座談会「「学び」は共通言語化できるか」@ひとなる書房『現代と保育』90号(特集・保育の現場で「学び」を考える)

おまっとさんでした (キンキン

こちらで予告(ほのめかし)しておりました座談会の模様を収録した雑誌が無事刊行されたようです。

保育・福祉の専門出版社、ひとなる書房 さんから季刊ででている『現代と保育』 の90号、特集は「保育の現場で「学び」を考える」、その巻頭に置かれた座談会「「学び」は共通言語化できるか――その困難と可能性を考える」 に 「社会学者」代表という名目で参加しております先に全社会学者にお詫びしておきたいと思いますたいへん申し訳ございませんごめんなさい。

出版社のホームページに目次がアップされました(2014/11/29追記)。

特集の巻頭言はこちら。

保育の新制度や保幼小接続にかかわるさまざまな取り組みを契機に、保育の場にも「教育」や「学び」という言葉がしばしば登場するようになってきました。それは、これまで保育者が語ってきた「学び」や、日々実践していることと、何か違うものなのでしょうか。保育の歴史が培ってきた文化や多様性をふまえつつ、目の前の子どもたちが置かれている現実にも思いをはせ、いま改めて乳幼児の「学び」と保育の実践について考え合い、保育の場から、語り直してみたいと思います。

本格始動を直前にした子ども・子育て新制度や、国際的な潮流としての就学前教育への注目、その無償化・義務化なども話題にのぼるなか、これまでの「教育」と「保育」の棲み分けや、それらを支えてきた法的・財政的基盤に一定の再編や変動がもたらされるだろうことへの実践現場レベルでの予感と関心が、特集の背景にはあるかと推察します。

座談会の扉に置かれた言葉はこちら。

「学び」という言葉は、保育者同士でも、乳幼児期と学齢期以降、実践者と保護者と研究者、学問領域の違いによっても、込める意味合いやイメージする実践にかなり幅があるようです。でも、「学び」は互いの違いを際立たせる言葉でもあると同時に、その違いも出し合い議論を深めていけば、ともに保育を考え合っていくときの大事なキーワードにもなり得るかもしれない。その可能性に向けて一歩踏み出そうと、今回は、各フィールドから5人の方に集まっていただき、領域横断的な対話を試みました。

司会には発達心理学から川田学さん。川田さんは同誌に「発達心理学的自由論」を連載中でもあります。実践家からは、まず幼稚園に勤務の佐藤寛子さん。佐藤さんは愛育養護学校や公立保育所での実践経験もおありです。保育園からは下田浩太郎さん。下田さんは全国幼年教育研究協議会の集団づくり部会に所属して実践研究をされています。研究者からは他に、教育学(幼児教育、教育史)から高田文子さん(「高」は「はしご」のほうです)、そして社会学から不肖・私と。

以下、座談会の構成。

(1)保育と学校教育

  • 「幼児教育に小1内容」!?
  • 社会に入っていくことと言語教育
  • 卓越主義の中の「学び」

(2)生き残ってきた「学び」という言葉

  • 明治以来の二つの潮流
  • 学力論争の中で
  • 学問の世界で起きた大転換
  • 新しく提起された「学び」とは
  • 子どもをよく見ることと「学び」
  • 上から下りてくる言葉に対抗する
  • 学校の中に「ゆるさ」を組み込む
  • 現場では「学び」という言葉をどう使っているか
  • 「ゆるさ」の根っこにある「かたくなさ」

(3)「すべての子ども」に保障したいコミュニケーションの形

  • 受容される経験を剥奪する社会
  • 「学び」の土台としての「聴き合う関係」
  • 子どもの思いを尊重するとは
  • 追いかけながら待つ
  • 子どもは一人で育っているわけじゃない

(4)実践の変わり目としての今

  • 外に通じない保育独特の言葉
  • 今、自分たちの言葉を再構成するとき
  • 多様な現場を多様なまますくいとって議論する
  • 次なる対話に向けて

座談会を終えて、ということで司会の川田さんによる「「学び」を遠ざけることなく、しかしよく観察せよ」という論考も付されています。

50頁におよぶ内容は実際にお読みいただくことにして、私は(1)の「社会に入っていくことと言語教育」での登場後、(2)の「学問の世界で起きた大転換」「新しく提起された「学び」とは」「上から下りてくる言葉に対抗する」「学校の中に「ゆるさ」を組み込む」、(3)の「受容される経験を剥奪する社会」、さらに(4)の「多様な現場を多様なまますくいとって議論する」あたりで長々としゃべっております。なんなりとご批判をお寄せください。

『現代と保育」誌にとっても一つの画期となりうる企画でしょうか。参加者はそれぞれ活動の領域も違い、同誌のオピニオンリーダーの先生方とはかなり世代も隔てた構成のようです。おそらく、保育の世界において「学び」を語ることが帯びる強烈な磁場、それ自体を一度対象化してみたい、という背景が私のような門外漢にもお声がかかった理由の一端かと邪推します。

そういうことですので、ご意見ご批判は積極的に編集部さんまでお届けください。そのための企画だろうと思います。

それにしても、「なぜ私などにお声がかかるのでしょうか?」との私の問いに、「社会学の人はぜったい必要だと思ったんです。。。ただし、実践の話にちゃんと付き合ってくれる人」、とは某氏の言。私としては、一日もはやくこのような議論の場には、実践学ことエスノメソドロジーの専門家が参加するのがふつうの光景になる日がくればよいなと日夜祈念いたしております。

「付き合ってくれる」というのは言い得て妙かもしれません。教育・保育の「実践」を語ろうとするときつねにいくばくか身にまとうことになる「教育・保育さん」色を厭わない、ぐらいのニュアンスでしょうか。たしかに「社会学者」はあんまり付き合ってくれそうな気配がしません。「逆張り」するのが吉、ぐらいに思っていそうです(偏見です)。私はそういうのがんがん身にまとって平気なタイプですので、また機会さえいただければいつでも顔出します。

さて、出版社のホームページにはまだアップされてないみたいですので下記に目次を。

同じ特集には浅井幸子さんの論考も。たぶん同じ時期に同じ学部・大学院に在籍していてゼミとかでも何度かご一緒したように記憶していますが違っていたらごめんなさい。そしてなんとなくはずい。浅井さんによれば保育の世界に「学び」という言葉が入ってくるのは今が最初ではありません。1960年代(正確には50年代後半か?)から70年代がそうであったと。当時の保育者がそこで何をどのように考えていたかを歴史的に追尾する論考。座談会の議論と合わせ鏡にして読むのがよいかと。歴史はつねに今を考えるよすが。

じつはこの雑誌、私もお話をいただいてからまとめ読みして知ったのですが、なにげに中西新太郎さんが映画のコラムの連載をずっと続けてらっしゃいます。ええ、あの横市大の中西さんですね。

個人的には小西祐馬さんによる新連載「貧困と保育」が、「乳幼児期の貧困」「保育所・幼稚園を利用する家族の貧困」を具体的に把握し明らかにしていくということで、こちらも注目です。

そして、「保育者にすすめたいとっておきの本」にまさかの苅谷剛彦、『知的複眼思考法』。

そんなわけで、一頁も無駄なく高品質の雑誌ですのでお手にとっていただければ幸いです。

■特集 保育の場で「学び」を考える

  • 座談会「学び」は共通言語化できるか――その困難と可能性を考える 川田学(司会、北海道大学)・佐藤寛子お茶の水女子大学附属幼稚園)・下田浩太郎(東京・ひらお保育園)・高田文子(白梅学園大学)・森直人(筑波大学
  • 座談会を終えて「学び」を遠ざけることなく、しかしよく観察せよ 川田学(北海道大学
  • 現場の模索――いま大きくなるってこういうこと――保護者と“乳幼児期に大切にしたいこと”を共有するために 中村真理(愛知・第一そだち保育園)
  • 現場の模索――歴史1960年代の保育実践記録を読む――保育における「学び」の模索 浅井幸子(東京大学

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  • 新連載 貧困と保育(1)乳幼児期の貧困問題とは 小西祐馬(長崎大学
  • 食にかかわる人がつづるわたしの食べ物語(2)ワイワイガヤガヤ要町あさやけ子ども食堂のにぎやかな食卓 トミヤマ チハル(要町あさやけ子ども食堂元料理長
  • 連載 発達心理学的自由論(10)保育の環境とそのアレンジ 川田学(北海道大学
  • 連載 実践研究(11)二つの時間軸から保育を見直す 松本博雄(香川大学
  • 連載 みんなが気持ちいい保育園(21)真夏の鯉のぼり 長谷川佳代子(熊谷市NPO法人親子でつくる子育ての会わらしべの里)
  • 連載 保育一元化への道 戦後保育・幼児教育法制を誕生させた人々(11)児童保護法案から児童福祉法案へ、そして児童局の誕生へ 加藤繁美(山梨大学
  • ずいそう親子で学ぶ憲法講座 安川誠二(新聞記者・編集者)
  • 保育者にすすめたいとっておきの本(30)『知的複眼思考法』 木下孝司(神戸大学
  • 子どもとあそぶえほん(23)ウソってついちゃいけないの? 磯崎園子(絵本ナビ編集長)
  • 新・たまには映画でも(23)海炭市叙景 中西新太郎横浜市立大学名誉教授)