大教育学部での授業で,戸崎先生が取材・製作されたETV8『授業巡礼〜哲学者 林竹二が残したもの〜』を見たあと提出したと思しき私の感想文である.思ったより長い.A4で1枚書いている.

「授業巡礼」についてはこちら(「林竹二,きた?」)へ.

戸崎先生からはその他にも非常に貴重な資料てんこ盛りでお送りいただきました.感激です.ありがとうございます.たぶん,いつか生かせるときがくると思います.生かせるときがくるように努力します.

さて,昨年末に予告しておいた通り,以下にその感想文の全文を公開しよう.おもしろくない?(←誰に向けて?).せっかくだし,ってことで.

途中,句読点のうち方など変なところがあるが全部,原文ママ,である.妙におっさんくさい調子で書いているが,私もこうみえて(どうみえて?)研究者のはしくれ,お天道様に誓って資料の改竄はしておりません.ただし,原文は改行なしでA4・1枚ぶん,ぶっつづけで書いているのだが(汚く大きな字で),さすがに見にくいので,適宜改行しております.

なんか......こんなこと書くような学生だったっけ,おれ? 93年のある東大教育学部3年生の授業感想文である.レッツラゴー!

林竹二の言葉のなかで印象に残ったもの,「授業とは子どものなかに事件を起こすことである」 15分50秒の独白を語った青年,その他泥沼の生活から這い上がってきた青年たちが,「人生を変えた」「人生を選びとった」瞬間が あまりにも偶然のでき事であることが多いのを見るにつけ,自分のことを振り返っても やはり 今までの自分を決定づけてきた転換点は偶発的なものであったなあ,と感じいった.


なるほど人間は,「人生を選ぶ」ことのできる存在であるが,と同時にあまりにもその契機は偶然という運命の気まぐれに依存している.そんななかで,教育は少しでも子どもたち,あるいは青年,人間に対してそういう運命的偶然の瞬間を提供する努力を目指すべきである,というのが林竹二の授業に対する上のような言葉となったのではないかと感じた.


子どもは生命という自ら飛躍する力を内在させている存在なのであり,その子どもの生命の生きる場を与えることが教師の役目である という言葉にも感銘を受けた.勿論 それが教師による無責任な放任主義を認めるものでないことは明らかだ.むしろ逆に教師に厳しく授業を構成する力,子どものなかで起こっているできごとを見抜く洞察力を求めるものであろう.


林竹二のこのような思想を私は今日見せてもらったビデオから学ぶことができた.(ように思う.)


何にせよ,ある人の思想なり生き方なりを人々に紹介しようとしたり,跡づけようとするものは,また同時に,厳しく自らの生き方を問いかえされねばならない,そう思った.

ちなみに,↑の最後のパラグラフには戸崎先生が当時引いたと思しきマーカーの跡が残っています.こんなこと書いてたんけ? 「偶然という運命の気まぐれ」とか「生命という自ら飛躍する力」(←違った,これ林の言葉だった.訂正1/14)とか,どこで仕入れてきた,そんな言葉.気持ち悪いよw

推測するに,なんか,当時,堀尾輝久(せんせー)とか,教育学のほうに感化されてた臭い(にほい)がぷんぷんする.

しかし翻ってみるに,「子どものなかに事件を起こす」とか「それが教師による無責任な放任主義を認めるものでない」とか「教師に厳しく授業を構成する力,子どものなかで起こっているできごとを見抜く洞察力を求める」とか,今しゃべってるようなことの原型みたいなものもすでに出ていて,自分のこの間の発展のなさ加減を嗤う.

三つ子の魂百までw

追記:
なんかもっと勢いだけの青々とした若気の至り的な文章を期待していただけに,思てたんとちがうーー(←笑飯西田)という感じである.(1/14)