「さとにきたらええやん」をみにきたらええやん

いやほんまに。みたらええやん。

たしかにシン・ゴジラも面白いかもしれない。とくにゴジラの暴れっぷりはよかった。「よい」っていうのもどうかと思うが、あくまで映画的に。けれどあれにはあんまり「ひと」がでてこない。

「さとにきたらええやん」。重江良樹監督のドキュメンタリー映画(2015年、100分)。初監督作品。公式ホームページはこちら。舞台は大阪市西成区釜ヶ崎。この「日雇い労働者の街」で、38年にわたり、地域の子どもや親やその他のひとびとの居場所であり続ける「こどもの里」を撮る。音楽は地元・釜ヶ崎が生んだヒップホップアーティストのSHINGO★西成。

この映画には「ひと」がでてくる。ひとが育ち、生きていくのに必要で、大切な、たいていのことがでてくる。ただしゴジラはでてこない。

2008年、映像学校在学中に思いつきで釜ヶ崎の街に足を運び、「こどもの里」と出会った重江監督が、ボランティアとして通い始めて5年ほど経った2013年に「映画にしよう」と撮影を開始。社会学にたとえるなら(なぜたとえるのか)、ボランティアとして参与観察に入り、5年間フィールドワークを進めて2年で執筆、みたく考えると、さしずめ本作品は「博士論文として提出したものをリライトして単著を出版」的なところだろうか。(たぶん違う

(失礼なことを言っていたらごめんなさい。)

撮影を始めて半年、メインの登場人物も絞れてきたところで知り合いの監督に撮影した映像を観てもらうと、「カメラと人物の距離が遠い。もっとかかわれ。こんな撮影では何も伝わらない」と言われ、カメラを回すことでその場の空気を壊し関係性を壊すことを怖れていた臆病な自分に「ハッと」気づく、というくだりもどこか大学院のゼミでの研究報告&検討のやりとりが髣髴として興味深い。

さて、「こどもの里」である。外形的に言えば、いわゆる「学童保育」的な、しかし受け入れ対象年齢を限定しない居場所提供事業、親や子ども自身からの依頼による緊急一時保護・一時宿泊、さらに親子分離の長期化が判断されたときに児童相談所から委託される「里親」、ファミリーホーム(児童養育)事業等からなる、包括的な子ども支援の場(2014年度からは乳幼児とその保護者を対象とした「大阪市地域子育て支援拠点事業」(つどいの広場)も開設)。

ニーズを見つけ、現実に応じて、なんでもやる。福祉の基本。

館長は荘保共子さん(通称・デメキン)。大学卒業後まもなくボランティアで釜ヶ崎の子どもたちと出会い、人生が一変。1977年に聖フランシスコ会のハインリッヒ神父が始めた高齢労働者のための食堂(「ふるさとの家」)の2階を間借りし、「子どもの広場」を開設。その後「守護の天使の姉妹修道会」が引き継ぎ、1980年にいまある場所で「こどもの里」としてオープン。一方で、ここにも橋下徹市長による大阪市政は影を落としていて、2013年には大阪市の「子どもの家事業」は廃止、こどもの里も存続が危ぶまれたが「NPO法人こどもの里」を設立し、存続。

(余談だが、「子どもの家事業」廃止を謳った橋下徹市長の繰り出した論理はめちゃくちゃである。試しに、「児童いきいき放課後事業」「子どもの家事業」「留守家庭児童対策事業」あたりでググってみて、それぞれの利用料・利用可能時間・(想定)利用対象層を比較し、考えてみてほしい。そのうえで、なかであえて「子どもの家事業」を廃止するということがどういう帰結をもたらしうるか、想像してみてほしい。そして、橋下市長が何を言って、「子どもの家事業」を廃止したかも。)

不安定な生活のなかにある子ども、だけでなくその親、のみならず地域に住む人びと、へのサポートを無料で提供する。遊び、学習、休息、「避難」、生活相談、教育相談、宿泊場所の提供。いつでもあいてますし、泊まれます、何でも受け付けますし、何でもききます、利用料はいりません。

こどもの里では、「こども夜回り」という活動と学習会も行われている。夜、釜ヶ崎で野宿する人びとを「里」の子どもたちがまわり、言葉をかける。さとにきたらええやん、いつでもおいでや、なんとかなるて。

メインに描かれるのは「里」にきている3人の子ども。だがすべては映画を観てほしい。どんなエピソード紹介もすべてネタバレ。これはそういう映画である。だから映画館に足を運んでもらいたい。

登場人物はみなそれぞれの事情を抱えながら、笑い、ときに泣き、怒り、ぶつかり合い、支え合いながら生きている。そんな様子を衒いなく、まっすぐに映し出した作品は、さわやかである。もちろん、ここに描き出さ(/せ)なかった現実の、深く重い暗さはあろう。だがこの映画は、まずは「光」をきちんと「光」として描くことを選んだ。その選択を私は支持したい。あとで振り返って、初めて発表した作品にはのちの作者の「すべて」が凝縮されていた、ということはよくある。この「さとにきたらええやん」も重江監督にとってそういう作品になるのかもしれない。

昔、なにで読んだのかもうまったくすっかり忘れてしまったが、なにかのマンガで――べつに「名作」でもなんでもない、なんかのスポーツ漫画だったような――登場人物の男が、自分の言動を深く反省するシーンがあった。その男は、だれか自分より年下の、たぶん中高生ぐらいの男の子の前で、その男の子の父親を悪しざまに罵ってしまった、そのことをとても激しく悔いていたのだ。あんなふうにあの子の父親のことをあの子の前で言うべきではなかった、と。でもその男の子自身も父親のことをとても強く憎み、軽侮しているのだ。「だからそんな気にすることではないでしょう? あの子自身がいつも言ってることですよ」と慰める別の登場人物を遮って、その男はなおも言う、

「いや、どんなに憎み、軽蔑しているとしても、子どもにとって親は特別なんだ。自分の親が他の誰かに目の前で罵倒されて平気な子どもなんていない。自分が罵倒するのとは、違うんだ。それなのに、おれは。。。」(大意&記憶をもとに創作)

自分の10代の頃に読んだそのシーンを変に覚えている。

この映画を観て、一番にそのことを思い出して、映画鑑賞後に購入したパンフレットにあった荘保さんのインタビューを読んでいたら同じことが書いてあって、やっぱりそうだよなと思った。

どんなにひどいとこちらが思う親でも子どもにとっては親は親。こどもは親が大切で大好きな「宝」なので、親を何とかしたいといつも思っている。だから子どもが生きるということは、親の生活、しんどさも知って親との関わりも大切になってくるんです。

まああとむつかしく言うと福祉、ケアとか、教育とかそういうことになるんだけれど、そういう問題領域においてて考えるべきたいていのことはでてくる。そのための「ポイント」は随所に埋め込まれている。ひとつだけ、荘保さんのインタビューで、「こどもの里」のような子ども包括支援センターは一つの中学校区に一つぐらいあったらいい、と語られていたことはここに書いておきたい。たとえば学童保育は一小学校区に一つ、子ども包括支援センターが一中学校区に一つ(もちろん人口規模やなんやかやによる)。

ところで、この映画を観てもう一つ思ったのは、メインの登場人物のひとりの高校生のマユミちゃん、である。おれ、この子ぜったい見たことあるわ。

いや、この子とは会ってないよ。この子とは会ったことないんやけど、こんな子いっぱい会ってたわ。見たことあるわあ、こういう顔。前の職場の大学の、指定校推薦入試の面接とかでな。ああいう顔の、あんな表情する子はいっぱい見てたと思うわ。それを思い出して、とても懐かしかった。たいへんなこともあるんだけれども、周りに支えとなる大人もいて。

しばらく引っ込んでいた、前の職場でまた働きたい欲が、ぶり返す。

公開からもうずいぶん経つが、9月16日(金)までのポレポレ東中野(東京)や第七藝術劇場(大阪)でのアンコール上映をはじめ、10月にはシネマチュプキ・タバタ(東京)、シネマ尾道(広島)、そのほか今秋中に京都、鹿児島、金沢などなどで上映予定(詳細はこちら)。けれど、涼しかった風が肌寒く感じるようになる頃にはもう終わってしまっているかもしれない。行かれるなら、この秋、寒くなる前に。

なおこれを書くにあたって映画のパンフレットを大いに参照した。表紙は「こどもの里」の玄関からあふれだす、色とりどりの子どもたちのスニーカーの写真。ちょっと遠目にはテーブルに広げられた色あざやかなキャンディあめちゃんみたく見える。映画の雰囲気を伝えておもしろい。
(※2016-9-11修正。私としたことが。ここはやはり大阪なだけに)

多様な教育機会と教育費メモ

末冨芳『教育費の政治経済学』(勁草書房、2010年)、第3章「「公私混合型教育費負担構造」の法システムとその流動」

末冨によれば、日本の教育費負担構造の特徴というべき私費割合の高さの根底には、公教育費(「設置者負担主義」)の支出範囲と金額に関する法的根拠の不在ないし曖昧さ、およびその範囲・金額の限定性がある。その限定的で、かつ、支出範囲・金額に関する法的規定の曖昧な(公的)教育費の境界を、民法820条の「監護及び教育の権利義務」規定を根拠とする「受益者負担主義」にもとづいた私教育費負担が代替してきたが、他方で、その私費負担の拡大を制限する法的根拠は不在である。

たとえば授業料無償の義務教育において――憲法教育基本法のもとでの「義務教育無償」を「授業料の無償」と解する「授業料無償説」が日本政府のとる立場である――、その他の費用について保護者負担原則が明記されているのは「学校給食費」と「スポーツ共済センター掛金」のみであり、それ以外の徴収金には明確な法的根拠がない。その結果、たとえば公立小学校における学校徴収金は、年額1000円未満から年額10万円以上までと、自治体によって多様な分布を示しており、「義務教育無償」の公私関係ですら曖昧な部分が大きい。

つまり、教育費を公私でいかに「分担」するかという明確な原則を欠いたまま公費と私費が総体としての教育費を結果として負担しあう構造(のまま教育拡大を遂げてきたの)が日本の特徴であり、「公私混合型」とはこの謂いである。

その「公私混合型教育費負担構造」が、21世紀に入って「流動化」している。

第一に、学習補充主義にもとづく公教育費投入、すなわち、学校教育以外の放課後・土日の補習や学習塾通塾などの学校外教育への公費支援の拡大である。具体的には東京都港区の「土曜特別講座」や杉並区和田中学校の「夜スペ」など。

第二に、教育の多様性の確保のための非一条校・株式会社立学校等への助成、すなわち、フリースクールオルタナティブスクールや非学校法人立学校への公費導入に向けた公教育費の体系再編と対象拡大(の模索)である。

(第三に、家計教育費投入の後退という要素もあるが省略。)

これらの公費支援が憲法89条の「公の支配」原則にかなっているか、教育の機会均等理念と照らして容認できるかが大きな論点となるだけでなく、公私教育費負担の「混合」領域の構造や性質をよりいっそう複雑化させ、公費が公教育に果たす役割に対する混迷を深めることともなりうる懸念がある(130頁)。

したがって末冨は、この「混合」領域に対して家計の役割を法制もしくは政策により定位していくことが、教育費負担の曖昧な原則の明確化を可能にし、公私の役割分担にむけた制度変化にとって不可欠だと論じる(131頁)。

主として論点整理にとどまっているが、最後に若干の提言(太字は引用者)。

まず学校教育費の公私負担については、公教育費と私教育費とのグレーゾーンについて、学校の設置者と保護者等との間で費用負担の原則やその量的規模の妥当性についての検討が行われ相互作用的に調整される必要がある。


また、学校外教育については、教育の機会均等原則を学校教育以外にも拡張して適応(ママ)される必要があるとの前提のもとで、子どもたちの学校外の学習の保障(学習保障主義)を普遍的に適用し運用していく必要がある。ただしこの際、どこまでが公費負担でどこまでが私費負担されるべきかという教育費の公私負担に関する基準の検討は、学校教育における公私負担と同様に不可欠である。(135頁)

むしろ逆に、教育費の公私負担に関する基準の検討が「相互作用的な調整」のもとで遂行される、という要素を準拠点として、新たな「教育の公共性」、あるいは「(組織志向ではない)個々の教育行為志向」の「教育の機会均等」保障を構想できないか。

留意点。上の引用の第二点目(学校外教育への公費支援)がある種の抑圧性――子どもが学習サービスへのニーズを持たないのに保護者が強制する、もしくは逆に子どもが学習サービスへのニーズを持っている場合に保護者がサービスを受けさせない――に帰結し(てしまうがゆえに新たな紛争源になり)がちであることには、すでに末冨の叙述内に注意喚起がある(124頁)。

いずれにせよ、

現在の学校教育制度の外側にあるものの、一定の公共性を有する教育活動に対する公費投入のあり方は、今後の教育費の公私関係の再編の基軸の1つとなっていくと考えられる。(133頁)

教育費の政治経済学

教育費の政治経済学

社会の・多様な教育機会

このエントリは某研究会の備忘メモである、が、メモに至るまでの前置きは長い。


1.戦後の_「日本の学校」の_歴史
「学校の外」にも「教育」と呼びうる営みは存在する。もちろん。それを指して「社会教育」という日本語もある。公民館や図書館・博物館だけが「社会教育」ではない。

学校教育法の第一条に規定されたもの――「この法律で、学校とは、幼稚園、小学校、中学校、義務教育学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、大学及び高等専門学校とする」――のみを「学校」と呼ぶ立場からは、自主夜間中学、外国人学校フリースクールオルタナティブスクール、等々はすべて「学校に類するもの」、あるいは「学校に類するもの_ですらないもの」であって、そこで繰り広げられている営みが仮に「教育」と呼びうる価値あるものだったとしても、それは「学校外の教育」、その意味で――いささかの違和感は禁じ得ないが――「社会(の)教育」ということになる。

木村元の『学校の戦後史』(岩波新書、2015年)は、戦後の_「日本の学校」の_あゆみを描く。「日本の学校」は、明治以降に「西洋でつくりあげられた近代学校を移入し、日本の社会に合うようにつくりかえていった過程」(2-3頁)のうえにある(=第一章「「日本の学校」の成立――近代学校の導入と展開」)。そのうえで、「筆者は、学校の歴史的な展開を、それぞれの時代の新たな課題に対応するため、学校が自らの姿を調整しながら内実を整えていった過程ととらえる」(2頁)と宣言された視点から、戦後の_日本の_学校の、歴史的展開が描かれる。

それはいわば、「学校」が_「学校の外」(の変動)に対応しながら_「学校の外」にあったものを絶えず組み込みつつ_「学校」であり続ける歴史、となるだろう。

時期区分は以下の通り。「戦後民主主義社会の構築を担う教育」が課題であった「敗戦後から1950年代までの第1期」(=第二章「新学制の出発――戦後から高度成長前」)、「産業化社会の構築に対応する教育」が課題となった「1960〜80年代の第2期」(=第三章「学校化社会の成立と展開――経済成長下の学校」)、「新たな課題への対応と学校の土台の再構築」として画される「現代に至る第3期」(=第四章「学校の基盤の動揺――1990年代以降」)。そして、終章「学校の役割と課題――戦後学校制度の再考」においてまとめ。

新学制の出発(第二章)において「学校」の新たな体系(=6-3-3制の単線型学校体系)を構築・整備するにあたり、「学校」の「内」と「外」の境界にあって、あるものは「内」に取り込まれ、あるものは「外」へと放逐される。「定時制課程の設置」(66頁)、「夜間中学の出現と福祉教員」(68頁)、「障害児の学校」(69頁)、「朝鮮学校をめぐって」(71頁)、「沖縄の教育基本法」(「「戦後」教育の展開のなかで」、73頁)。新制高校定時制課程以外は、新たな「学校」の枠組みから除外される。除外されつつ、「学校の外」にはじき出された子どもたちを支える実践が展開する。

「生計をたてるために働かざるを得ない大量の子どもたち」=「不就学・長欠児童生徒」、就学義務猶予・免除規定の存置により就学の義務制が延期された障害児、において義務教育が保障されない状況に対し、その就学機会をひらこうとする動きが「学校の外」に展開するとともに、「教育(学校教育法)と福祉(児童福祉法)にまたがる法制システム」で対応することになる(70頁)。この「教育と福祉」の「二元的法制による対応」という論点は、現在を考えるうえでひとつの焦点となるだろう。

他方、英文教育基本法案の"the people" を「国民」として国籍保持者に限定した「教育基本法下において、教育の自主性や民族教育がもつ『価値』が、教育の『公共性』と相容れないものとして排されること」となった朝鮮学校は、その後、都道府県ごとに各種学校(「学校教育に類する教育」)として認可を受け、正規の「学校」の枠組みの「外」に展開する。また、アメリカの「直接的な軍事占領下で始まった沖縄」では、「教育基本法」の成立が、いや「戦後」の到来そのものが未達であった。

したがって、「公教育」からの排除とは、(1)「公=国家/国民」からの排除、(2)「教育=学校」からの排除、の二重の契機――「日本_の_学校」からの排除――としてある。

こうして構築された「学校」の枠組みのもと、経済成長を背景とした第2期(第三章)に、「学校を当たり前のものとして受け入れ積極的に利用する『学校化社会』の構築が急激に進」む(7頁)。沖縄の教育民立法(1958年)、技能連携制度(1961年)、高校全入運動(1962年〜)、沖縄「本土復帰」(1972年)、養護学校義務化(1979年)等々による「学校」への組み込みは続く。だが――という逆接でよいか――「学校に行くことが普通になるや子どもは学校に行かなくなった」(15頁)。

「1980年代後半から・・・学校に行かない・行けない人たちが安心して過ごせる『居場所』づくりや、フリースクールオルタナティブ・スクール)と呼ばれる学びの場を設立する動きが急速に進展する」(17頁)。折しも「転機としての臨教審」において「国家に依拠したこれまでの公教育概念を問い直し・・・『教育の自由化』を明確に打ち出」す動きを背景に、「教育における規制緩和と教育サービス提供の主体の多様化、さらに教育を受ける側の選択機会の拡大」(135頁)をめざす制度基盤の変容が進む。それが第3期、現在に至る。

教育特区を利用した株式会社立「学校」の試行的導入のほか、学校選択制の拡大、中高一貫中等教育学校の拡大、習熟度別学習の促進、大学入学年齢制限の撤廃、民間人校長の任用と校長裁量権の拡大、学校の外部評価の導入と公表、日本版公設民営学校(チャーター・スクール)たるコミュニティ・スクールの導入、これらと対比的に進む「国旗・国家法」の制定と学校現場への指導徹底や、「教育振興基本計画」規定を含む2006年の教育基本法の改正では「戦後教育における国家と個人の関係の見直しを含めて、教育政策における国家の役割が示された」(137-9頁)。

こうした動きすべての渦のなかで、渦に巻き込まれながら、「新学制の出発」(第二章)において「学校の外」に放逐されていた論点が――姿を変えつつ――回帰する。不登校/登校拒否の増大という現象を受けて「学校」の枠組みの「外」にある子どもたちの「居場所」として拡大するオルタナティブ・スクール/フリースクール/フリースペース、その制度化をめざす動き(160-2頁)。「現行の制度では、日本にいる外国籍の子どもが教育を受ける権利は保障されておらず、あくまで日本の学校への通学を希望する場合に『恩恵』として日本人と同様に取り扱」われてきた外国籍の子どもたちの教育保障(162-4頁)。貧困や生活困難を背景にした「脱落型不登校」として可視化された長期欠席児童生徒の存在への対応(164-6頁)。

そこでは、「公教育制度としての学校のあり方自体も問われている」(183頁)。とられる対応策の路線は二つ。ひとつは「内側の取り組み」(164頁)。「居場所としての学校」をケア/福祉の観点から編み直す。スクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーらも組み込んだ「チーム学校」の路線。もうひとつは、「多様な学び」の機会を保障する制度化へと向かう、「多様な教育機会の確保」路線。この路線を先導した動きの背景には、第2期には一体化し自明視されていた「教育」(教育の権利)と「学校」(就学の権利)との結びつきの「相対化」があった。

戦後の学校制度は、子どもたちの教育への権利を保障するものであり、教育の機会均等の重視と、学校の就学機会の確保が、さまざまなかたちで進められた。貧困への対応や就労との関係なども制度的な裏づけをもって積極的に進められたことで、経済的・文化的要因での不登校は減少の一途をたどった。夜間中学校や定時制高校の存在はそれを象徴する。


しかし、1970年代の中盤以降、学校不適応による不登校の子どもが増加に転じる。子どもと学校制度との乖離が進み、子どもの教育の権利を保障することと、学校制度を充実させることが、ストレートには結びつかなくなったといえる。(183頁)

特区制度を利用して不登校の子どもたちのためのフリースクールから生まれた私立中学校の設置も2007年に認可されるなど、公教育自体がその概念を広めている。こうしたオルタナティブの教育の場の展開は、子どもの教育の権利を保障するために、「不就学の権利」という要求を生み出すことになった。一体化していた教育の権利と就学の権利が、相対化されたといえる。(184頁)

もう一段、正確に言うならば、「日本_の_学校」への「就学の権利」と「教育の権利」との――唯一絶対視されてきた――結びつきが相対化されている、ということだ。これまで日本の「公教育」からの排除は、「公=国家/国民」からの排除、と、「教育=学校」からの排除、の二重の契機としてあった。逆に言えば、「学校の外」にあった多様な学びの「公教育」への組み込みは、「公=国家/国民」への回収と「教育=学校」への回収、という二重の回収を意味することになった。その二重の回収を拒絶しつつ、教育の権利を保障する、という課題。

2010年、公立高校授業料無償化・高等学校等就学支援金制度の施行、さらに同年に審議未了なった「外国人学校支援法案」(義務教育段階の外国人学校に対する支援に関する法律案)、そして昨年9月には「多様な教育機会確保法案」(義務教育の段階における普通教育の多様な機会の確保に関する法律案)。

後者が当初「オルタナティブ教育法」という仮称であったことは、「二重の回収」を拒絶しつつ教育の権利の保障をめざした姿勢を象徴する。今年2月の座長試案では「多様な」の文言がすべて削られ(義務教育の段階における普通教育の機会の確保等に関する法律案)、現在に至る。そこに、「学校」ではない《オルタナティブ》な「教育」の制度化、というポテンシャルはすでにない。これもまた、「学校」が「学校の外」を絶えず組み込みつつ「学校」であり続ける長い歴史のひとコマだ、ということもできるだろう。

「多様な」の文言が全削除された法案は、「普通教育の機会の確保」をめざすという。普通教育とはつまり、ユニバーサルな教育、ということだ。


2.「学校制度内教育の機会均等」と「学校制度外教育の機会均等」のパラドックス
労働問題≒貧困問題という近似が自明性を帯びていた高度経済成長以前には、「学校」と「学校の外」にまたがる二元的法制による対応という課題は、「教育と労働」「教育と福祉」という二重の二元制としてあった。社会政策(論)における労働と福祉との一体性の帰結である。

だが高度成長期も1960年代に入ると、社会政策(論)における労働と福祉との一体性は解体、分離を明確にする。それは教育との絡みでは、前者が教育社会学と、後者は社会教育学との近接をもたらすことになった。教育社会学と社会教育学。教育学部あるあるのジョークのようだが、「社会」_のなかの/で_「教育」を考える問題意識の、ふたつの系譜。「勤労青少年」の問題とは、やがて分離していく「教育と労働」と「教育と福祉」の両者にまたがる最後(?)のアジェンダであった。

そこでは「学校」と「学校の外」の二元的法制下での教育機会の保障という課題は、どのように追求され(ようとし)たか。

佐々木輝雄は、戦後まもない1948年2月の教育刷新委員会第13回建議において提起され(かけ)た理念の意義にこだわった。6-3-3-4制の単線型学校体系として結実する戦後学制改革をめぐる議論における、異質なふたつの「教育の機会均等」理念の相克の行方を、佐々木は追う(『佐々木輝雄職業教育論集 第二巻 学校の職業教育―中等教育を中心に―』多摩出版)。

教育刷新委員会第13回建議「労働者に対する社会教育について」の第3項は、「労働者のための技能養成所、見習工教習所、組合学校等の教育施設に対しても、・・・教育の機会均等の趣旨に基づき、高等学校、更に大学へ進みうるために単位制クレジットを与える措置を講ずること」を建議した。すなわち、「学校の外」である技能養成所等での中卒「勤労青少年」の学習に対して高等学校のクレジットを与えることにより、高等学校の「教育の機会均等」を保障するとともに、さらに「大学に進みうる途」をも開こうとするものであった(187頁)。労働の場での技能者養成と学校=教育との連携を制度化しようとする、技能連携制度の構想である。

ただし、これは先の木村の書でも言及箇所のあった、「1961年に実際に現実化した技能連携制度」とは似て非なるものである。13回建議の連携制度化の構想は、「学校の外」にある技能教育訓練の場に対して「教育」機関である/になることを求めない、すなわち機関認定をともなわない単位制クレジットの授与を可能にしようとする制度化案であったという。技能者養成制度と(工業)高等学校それぞれの独立性を維持しながら、「クレジットのパイプによって連結一体化」(223頁)させる構想である。

これは戦後新たに生み出される単線型学校制度によって教育の機会均等を保障しようとする論理とは異なり、鋭く対立することになる。佐々木はこれを、「学校制度内教育の機会均等の追求と、学校制度外教育の機会均等の追求のパラドックス」として定式化する。

彼等[淡路円治郎・関口泰両委員のクレジット・システム導入による技能連携制度の提起]の根拠は、文部省の六・三・三・四学校制度の固持という姿勢が、その意図に反して学校制度下の教育はもとより、それ以外の教育をも空洞化させ、引いては教育全体を沈滞化させるということにあった。


彼等の発言は、技能連携制度化の内在するきわめて重要な問題の所在を鋭く指摘するものであった。その問題とは、「教育の機会均等」の実質的な保障に関する方法論上の対立とも云うべきものである。


その第一の立場は六・三・三・四の単線型学校制度の固持こそが、「教育の機会均等」の実質的保障の近道であり、それ以外の教育を制度的に認めることは単線型学校制度を崩し、引いては新学制下の「教育の機会均等」の理念そのものを否定するという立場である。


かかる見解は・・・学校教育法体制を支える理念であった。


その第二の立場は教育の営みが学校制度外においても存在するという前提に立って、この教育を制度的に保障しないかぎり、「教育の機会均等」は実質的に保障されたことにはならないという立場である。


関口、淡路両委員によれば、かかる教育を制度的に排除する考え方こそ、単線型学校制度下の教育を空洞化させ、「教育の機会均等」を否定するものであると云うのである。(『佐々木輝雄職業教育論集 第二巻 学校の職業教育―中等教育を中心に』多摩出版、223頁)

しかし、この対立の潜勢力は、「論争の終結を意識するあまり、技能連携制度の内在する基本的な課題を、抽象的表現によって糊塗する」妥協により、不発に終わる。

技能連携制度は高等学校制度の内実を規定するものであり、ひいては六・三・三・四学校制度と異質な制度理念を提起するものであった・・・


より具体的に云えば、それは学校制度外の教育を学校制度下のそれと同等と認めることから、必然的に技能連携の制度理念と学校制度のそれとが、如何なる構造を持つべきかを明確化しなければならなかったのである。


しかし、第一三回委員会は意識的にか、あるいは無意識的にかは必ずしも明らかでないが、この問題追及[ママ、以下同様]の姿勢が欠如していたのである。(同前、230-1頁)

「学校ではないけれどもクレジットを与える」の見解と「学校でないものにクレジットを与えるわけに行かない」のそれとの対立・・・・・・(同前、273頁)

以下、さらに長くなるが引用する(引用中の太字は原著傍点)。

第一三回建議の「学校でないけれどもクレジットを与える」、つまり技能連携制度化提案は、学校教育法の体制下において追及された「教育の機会均等」概念あるいは教育制度観とは異質なものを提起している・・・。この異質なものとは何であろうか。この疑問を解明するためには、・・・学校教育法体制下において追及された「教育の機会均等」概念あるいは教育制度観が、いかなるものであったかを吟味し、そしてそれと比較しなければならない。


(中略)


学校教育法体制下の高等学校教育への「教育の機会均等」の内実・・・・・・は、学校制度内教育の機会均等であった。


かかる「教育の機会均等」概念は、教育基本法の「教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。」(第二条)、「家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。」(第七条第一項)と比較する時、極めて限定的な概念であった。しかし、教育基本法は「家庭教育及び勤労の場所その他において行われる教育」、つまり社会教育の普及を、国民の教育機会の拡大の見地から規定したにもかかわらず、しかしこれ等の社会教育を「教育の機会均等」の視座から、学校教育と如何に関連づけるかについては、何等具体的に規定することはなかった。


教刷委第一三回建議の「教育の機会均等」概念、「学校でないけれどもクレジットを与える」の狙いは、まさにこの課題に答えようとするものであった。そこでは、「教育の機会均等」の保障は、学校教育法体制下にみられる、いわば学校制度内教育の機会均等の追及と、教刷委第一三回建議の技能連携制度化案にみられる、いわば学校制度外教育の機会均等の追及のパラドックスによって,はじめて実現するものと捉えられたのである。


(中略)


新学制下の「教育の機会均等」概念は、学校制度内教育の機会均等学校制度外教育の機会均等の二つの相貌を持っていた・・・


教刷委第一三回建議は、かかる「教育の機会均等」概念を提起した結果、その教育制度理論においても学校教育法体制下のそれとは、異質なものを構想する。


教刷委第一三回建議第三項の意図は・・・、「技能者養成所」等での教育に、「単位制クレジットを与える措置を講ずること」によって、これ等学校制度外教育施設で学習する勤労青少年に、「高等学校,更には大学へ進みうる」道を開くことにあった。


同建議はかかる意図を実現するために、これ等教育施設に高等学校の単位制クレジットの授与条件として、これ等教育施設を高等学校に認定すること、換言すれば機関指定を前提としないことを構想した。つまり、そこでは個々の教育行為それ自体の実質が重視され、その教育行為が学校制度下の教育であるか否かは、余り問題視されなかったのである。


かかる教育制度観は、学校教育法体制下において追及された教育制度観と著しい差異を示す。と云うのは、高等学校制度外の「教育の場」を是認し、しかもその教育に高等学校のクレジットを授与することは、教育制度上、高等学校の多様化を図り、いわゆる「袋小路」を作るかのように見えるからである。文部省が第一三回建議に反対したのも、この理由からであった。


しかし、建議の教育制度観によれば、「教育の機会均等」を保障する教育制度とは、個々の具体的な教育行為を取捨[ママ]した、制度的整合制[ママ]を持ったシステムにあるのではなく、個々の教育行為それ自体の実質を重視するシステムでなければならないと捉えられた。従って、同建議が一見多様な制度あるいは「袋小路」を構想しているかのように見えても、それは個々人の教育プロセスでの多様化であり、個々人の教育ゴールでは単一な制度として、止揚されるのである。


この二つの教育制度観の対立は、組織志向による「教育の機会均等」論と、個々の教育行為志向の「教育の機会均等」論の対立とも云うべきであろう。所与の条件の下での「教育の機会均等」の保障が、勿論この対立の中に実現するものであったことは云うまでもない。


しかし、戦後教育制度改革の実施過程はこの対立を発展させるのではなく、学校制度内教育の機会均等あるいは制度的整合性の追求を中核にして展開するのである。そしてその展開過程においては、「教育の機会均等」を保障するために、個々の教育行為を排除あるいは切り捨てるという自己矛盾を犯すのである。


その結果、戦後教育制度改革は高等学校さらには大学進学率の上昇という形で、「教育の機会均等」の保障を実現しながら、しかし他方ではこの教育の大衆化の背後で学校間格差を助長し、学校教育の空洞化を拡大させることになったと云っても過言ではない。(同前、283-5頁)

技能連携制度化構想じたいは、その後、1949年の教育刷新審議会第30回建議「職業教育振興方策について」でもとりあげられるが、そこでは「教育の機会均等の趣旨に基き」の字句は削除され、「主として『実際的の一番いい職業人』の養成の視点から論じられ」ることとなった(同前、355頁)。さらにその後、1961年には、機関指定_を_ともなう_制度として、技能連携制度は実現する。

何が見失われたのだろうか。

佐々木によれば、「学校制度内教育の機会均等」の追求と「学校制度外教育の機会均等」の追求という、相互に矛盾を含んだ理念をそれとして受け止め、具体的な制度として具現化する努力を放棄し、安易に後者を切り捨て、前者の概念だけを追求していった戦後日本の教育が、早晩その「学校教育制度内教育の機会均等」すら放棄することになるのは「簡単なことだ」という(同前、391頁)。

その論の延長上で佐々木は、学校体系の「単線型」が、制度の外見上、「否定」されるようにみえたとしてもそれでよい、とまで言っている――「かく解することは誤解であろう」――ようにみえる(以下、引用の太字は原著傍点)。

文部省当局の意に反する[教刷委第一三回]第三項建議の「教育の機会均等」理念とは、いかなるものであろうか。


文部省の構想する「教育の機会均等」理念を、学校制度内教育の機会均等であるとすれば、第三項建議が構想するそれは学校制度外教育の機会均等ととらえることができよう。


(中略)


しかして、後者の「教育の機会均等」理念は、いかなる論理に基づくものであろうか。・・・


その論理は、教育現実に対する次のような認識を前提としていたのである。すなわち、(一)人間形成という教育的営みが、現実に「学校」以外の教育施設においても行われていること、(二)かかる教育施設での教育を、すべて「学校」によって包括することは、物理的にも不可能であることの認識にあった。


かかる認識によれば、学校制度内教育の機会均等の理念は、敗戦前の日本の学校制度が内在する課題を克服した点において、極めて重要な意義を有しながらも、しかし、かかる理念による「教育の機会均等」の保障は、部分的且つ限定的なものととらえられた。


というのは、その保障が単に理念の段階にとどまらず、所与の条件の下で、一人一人の国民にとって現実的意味をおびるためには、その理念が学校制度外教育までも包括しなければならないと考えたからである。


「教育の機会均等」のかかるとらえ方は、その必然的結果として、文部省が構想した教育制度と異質な教育制度理論を展開することになる。


文部省の学校制度内教育の機会均等理念に基づく制度理論が、・・・個々の学校の制度および教科課程の整合性を重視するのに対し、その制度理論はこれらの整合性を特に重視することはない。


従って、この学校制度外教育の機会均等理念に基づく教育制度理論は、現象的には教育制度にいわゆる「袋小路」を作り、それはあたかも敗戦前の教育制度への回帰を提言しているようにみえる。


しかしかく解することは誤解であろう。


と言うのは、その制度理論によれば、「教育の機会均等」を保障する制度とは、個々の具体的な教育的営みを捨象した、いわば抽象的・非人間的な整合性を持つ制度にあるのではなく,個々の教育的営みそれ自体の実質を保障する制度にあるととらえられたからである。


従って、システム論的には一見多様にみえる教育制度であっても、その制度は個々人の教育プロセスの多様化であり、個々人の教育ゴールでは単一な制度として止揚されるのである。つまり、整合性の追及の主体は、抽象的な制度の側にあるのではなく、個々の具体的な人間の側にあるのである。


所与の条件における「教育の機会均等」の保障とは、まさにかかる具体的な人間の主体的な整合性の追及を可能にする制度によってのみ、初めて可能になると考えられるのである。(『佐々木輝雄職業教育論集 第三巻 職業訓練の課題―成立と意義―』多摩出版、261-3頁)


3.異同および論点メモ
高等学校は義務教育ではない。また、普通教育と職業教育は違う。

オルタナティブ教育は「(近代)学校」への、あるいは「日本の_(近代)学校」への批判ないし「否定」により、そこから《脱する》モメントを明瞭にする。

義務教育ゆえに「単位制クレジット」とはならず、「指導要録上の出席扱い」制度がこれに近似するか。前者に近似すれば、「中卒認定試験」風の議論(≒課程主義的発想)をも呼び込む。

高卒認定試験」の拡充は、す・で・に、事実上「個々人のプロセスの多様化」を可能にし、「個々人の教育ゴールでは単一な制度として止揚される」現実をもたらした、といえるか。

「指導要録上の出席扱い」(現時点で4割強)プラス「義務教育修了でも夜間中学への入学希望(入学希望既卒者)を認める」双方の枠の拡充によっても補償されることのない/されるべきではないもの。

いま・ここで現に毀損されている/されつつあるもの、の保障。その支援。福祉の論理。

「ユニバーサル」であること、その論理を突き詰めることと、「国家=国民」教育の乗り越え? 「公民」「市民」、《マス(中間大衆)》、ユニバーサル/ナショナル/シビル/リージョナル、国家を否定するならそこから「自立」できるだけの「強い社会」を?

などなど

学校の戦後史 (岩波新書)

学校の戦後史 (岩波新書)

佐々木輝雄職業教育論集 (第2巻)

佐々木輝雄職業教育論集 (第2巻)

佐々木輝雄職業教育論集 (第3巻)

佐々木輝雄職業教育論集 (第3巻)

第11回 教育の歴史社会学コロキウム

※追記(2016-08-27)台風10号の接近に伴う天候悪化の予報のため、30日に予定されていたコロキウムは延期となりました。9月下旬に再度日程調整のうえ実施されるとのことです。

※追記(2016-09-02)コロキウムの振り替えは、10月22日(土)13:30〜17:00となります。内容や場所には変更がありません(司会は変更あり)。9月ではなく10月となりましたので、お間違えのないよう。

※追記(2016-09-13)プログラム中の司会の修正を反映しました。

前回は告知失念で関係者のみなさまにはたいへん失礼いたしました教育の歴史社会学コロキウム、第11回は8月30日(火曜日)開催です忘れないうちに。

ここ数回は研究方法の面での議論を意識した登壇者とテーマの配置になっていることが増えている気がいたしますが、今回はまさにそう。「教育の歴史社会学コロキウム」企画委員のおひとりである井上義和さん(帝京大学)による整理(PDF)のなかの言葉を借りれば、第一報告の牧野さんは「言説・社会史研究」系、加藤さんによる第二報告は「移動・選抜研究」系、ということになりましょうか。

今回のコロキウムについては、その井上さんによるML投稿での紹介が簡にして要を得ています。牧野さんは下記プログラム中の参考文献に挙がっている著書ですでに知られていますが、「今回の報告では、ピーター・ドラッカーの受容を中心に、戦後の経営層の教養の変遷についてお話いただきます。大量の文献調査にもとづく丁寧な実証分析には定評がある氏の研究の舞台裏についても伺えればと思います」のこと。

また、加藤さんには、「神戸一中の学籍簿を利用した共同研究に参加した経験を中心にお話いただきます。1980年代の丹波篠山、90年代の鶴岡、そして00年代の神戸。学籍簿のような個票データの利用は、個人情報保護の意識の高まりや持続的な共同研究の難しさもあいまって今後ますます困難になることが予想されます。氏の貴重な経験を参加者と共有できればと思います」とのこと。

正確を期せば、「丹波篠山」の研究には学籍簿等からの個票データセット(の構築とその分析)はありません。それがあったのは「鶴岡」と「神戸」。しかしながら、そのうち著書のかたちにまとまったのは「丹波篠山」だけ。天野郁夫編『学歴主義の社会史―丹波篠山にみる近代教育と生活世界』(有信堂高文社、1991年)。この点は「個人情報保護の意識の高まりや持続的な共同研究の難しさ」といったことを超えて、論ずべきものがあるだろうと――つまり研究内在的な要因があるだろうと――私は考えます。

丹波篠山で思い出しましたが、じつにもう四半世紀も前のこの研究への違和感と批判意識にひたすら衝き動かされて書かれた著書が、労働研究の第一線で活躍してきた著者による書き下ろしで一昨年にでております。野村正實『学歴主義と労働社会―高度成長と自営業の衰退がもたらしたもの』(ミネルヴァ書房、2014年)。著書紹介という意味ではいささか間の抜けたタイミングになってしましたが(その責めの半ば以上は私が負うべきですが)、下記リンク先にて書評(PDF)が公開されておりますので、ご関心の向きはご笑覧ください。これに即してだらだらと書き添えられることはいくらでもありますが、今日のところは。

この書評を書くうえで「丹波篠山」も(さんざん)読み返し、その周辺にある天野郁夫のあれやこれやの仕事も振り返らされっていたところでの今年3月のこれでしたので、私個人にとっては不思議な、そして有意義なタイミングではありました。

私には(世代的/立場的に)加藤さんのものには出席すべき責務がある気がいたしますが気のせいかもしれません。牧野さんの新しい研究テーマにも興味津々です。とてもとても具体的な、直接話すなかでしか伝わらないような研究方法をめぐる悩み(の克服)やコツといったこと(つまり「舞台裏」や「貴重な経験」)について多く語られる会であると思います。貴重な場です。研究の世界に入ったばかりの(こうした研究テーマや研究手法に関心のある)院生さんには、ぜひ参加されることをお勧めします。

例によって、連絡先はもうひとりの「教育の歴史社会学コロキウム」企画委員である佐々木啓子さんとなっておりますが、佐々木さんの連絡先をご存じない方は、まずは私までご一報ください。喜んでおつなぎいたします。

第11回 教育の歴史社会学コロキウム

                 
1.プログラム 
【発表1】 牧野智和氏(大妻女子大学)「治者の教養の変遷―ピーター・ドラッカー論を事例に」
(参考文献)
自己啓発の時代―「自己」の文化社会学的研究』勁草書房、2012年.
『日常に侵入する自己啓発―生き方・手帳術・片づけ』勁草書房、2015年.


司会:岡本智周(筑波大学井上義和(帝京大学


【発表2】 加藤善子氏(信州大学)「都市における学校利用―神戸一中研究からの示唆」
(参考文献)
「近代日本における都市中学校生徒の社会的出自―旧制兵庫県立第一神戸中学校の学籍データによる分析」『信州大学人文社会科学研究』2011年、pp.175‐189。
https://soar-ir.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=15974&item_no=1&page_id=13&block_id=45

司会:堀 健志(上越教育大学)河野誠哉(山梨学院大学


2.日時
2016年8月30日(火)10月22日(土)
 13時30分〜17時00分:研究発表(各90分間、途中、休憩15分間)
 17時00分〜17時15分:茶話会(情報交換会)自由参加
 17時30分〜    :懇親会(食事会)自由参加



3.会場
電気通信大学 東1号館 705会議室


4. 連絡先
教育の歴史社会学コロキウム事務局
電気通信大学 共通教育部 佐々木研究室(東1号館513号室))
E-mail:(略)
*参加される方は前日までに上記にメールまたはFAXでご連絡下さい。
(懇親会への参加についてもご連絡ください(当日でも追加可能)。)


※佐々木研究室の連絡先をご存じない方は、まず本ブログ主の森までご連絡ください。

学歴主義の社会史―丹波篠山にみる近代教育と生活世界

学歴主義の社会史―丹波篠山にみる近代教育と生活世界

自己啓発の時代: 「自己」の文化社会学的探究

自己啓発の時代: 「自己」の文化社会学的探究

日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ

日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ

比較教育社会史研究会 2016年春季例会プログラム

本ブログを開設した当初の目的は(実は)比較教育社会史研究会の開催告知をネット上にだすということでした。その後、「教育の歴史社会学コロキウム」が発足してからはその告知もしております。

が、どうも前回のコロキウムは告知し忘れたようですな。とうとうやってしまいましたか。。。関係者のみなさま、まったく失念しておりました申し訳ございません(^O^)/

まちがえました、こっちです →

こちらは今月、忘れずに。

第1部のジェンダー部会は常設部会となったそうです。第2部は教員養成史。「公」「私」あるいは世俗国家と教会。。。このあたりは前エントリのような問題提起との絡みも含め、つねに重要なテーマであり続けるのでしょう。

開催地は名古屋ですが、これはひさしぶりに出られそうな予感。Zepp Nagoya の近くっすな。

ご関心の向きはぜひ。

比較教育社会史研究会 2016年春季例会プログラム


日時:2016年6月19日(日)
会場:愛知大学名古屋キャンパス 講義棟6階  L601教室
(http://www.aichi-u.ac.jp/sasashima/access.html)


第1部 ジェンダー部会セッション(11:00〜13:30)
司会:北村陽子(愛知工業大学


スピーカー:西崎緑(福岡教育大学
「Lifting As We Climb:Education and Activism of the African American Women in the early twentieth century」


コメンテイタ:倉石一郎(京都大学


第2部 教員養成史の再検討(14:30〜17:00)
司会:岩下誠(青山学院大学


報告者:
加島大輔(愛知大学)「明治期教員養成史の再検討―教師の職業的自覚・教員養成の「公」性「私」性の問題から―(仮)」
前田更子(明治大学)「世紀転換期フランスにおけるカトリック教育の再編と教員養成(仮)」


コメンテイタ:山田浩之(広島大学


懇親会(17:30〜)

根本問題

「話のポイントがずれている。これまで公教育から排除されていた異質な要素を新たに組み込むのだとして、それでもそれが『公教育』であるという、その新たな境界線はどのように引かれるのか。新たに構想されるべき教育の公共性、教育の公共的意義をどのように主張していくことができるのか――それこそがこの法案の提起した最も重要な論点であろうと思うのだが、その点について、何か展望をお持ちであればうかがいたい。」

大略、そのような主旨であったと記憶する。ある小さな法案をめぐって開催された、ある小さな勉強会の席でその質問が発せられたとき、私は思わず息を呑んだ。というのも、それはほとんど「『公教育』とは何なのか」という問いと同義であると思われたからだ。もちろん、というか少なくとも私が思うに、「公教育」とは何かという問いに対しては、歴史規定的な回答しか与えることはできない。だがそれでも、「公教育の歴史的概念規定」という教育(史)学の根本問題は、ひとりの社会学者がその場で回答(らしきもの)を与えるには、あまりに大きな問いに思われた。質問を受けた社会学者がそのあとしばし絶句した姿はしたがって、その者の知的な有能と誠実とを――その逆ではなく――雄弁に物語ったのである。質問を発した側の者と同様に。

その小さな法案、それも、そのままでは議会の審議を通る見通しもつかないような、ほんの取るに足らないものにも見えた法案は、しかし、たしかにそのように大きく歴史的な問いかけを含んでいた。そうであるがゆえに、私たちはその問題提起に真剣に向き合わなければならないだろうと考えたわけだ。

かつて私も少しだけかかわった著書に収録された橋本伸也と岩下誠による論考(橋本伸也「近現代世界における国家・社会・教育」『福祉国家と教育』(昭和堂、2013年、3-76頁)、および、岩下誠「「長い十八世紀のイギリス」における教育をめぐる国家と社会」同上書(79-97頁))を紹介したい。以下、長くなるが引用する。ブログという形式を考慮して、改行は引用者が適宜入れた。太字の部分も引用者によるものである。

教育史学の最重要概念であった「公教育」は、日本の戦後教育学の前提とした「公教育」概念に規定された偏りを有しただけでなく、歴史的実相から乖離して作られてきた抽象性ゆえの曖昧さを露呈している。(橋本 2013、8頁)

国家・社会の変容と関連づけながら教育のあり方を問うことを通じてもう一つ明らかにしておきたいのは、近代「公教育」という概念の妥当性という問題である。


日本の西洋教育史研究の枠組みを構築した梅根悟には『中世ドイツ都市における公教育制度の成立過程』(誠文堂新光社、1957年)という著作があるが、ここでいわれる「公教育」は、中世自治都市のそれであって、むろんのこと近代国家によるそれとしての意味を有さない。


他方、教育学の一般的(教科書的)理解において「公教育」ないし近代学校制度を確立させた歴史的契機は1789年のフランス革命期の教育改革論であり、1794年のプロイセン一般ラント法であり、あるいはイングランド1870年教育法制定や第三共和政期フランスによる教育改革であるが、いずれも世俗国家による教育支配に力点を置いたこれらの把握において、前ニ者と後ニ者との間には一世紀近い時間的隔たりがある。これら複数の「公教育」は、はたしていかなる次元で共約可能(あるいは不可能)な概念なのだろうか、問い直されるべき問題はここにある。(同上、15頁)

「公」ないし「公共性」の概念それ自体が非常に理解し難い概念であるうえに、「国家が「公共性」を独占する事態」の長く続いた日本の精神風土のなかで彫琢された「(近代)公教育」という用語が使われる際の「公」概念がいったい何を指すのかはきわめてわかりにくい。


しばらく前から多方面で論じられてきたユルゲン・ハーバーマスやハンナ・アレントを踏まえた公共性論のいう「公」と、教育史学が語ってきた「公教育」の「公」にはいったいいかなる接点があるのかも重要な論点である。


教育哲学などではこの点が理念的に論じられているとはいえ、歴史的実態に即しつつ教育の「公共性」を論ずる作業はそれほど進んではいない。(同上、15-6頁)

関連して、近代「公教育」の原則としてアプリオリに把握されてきた「世俗・義務・無償」という定式、そのなかでもとりわけ世俗性原則についての従来の扱いには重大な瑕疵があるといわなければならない。


この定式は、第三共和政期のフランスで確立されたものであるが、後述する通り、ここには19世紀を通じてフランスで闘われた「十字架と三色旗」の対立に起因する特殊フランス的な性格が刻印されていて、だからこそ今にいたるもイスラーム教徒のスカーフ問題に典型的に現れた宗教との緊張をもたらしているが、これを近代教育の一般原則と見なすことには無理がある


実際、イギリスの場合は、1944年教育法で宗教教育の義務化がはかられており、宗教的寛容を前提としつつ学校内で宗教教育を実施する例は多々見られるのである。むろん、近代を通じて宗教的寛容の広がりや国家と教会との分離、人びとの意識や規範における脱宗教化という意味での「世俗化」、さらに教会監督下にあった学校行政の世俗国家による掌握という意味での「教育の世俗化」といった歴史的過程のあったことを見逃すことはできないが、世俗性を「近代公教育のメルクマール」とし、それを基準に「公教育」を提示することは、歴史的実相を見誤らせるものだといわなければならない。


ヨーロッパに即して見た場合、国家と教会、社会が学校と教育をめぐって取り結んでいた関係構造の解明こそが必要な課題なのである。(同上、16頁)

この橋本による提議に対する岩下の応答より。

福祉国家」と「公教育」という二つの概念は、現在のわれわれにはきわめて親和的なものに見える。しかし、伝統的な教育史学史においては、必ずしもそうではなかった。


1950年代から60年代の革新的教育学にとって、福祉国家は部分的に労働者階級の諸要求に譲歩しつつも搾取と抑圧の構造を温存させた資本主義体制にほかならず、そこで組織される学校教育制度もまた、階級支配と搾取を隠蔽する大衆強化の装置にすぎなかった。


したがって、福祉国家下における「公教育」の内実は国家的公共性、換言するならば偽装された公共性として把握された彼らが公費支出をはじめとした国家による公教育概念と対抗するため、市民社会的な系譜において公教育概念を提唱したのはこのような時代的文脈においてであった


「世俗・義務・無償」といった伝統的教育史学における公教育のメルクマールも、教育の公共性を社会編成のあり方からではなく基本的人権としての学習権の保障という観点から定義しようとする思潮を具体化したものと見てよい。(岩下 2013、79-80頁)

マルクス主義市民社会論を折衷させた戦後教育学的な公教育理解は、70年代後半以降に退潮する。80年代から90年代にかけては、国民国家論、社会的再生産論、規律化論といった社会理論が導入され、それまでの戦後教育学の枠組みが批判されると同時に、歴史学者による教育史研究領域への参入が進むことによって、教育の持つ多元的な社会的機能が研究の焦点となった。


こうした諸研究は教育史研究の水準を引き上げると同時に、歴史学研究としても豊かな知見をもたらしたが、ここではその問題には触れない。ここでの議論のポイントは、教育の社会的機能の解明に比して、公教育の歴史的概念規定という作業が教育史研究の後景に退いたのではないか、ということである。


多くの場合、公教育は(福祉)国家制度と等値され、その官僚主義的閉鎖性や抑圧性が批判されることはあっても、かつてのように対抗的な公教育像が提唱されることは稀であった。90年代の教育改革において、新自由主義的な要素は文部省による限定と統制の枠内に収まるものであったため、この時代の教育史研究は、いまだ福祉国家批判と公教育批判という枠組みのなかで自らの政治的革新性を装うことができたともいえる。(同上、80頁)

しかし、2000年代のラディカルな改革を経験した現在では、状況は大きく異なっている。


第一に、福祉国家と教育の関係が再審されている。現在生じているのが福祉国家の退潮なのか、それとも再編なのかは慎重な検討を要するが、もっとも新自由主義的な政治体制下でも公費支出に基づく教育政策が促進されたり(ワークフェア)、公教育を通じた公共心の涵養が大きな政策課題となっている(教育基本法改正やシティズンシップ教育)。


第二に、教育供給主体に関しても、現在進行している事態は供給主体を単純に私的エージェントに還元しようとする動きではない。「小さな政府」を志向する潮流のなかにも、分権・参加を新たな教育の公共性として推進しようとする参加民主主義的要素が含まれている。「新しい公共」論に見られるように、新しいタイプの学校制度提唱論も、学校運営主体の属性にかかわらず公的な性格を持つことを強調し、それを自らの正統性の根拠としている。(同上、81頁)

つまり、現在生じているのは単純な私事化(プライヴァタイゼーション)の過程ではない。それは、福祉国家再編の過程にあって、さまざまな社会集団が自らの正統性を「教育の公共性」として提示することで、教育という領域が、複数の公共性が葛藤する場として浮上しているという事態である。


福祉国家と公教育がともに解体しつつあるという現状認識が正しくないとするならば、翻って福祉国家の形成と公教育の整備をともに介入主義的抑圧装置の展開とする歴史像も見直しが迫られることになろう。


橋本が「公教育の歴史的概念規定」という伝統的な教育学的課題をあらためて提示しているのは、それが歴史学的な課題のみならず、福祉国家再編の動きに対応した新たな対抗的公教育概念を提出することが必要であるという同時代的な洞察に基づいているように思われる。(同上、81頁)

国際的・歴史的にきわめて広い射程をもたらす視角と、特殊「戦後日本」的な文脈に焦点化する観点とが交錯するテクストであるが、たとえばかつて「私事の組織化」としてオルタナティヴな公教育像を提示しようと試みた模索などが、ここでは想起されていよう。

オルタナティヴ》――日本の直面する困難とは、教会と(世俗)国家とのあいだの「公教育」をめぐる苛烈な綱引きともいうべき歴史的経験をもたない社会において、《オルタナティヴ》な《公教育》の居場所を見出すことの困難であると言えるのかもしれない。あるいは、こう言い換えてもよい――国家的な「公教育」の立ち上がりにおいて捨て去った《もうひとつ他にありえた公教育》という原初的記憶をもちえない社会における困難だと。

あの質問のあとに流れたしばしの沈黙の時間には、少なく見積もってもこれだけの問題が厚く堆積していたのである。その歴史の重みに鑑みて、決して容易な問いでないのは明らかだ。

だがそれでもなお、そこに展望を見出そうとするならば、30年にわたって《オルタナティヴ》の模索を継続してきた運動家であり実践家でもある者が会の最後に語った、“教育における複数の《公》の――「対抗」ではなく――併存・共存”という構想のなかに、ひとつの可能性が宿るのかもしれない、とも漠然と感じた。

同時に、これをなにか日本の教育の「破滅」や「衰退」に通じる道だなどと考えるのではなく、そうではなく、《公教育》の《オルタナティヴ》をここまで問える程度にはわれわれの社会は成熟したのである、と、そうとらえたいと念じていた。

【恵投御礼】『子どもと貧困の戦後史』

連休の谷間の昨日、大学に出向いたところ、すばらしい共著の本が2冊、レターボックスに届いておりました。

1冊目は、相澤真一・土屋敦・小山裕・開田奈穂美・元森絵里子『子どもと貧困の戦後史』(青弓社、2016年)。目次等はこちら

著者のみなさまよりお送りいただきました。ありがとうございます。

東京大学社会科学研究所に調査原票が保存されていた2つの社会調査、いわゆる「貧困層の形成(静岡)調査」(1952年、労働科学研究所実施「被保護世帯についての生活調査」)と、「『ボーダーライン層』調査」(1961年、神奈川県民生部実施「神奈川県における民生基礎調査」)の復元作業とそのデータ分析に立脚した、計量歴史社会学/計量社会史の試みです。現在の「子どもの貧困」問題の構造的理解に寄与しうる戦後史像の描出がめざされています。

「子ども」と「貧困」は戦後直後には密接な結び付きのもとで可視化されていましたが、やがて不可視になり、21世紀に入った今ふたたびクローズアップされています。本書の分析の視点は、「子ども」が貧困からの脱出を助ける「エンジン」とも、貧困にとどまらせてしまう「重荷」ともなりうる両義性へと焦点化されます(序章)。

全168頁と小さな本ですが、今後の計量社会史研究にとって重要な里程標となるでしょう。特筆すべきは、その「方法」です。

。。。と、ここまで書いてきて、これはこのままいくと本格的な書評になってしまいそうなので、もうやめます。

ただ一点だけ、本書が2つの社会調査データの復元作業に立脚しつつ、その計量分析の結果を、他の公開データやマクロ統計、さらには新聞記事・教育社会学の教科書・中学校の生徒会誌などの文書資料との相互参照のもとに慎重に位置づけながら、戦後日本社会像を描き出そうとしている姿勢は、やはりここで特筆しておきたいと思います。

計量的な二次分析を主たる内容とする章(1章・3章・4章)のあいだに、新聞記事を素材とした2章と、教育社会学の教科書・中学校の生徒会誌を分析対象にした5章がきわめて効果的に、有機的な関連性のもとに配置されています。それも重要であるのはもちろんなのですが、それだけではありません。

1章、3章は「貧困層の形成(静岡)調査」の分析、4章は「ボーダーライン層」調査の分析をそれぞれメインとしていますが、そのうち1章は静岡調査の調査票のなかにある自由記述の質的データと2005年SSM調査データの分析結果も併記しながら、また、3章は、文部省「公立小学校・中学校長期欠席児童生徒調査」への参照のもとにデータ分析の結果を位置づけながら、論述がなされていきます。当たり前の話にしかみえないかもしれませんが、このことの重要性は強調されてよいことです。

社会調査の原票の復元作業とその二次分析にもとづく計量社会史研究は、このように行なわれなければなりません。

小山裕さんの章の最後の部分から引用します。

本章で折りに触れて指摘してきたように、特定のカテゴリーを使って、原理的には一つ一つ異なるはずの出来事を分類していくという調査実践は、調査の設計者や実施者の意図や意識に規定されていて、それが結果にも影響を及ぼしていく可能性は否定できない。それでもほかのデータや歴史的事実と突き合わせて批判的に検討していくことで、表面上の字面や数字の背後に厳然と存在する歴史的現実に接近することができるはずだ。(99頁)

まさに。恐縮なことに拙論まで参照してくださり、わが意を得たり。

「社会調査の原票の復元作業とその二次分析にもとづく計量社会史研究」はここまできた――全168頁からなる本書は、あきらかにそのメルクマールとなる労作だといえるでしょう。

子どもと貧困の戦後史 (青弓社ライブラリー)

子どもと貧困の戦後史 (青弓社ライブラリー)