某誌座談会メモ

某日、某所において、某誌最新号に掲載予定の特集座談会に参加してきた。保育(関係)者向け雑誌であり、「保育のなかのあそびと学び(仮)」というのが最初に与えられたテーマであった。当日の議論の展開をうけて実際に掲載される記事の題名は変わるだろう。なぜそのような場にお前みたいなもんが、というのは当然あろうが、そこはそれなりの理由もあって、しかしあまりに門外漢のため事前の予習は念入りに、というか編集者さんから大量の資料もいただきありがたいことであった。

幼稚園・保育園の実践家が各1名、それに研究者は発達心理学、教育(史)学、社会学(つまり私)から各1名、さらに編集者というメンバーであった。が、詳細は当該誌が刊行されてからということで。

以下は当初与えられていた座談会構成にあわせて手元に用意していったメモである(メモもなしに5時間を超える座談会とは「にわか勉強」の身には辛すぎる)。実際には想定されていた話題の枠を超えるスケールで話は展開し、たいへん有意義な対話の記録となっただろう。思わぬ部分の発言量が多くなったりメモと実際とのウエイトの違いは大きく、また座談会自体の構成もかなり変更となった感があるが、一応メモはメモなので当初のまま。

〈学び〉(と〈あそび〉)という【ことば】をめぐる、あるいは【ことば】がもたらす困難と可能性、というのが大きくはテーマとなった。一方では幼児教育の無償化・義務化、そこに例によって日本独特の意味論をなす「早期教育」という文脈と、他方でレッジョ・エミリア(イタリア)やテ・ファリキ(ニュージーランド)からの影響で近年用いられる「learning narrative / learning story」(学びの物語)という文脈と。ここに“佐藤学”的意味合いも入ってくるともうわけがわからないよ(学びの共同体)。

さらにいえば、きたる4月から本格実施予定の子ども・子育て支援制度では、「保育」と「教育」という【ことば】の制度的・意味論的切り分けと再編がすでに遂行済みである。「養護と教育の一体性」としての「保育」からの、「教育」の剥奪。そうして再編された【ことば】の布置は、今後それぞれに対応する「財源」と「価格(算定)」の違いと重なるだろう。

思った以上に私の発言部分が多くなったのは、ひとつは、「行為と規範」をめぐる社会学の議論について。これは「発達と環境」をめぐる(発達)心理学・幼児教育の議論のパラレルな(私なりの)理解にあたり補助線を引くため。もうひとつは、制度論とは独立に実践論が立てられるべき意義について。これは「テ・ファリキ」が「新自由主義」改革の国・ニュージーランドで策定されたことの意義を確認するため。このブログでも何度か紹介した石浜西小の実践とも対比しつつ。最後に、「保育が保育であるために」(@萩原久美子)をめぐって。公的保障の範囲の狭さゆえの保育の多様性・多元性、ゆえの保育「労働」の多様性・多元性を前にして、それでも実践を論じることの意義と困難について。

ところで、座談会の話をもらったときから座談会の最中、そして原稿の校正を経て今にいたるまで、ずっと感じていたのは、たぶんここにはEM者(エスノメソドロジー/-ジスト)がいるべきなのだろう、との思いである(なにせそれは「実践の学」なのだから)。だがせめて、「ワンポイント・リリーフ」として意味ある仕事をしておきたい。

また、「石浜西」という固有名詞によって何かを語るのは、これがひとつの区切りとなろう。

ともあれ、私にとってとても貴重な経験となった。一度も表に顔をだすことなく「フィクサー(笑)」となってこういう機会を用意してくれたSさんに、この場を借りて感謝申し上げたい。


【MEMO】
0.導入
子ども・子育て支援新制度、学制改革、5歳児義務化、幼児教育無償化


保育、教育、あそび、学び


あそびと学びを統合して捉える人:あそびを通じた学び、乳幼児期の特性
「学び」(の強調)に批判的な人:保育の学校化、保育園の「幼稚園」化への懸念
「学び」に積極的な人:じわじわ広がる「学びの物語」の取り組み


保育の両極への批判・危機感: “自由放任保育” ⇔ “早期教育的・訓練的な保育”
保育実践・技能の “伝承” の悩み
保育行政の動向:機械的な「保育」の切り詰め、「小1プロブレム」の前景化による「なめらかな接続」圧力


童心主義(のびのび)、厳格主義(しつけ・規律)、学歴主義(卓越化)
広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、大正・昭和の新中間層の教育要求


幼小連携:「幼」と「小」を同じにすればいい、という問題ではない


1.保育と学校教育(小学校教育)
・・・・・・


2.学び論の背景
〈あそび〉と〈学び〉
生活・経験・文脈に埋め込まれた乳幼児の行為=発達


learning narrative / learning story(学びの物語)・・・アセスメント実践 ← 社会文化的‐歴史的理論=子ども観の転換?(Margaret Carr, 大宮勇雄)
発達 vs. 環境 ではない、発達と環境の相互構成的関係(「媒介/構成された学び」)
 cf. 行為と規範(「規範が行為に影響(制約)する」ではなく、「行為は規範を参照することで遂行/理解可能になる」)
   ・・・行為の理解・記述可能性(規範と行為の相互参照関係、行為の構成要素としての規範)


発達が環境にも影響、双方向的・・・創発的・創造的・主体的な活動への参加(遊び/学び)
「就学準備的な保育」の乗り越え(learning(学び)のレパートリーの豊富化)のための学び=アセスメント実践の方法論


「あそび」:
 「あそび」は子どもたちの生きる舞台
 「あそび」というゆるやかな時間をしっかり守っていくことが対話的関係を育むことに


3.学び論の「拡がり」と「警戒」という二重性
4.「すべての子ども」のための保育である条件
◆いくつかの錯綜
童心主義: “自由放任型”、厳格主義: “早期訓練・規律型”、学歴主義: “早期教育・卓越型”
系統主義 vs. 経験主義、知識・スキル vs. 生活・経験
分類と枠づけ
進歩主義=ミドル・クラス → 新自由主義・格差拡大 cf. 教育社会学Sharp & Green, 苅谷)
   プラウデン報告「教育優先地域」(イギリス)、ミドル・クラス(アメリカ)
   「与える教育観」「放っておく教育観」「支える教育観」(守屋淳

進歩主義=貧民・マイノリティ cf. Deborah Meier

進歩主義教育の歴史の大半は、幼い子どものための学校において――つまり、幼稚園や保育所、あるいはヘッド・スタートの施設などで――書かれてきた。その語り手は、自分の仕事(クラフト)を子どもたちとともに研究し、実践した専門家だったのである。・・・(略)・・・そういった人々がつくった学校では、生徒が学んだことが生徒自身の生活と密接に結びついていたし、皆が寄り添いあって活動し学習していた。本校での成功とは、そうした構造を再びつくり出すことであり、年長の生徒も一緒に学習する環境のなかで目的を達成することである。これもまた、私たちの挑戦なのである。(デボラ・マイヤー&ポール・シュワルツ「セントラル・パーク・イースト中等学校」マイケル・W・アップル&ジェームズ・A・ビーン編、澤田稔訳『デモクラティック・スクール』上智大学出版、219-220頁)

あそび vs. 学び
⇒⇒ 〈教育的〉といったときのイメージの【本来的】錯綜 ← 政治的志向性


〈教育の論理〉の拡散
⇒⇒ 「無条件でありのまま受け容れられる」という生存と尊厳の無条件保障の最低限規定を掘り崩す(具体的には生存権など社会保障領域の縮減のレトリックに用いられる)
⇒⇒ 「学び」の強調に批判的な人たちの懸念とパラレルな部分


◆個別化・個性化教育
1978年 愛知県東浦町立緒川小学校 成田幸夫
オープンスクール建築 1コマ85分 戦後コア・カリキュラム教育運動 「経験主義」
 「六つの学習態様」:はげみ学習/集団学習(小ゼミ・一斉・マルタリーラーニング)/週プロ// 総合的学習/オープン・タイム/集団活動
 ・・・教師の教授/児童の学習、教科の独立/総合、個別/集団、「指導の個別化/学習の個性化」


⇒ 80年代 臨教審「教育の自由化・個性化」路線:子どもの興味・関心、自主性・自発性・主体性
⇒ 90年代 政策の実現 「新学力観」「観点別評価」「生きる力」「関心・意欲・態度」「総合的学習」「TT制」
⇒ 00年代 「学力低下」「格差拡大」批判 新自由主義的教育改革  cf. 教育社会学


敗戦直後のコア・カリキュラム運動 ⇔ 学力低下批判/「はいまわる経験主義」批判
系統主義 vs. 経験主義 (新自由主義批判の加味)


◆石浜西小学校(※記述はすべて調査当時)(森,2011,2014)
・校区は築35年超の県営団地、3割が一人親世帯、要・準要保護世帯が2〜4割(ほとんど日本人世帯)、3分の1がブラジル人児童、「教育困難校


・2005年から個別化・個性化教育の実践を導入
  「○○学習」(2教科同時進行単元内自由進度学習)、「わくフリ」(自由活動型総合学習


・「ニコニコデー」:5のつく日に「おやつ」
 「サタデーナイトスクール」:土曜の夜に授業参観 & イベント
⇒⇒ 「楽しさ」の体験、家庭ごと学校への親近感(不安定就労の親、日本の学校文化への不信感)


・「○○学習」
学習パッケージ:コース別学習
学習環境:放っておいて自発的な学習プロセスを駆動させる学習材等の空間配置
 論点(1):規律化の弛緩
   自尊感情・自己有能感・自己効力感の増進、「楽しさ」の増進を通した自発的学習の促進
   許容から規律へ、規律から許容へ
 論点(2):対応原理 ・・・ 学び合い・教え合い
 論点(3):見えない教育方法 ・・・ 監視の最大化


・「わくフリ」
 廊下のボール転がし、AKB48新曲の暗記、ラジコンカー、中国コマ、ローラースニーカー、でたらめのギター、マット飛び込み、体育用具室でタムロ、タイヤ太鼓、サッカー、「石西の森」滑降、流しそうめん大会、開設講座「もちつき」...etc.


「自らの興味・関心に従って設定した学習テーマを一貫して追究するというよりも、むしろ無為の連続のなかにときおり浮上して絶えず無為との狭間を揺らぐ流動的で断片的な思いつきの営為の連なり」


〈教育的〉序列づけや価値づけのない「無条件の肯定」、「ただ寄り添う」、〈ケア的〉関係性
⇒⇒ 発達の基盤となる自尊感情・自己効力感、〈ケア〉


「待つ」こと
「浮遊してる子にも葛藤があると思うんですよ。・・・(略)・・・一年単位でゆっくり成熟してくれればいい」(森,2014)


⇒⇒ 新自由主義的な「自由化/個性化」路線の政策論、からの「逸脱」「創造」「反転」
・・・実践の場面における「定義」の変更


(Kメモより)
「あれ」か「これ」かの2分法では解けないのが教育・保育実践
「教育の論理が実践現場に降りていくとは実際にはどういうことか」
「実践現場はそれをその通りに『つきつめて』実践するわけではない」
「制度論がそのまま実践論になるわけではない」
「わくフリも知的な探究をする時間として位置づけながら、同時に、無条件に存在を肯定される場でもある。一体のものとして展開されているところに実践的意義があるのではないか」


◆「保育」のような小学校の実践
・保育との相同性
  学習環境づくり:子どもの活動性の誘発
  教育内容の真正性、本物性
  興味・関心から保育を展開・プロジェクト活動・・・「このことばは逃してはいけない」(下田,2012:秘密基地づくりプロジェクト)


・「教育」とは、本質的に、教育対象である存在を_一時的に_否定する_コミュニケーション形式であるからだろう、と。

・基本的な自己肯定を既得の資源としている子どもにとって、このようなコミュニケーション形式で充溢した学校空間に身を投じることは、さして苦痛ではない。むしろ、「一時的な否定」を通じて達成される成長と、それがもたらすさらなる自己肯定とは、学校という空間と教育というコミュニケーション形式への深い肯定的意識、親和性へとつながり、高い教育達成にも通じやすくなるかもしれない。「資本(の増殖)」のアナロジーは、こういうときにこそ用いたくなる。


・だが基本的な自己肯定感を学校空間の外/教育コミュニケーションの以前に獲得しきれていない子どもにとって、学校という空間の内部に充溢する教育という営みが、つねに「一時的な否定」からしか作動されないのだとすれば、それはなかなか苛酷な環境である。比喩ではなく、自分を無条件に受け止めてくれる場所、肯定してくれる大人など、この世界に存在しない。


・自分のコミュニケーション形式が目の前の子どもの「一時的な否定_の恒常化」を帰結していることへの想像力


・ラディカルでトータルな教育実践=学校改革プログラムの6つの「モジュール」のうち2つ「だけ」を切り出して埋め込んだ取り組み
・・・「教師をギリギリと追い込むような、教師が苦しくなるような学習カードは作りたくない」「一斉指導の学習指導案における発問を切り出しただけの学習カードでも十分に子どもは勉強する」(森,2011)

学習指導案は、ふつうどんな教師でも作っている(はずのものな)わけですから、これなら「学習パッケージ」作成に向けた心理的・労力的なハードルがぐんと下がり……


・「学習指導案」の形に圧縮されていた学習活動展開の個々の要素を「学習カード」の集合(=「学習パッケージ」)へと開いていくプロセス自体が未熟練教師にとっての教材研究=授業研究のよい機会になる。しかも、それを教師の協業として行える


・「未熟」だから、暗黙の前提知識が豊富にないから、学習に躓きがちな子ども目線の言葉がでたりします。少なくとも熟練度や経験・年齢の違いにかかわらず、教師同士が対等に意見を出しやすい。また、若手が提出したその鋭い指摘に熟練教師側が新しい発想を学ぶとともに、それに対して経験をもとにした応答・アドバイスを送ることもできる


・優れた教師の属人的な「名人芸」の要素を、「個別化・個性化教育」の取り組みは教師協働の集団作業へと外化し、「学習パッケージ」と「学習環境」というマテリアルに落とすところまで具体的にプログラム化した試み


◆パッチワークで切りだせるスキル(中西・片山・平松鼎談「保育者は早期教育とどう向き合うか:保・幼・小・学童の現場から考える」)
 「早期教育 vs. いい保育」でいいのか――厳しい条件の現場と手をつなぐ視点」

中西新太郎
「それはとても立派だし感心するんですけれど、そうやってしっかりした保育園をつくって、職員集団を育てて、丁寧に打合せをして、それではじめてできる保育です、というふうな伝え方になると、それだけのことができない現場にいる人にしてみると、敷居がものすごく高く感じられる。/この間の保育制度改革によって非正規職員の割合が増え、いわゆるパッチワーク保育が広がっている中では、打ち合わせなどできない保育園や幼稚園がたくさんありますね。そこで多くの保育者の方たちはどうしたらいいか悩んでいるし、自分たちのところでもできるスキルを求めているのではないでしょうか。」


 「こんなふうに取り出せる保育のスキルのようなものは、早期教育とは違う、一人ひとりの育ちを大事にしたいと願っている実践の中にも、じつはたくさんあるのではないでしょうか。」

◆保育制度の矛盾とたたかう保育運動(同上鼎談)
 打合せもできない現実を変える


◆「保育が保育であるために」(萩原久美子, 2013)
「これがはたして保育なのかという葛藤」
「ここの職場は観覧車。止まることができないんです。子どもがゴンドラに乗っていて、そこに次々と職員が飛び乗っていく感じ。そうやって24時間ノンストップで回っていく」


◆幼児教育(3−5歳児)の無償化・義務化
(1)少子化対策(+「男女共同参画社会」)
(2)早期教育(卓越化)、早期訓練(規律化)
(3)学力・貧困・ジェンダー格差対策


(3)学力/貧困政策としての就学前教育
小学校入学時点で社会経済的格差による学力格差→教育段階を通じて縮小せず
教育・文化的格差・・・規律(生活習慣)、自尊心
経済的格差・・・非義務制=保育・教育機関の多様性


Abecedarian Project (ABC)・High/Scope Perry Preschool Program (PPP)・ Chicago Child-Parent Center (CCC)...etc.


質の高い就学前教育の影響:
特殊学級への参加・留年率・高校中退可能性
10代での出産・治安面への影響・健康上の問題・薬物の使用・依存症治療・妊娠中絶・虐待/ネグレクト


費用対効果の高さ
Heckman, J. J. / Belfield, R. C. / Berlinski, S., and Galiani, S. / Goux, D., and Maurin, E. / Havnes, T., and Mogstab, N. / Temple, A, J., & Reynolds, J, A. ...etc.


就学前教育の拡充の女性の労働参加への影響
就学前教育の整備・女性の労働参加の進展=限定的(e.g. インフォーマル就学前教育との置換)
シングルマザーの労働参加は促進


日本の就学前教育従事者の給与水準の低さ、離職率の高さ、クラスサイズの大きさ


貧困層出身・低学力リスクの高い子どもへの重点的な提供
シングルマザーに焦点を置きつつ0−2歳児を対象とした就学前教育の拡充、質の向上


5.あそびと学び、保育と教育を分けないで考えてみること
・・・・・・
【以上】