野中広務の「教育の歴史社会学」的スケッチ,その2

魚住昭野中広務 差別と権力』(講談社文庫)である.ある意味,野中氏が今あるような文脈で「解読」される欲望の対象となることを決定づけたノンフィクション作品.もちろん,その延長上にここ数日の本ブログでの「筆遊び」もあるわけだが.本書のもととなった雑誌連載時には野中氏の家族の心労も極度に達したという.

 彼はうっすらと涙をにじませた目で私を睨みつけながら言った。
「君がこれを書いたことで、私の家族がどれほど辛い思いをしているか知っているのか。そうなることが分かっていて、書いたのか」
 私は答えなかった。返す言葉が見つからなかったからだ。どんな理屈をつけようと、彼の家族に心理的ダメージを与えたことに変わりはない。
 野中は何度も同じことを私に聞いた。私は苦し紛れに言った。
「ご家族には本当に申し訳ないと思っています。誠心誠意書いたつもりですが……これは私の業なんです」(390頁)

さて,「業」とまで言い切って魚住氏が明らかにしたかったこととは,

政敵たちを震え上がらせる恐ろしさと、弱者への限りなく優しい眼差し。
いったい野中の本当の姿はどちらなのだろうか。(13-14頁)

という問いらしい.

もし本当にこれが本書を書かせた動機のすべてなら,私にはその答えはすでに野中氏の自伝『老兵は死なず』(文春文庫)に尽きていると思われる.「政敵たちを震え上がらせる恐ろしさ」とは,要するに「政界の狙撃手」とまでたとえられた彼の情報収集力の高さ,とくに政敵の弱みを握ること,それを容赦なく利用した議会での追及,政局への活用,ということだ.しかし魚住氏にとって不可解だった(らしい)野中氏の二面性とは,私の目には,自分がやられてきたように相手に対してもやる,という同じコインの裏表でしかない,ただそれだけのことのように映る.

自分の身辺を調べつくされ,あるときは貶められ,裏切られ...しかしまたあるときは,そうして傷ついた心を慰められ,癒され,勇気を与えられもしてきた半生.『老兵は死なず』の第16章,末尾の言葉,「私の苦しみも、その苦しみを癒した人の愛も」(398-399頁).ここにすでに,それもかなりはっきりと,答えが書かれてあるのでは?

とはいえ,本書前半部をなす彼の政治家としての出立にいたる叙述はやはり情報量に富み,自伝からでは十分輪郭がつかめない像がかなり焦点を切り結ぶ.

自伝『老兵は死なず』では,

私の家は恵まれた家だったと思う。家は四反あまりの田んぼを有する自作農であり、私は町の公立幼稚園に通わせてもらったが、定員は五十人だけの幼稚園だったから、幼稚園に通っていたのは当時園部町内でも珍しかった。(『老兵は死なず』(文庫版)375頁)

と語られる部分.出身階層の問題.魚住『差別と権力』では次のように描かれる.長くなるがそのまま引用する.

野中広務は・・・一九二五年(大正十四年)十月二十日、大村で農業を営む北郎・のぶ夫妻の長男として生まれた。
このころの大村は地主の過酷な収奪に泣く小作人の村である。江戸時代に藩の給金をもらって生計を立てる「役人村」だっただけに自前の土地をほとんど持たず、地主の田んぼを借りて米を作るほかなかったらしい。
・・・・・・五十戸ほどの農家のうち自作農はわずか二、三戸。あとはすべて小作農で、地主に納める「年貢」が一反あたり約二石の収穫高のうち一石六斗を占めた。残った四斗からさらに肥料代などを支払うと、ほとんどワラしか残らない。このため女たちは草鞋を作って町で売り、男たちは近隣の土木・建築作業や山仕事に出て日銭を稼がなければならなかった。
しかし広務の家は四反前後の田んぼを持つ、村では例外的な自作農だった。そのうえ北郎は当時園部町にあった郡役所で給仕としても働いていたから、他の村人に比べれば恵まれた境遇にあったと言っていい。(30-31頁)

私が卒業論文のときに入ったフィールドは東京都内の地区だったため,近畿地方のそれについて具体的な感触をもつわけではない.したがって「役人村」のリアリティというのは正直よくわからない.

ただはっきりしているのは,ウエイトを置くべきは「恵まれた」ではなく,むしろ「他の村人(=大村の隣人)に比べれば」の部分である,ということである.魚住著『差別と権力』にある↑のような叙述をもとに「野中氏は恵まれた境遇だった」という前提で話をすすめる人がまま見受けられるが,常識的にいえば「四反」で「恵まれていた」はないだろう.

また「郡役所で給仕」の箇所も,野中氏本人の自伝では,

父親は、戦災孤児を収容する府立園部学園の職員だったときに・・・・・・方面委員(現在の保護司)を務めたこともあった。(『老兵』375頁)

などとあるため(「職員」という言葉の意味の戦前/戦後の断層),前述の「恵まれていた」感を補強してしまうのかもしれないが,以下のような『差別と権力』の他の記述と照らし合わせると,このあたりの歴史的肌触りも伝わるだろうか.

 このころ[広務が中学に通っていた頃]父親の北郎は京都府の園部土木工営所の雇員として働いていた。・・・(中略)・・・
北郎は仕事の一方で元受刑者の更生や朝鮮人の生活救済にも力を尽くしている。広務の子守に雇ったのは「前科八犯」のオワキ婆さんだった。(38頁)
(中略)
 二人の弟と三人の妹の子守として家に住み込んだのは朝鮮人の娘たちだ。戦時中、園部町周辺にはマンガン鉱山が多数あり、大勢の朝鮮人が坑内作業員として酷使されていた。彼らの困窮ぶりを見かねて、その娘たちを預かったのである。
戦後、北郎は孤児たちの世話にかかり切りになった。城跡の丘の上に戦災孤児らを収容する府立園部学園が開設され、その用務員になったからだ。(39頁)

農業収入だけではやっていけない,というか,子ども達に十分な教育を与えることができない.だから,「雇員」「給仕」「用務員」といった雑用をこなす非熟練/半熟練労働(そのなかには雇用形態が非正規のものも多く含むことが推測される)を掛け持ちしていたと考えるのが妥当ではないか.ひらたくいえば,昔の農業兼業のワープア

もっとも,それでも「土木・建築作業の日雇い」と「役所や土木工営所の雇員・用務員」との日銭収入のあいだの「格差」を重視する,という立場はありうる.だが,そこにあるのは貧困層「内部」の断層線というべきだろう.多就業によって日銭をかき集めて生活するライフスタイルという点では共通でありつつ,それでも高額の小作料に泣く必要がなく,かつ,「雇員」で雇用されるだけの信用を得ていたが故に,「他の大村の隣人と比して」恵まれていた境遇――長男に旧制中学進学を可能とした――だったというべき.

念のため申し添えれば,このように「かき集められた」多就業収入によってすら,野中家は「広務」以下の弟妹には十分な教育を与えてやることができなかった.『差別と権力』から広務の実弟・野中一二三(元園部町長)の言,

「兄貴は長男で、郡長さんに名前をつけてもらった子ということで家で一番大事にされてましたが、私は農業を継がさんと大変だということで幼稚園にも中学にも行かさんと家で徹底的に使い切られた。それはもう、ひどすぎると思うぐらいの格差をつけられた」(42頁)

園部町があった船井郡の郡長が「広務」の名づけ親である.ここが私にはよくわからなかったのだが,魚住氏はこれを大正初期の内務省主導による「融和運動」の象徴として範を示し,運動を一層進展させようと考えた佐藤厳治郡長の取り計らいであるとの見解を示している(『差別と権力』31-32頁).

推論としては説得力がある.が,確証があるわけではないし,のちの政治家・野中広務の方向性をこの「融和への道」になぞらえて評価するような叙述(「後に広務はその融和運動の系譜を引く地方政治家として中央政界へのはるかな道を歩みだることになる」(同上33頁))など,好きか嫌いかでいえば(←いうなよ),あんまり好きにはなれない.うがちすぎ,というものだ.

けれども,以下の叙述はさもありなん,という感深し.

郡長が名づけ親になるのは異例中の異例のことだ。それだけに野中夫婦の喜びようは尋常ではなかったようだ。この後、野中家には5人の弟妹が生まれるが、夫妻は広務を一家の跡取りであると同時に「郡長さんに名前をつけてもらった特別な子」として育て、彼の教育に乏しい収入を注ぎ込むことになる。(31頁)

地元一番の名士,佐藤厳治は「世の中に広く務める人間になれ」という意味を込めて命名したらしい(同上31頁).よい名前だと思うし,名に恥じない人物に育ったものだとも思う.

「彼の教育に乏しい収入を注ぎ込む」という表現が適切.イメージとしてしっくりくる.

さて,以上のエピソードからもいくつか「教育の歴史社会学」的な論点が示唆される.たとえば,「農家の長男/二三男」問題や,旧制中学進学にみる経済的淘汰の実態,学業的選抜・淘汰の実態,もう少し突っ込んで家族の教育文化・教育戦略のありよう,さらにいえば,戦前−戦後の日本社会にとって旧制中等教育が果たした社会的機能,などといったテーマ(最後の点など「教育の職業的意義」とかなんとか,興味あるならこの問題).

これらの点については,少し専門的な議論も交えつつ素描してみたいところなので,日を改めて,また.今日のところはこれまで.

追記:
どっかこのネタで書かせてくれませんかね.なんか結構重要な話につながってくる気がしてきた今日この頃.


野中広務 差別と権力 (講談社文庫)

野中広務 差別と権力 (講談社文庫)