(告知その1)比較教育社会史研究会2017年春季例会

年度末、いろんな業界でご多忙なことと拝察しますが、日本の場合、研究業界も例にもれず、3月の週末はさまざまな研究会、講演会、シンポジウムその他の企画が重なります。ということで日程の差し迫ったものもあって恐縮ですが、身のまわり、案内の届いたものからいくつかご紹介。

まずは比較教育社会史研究会から2017年春季例会プログラムのお知らせです。

当研究会立ち上げから主要メンバーのおひとりとしてかかわってこられ、昭和堂から刊行されている『叢書・比較教育社会史』では『国家・共同体・教師の戦略――教師の比較社会史』(松塚俊三・安原義仁編、昭和堂、2006年)や『識字と読書――リテラシーの比較社会史』(松塚俊三・八鍬友広編、昭和堂、2010年)で編者としても牽引役になってこられた松塚俊三先生の定年ご退職、ということでしょうか、これまでの研究生活を振り返る講演が予定されています。

それに先立つ第1部では「犯罪者のリテラシー」というセッションが企画されています。19世紀イギリスの犯罪者のリテラシーについて、報告者のお二方が「同一の史料」から「異なる議論」を展開される、とのこと。

ほう。

たいへん興味深い。まったく別の研究会で「史料データセッション研究会」なる――ML登録だけさせてもらっていて未出席ですごめんなさいごめんなさい――議論の場も身のまわりにありますが、発想としては同系列の試みでしょうか。これまでの比較教育社会史研究会にはなかった企画ではないかと思います。内容もさることながら、史料論としても刺激的な議論が期待されます。コメンテイタも「犯罪・警察史」と「リテラシー史」の両観点から充実のラインナップ。

ご関心の向きは、ぜひ。

比較教育社会史研究会2017年春季例会


日時:2017年3月27日(月)
会場:大阪大学 豊中キャンパス 法経研究棟7階大会議室


第1部 「犯罪者のリテラシー」セッション(12:30〜14:30)
司会:岩下誠(青山学院大学
報告者:
山本千映「産業革命期イギリスの識字率―スタッフォードシャーの事例―」
三時眞貴子「19世紀前半イギリスにおける犯罪少年のリテラシー
コメンテイタ:林田敏子(摂南大学)、八鍬友広(東北大学


第2部 講演(15:00〜18:00)
司会:三時眞貴子(広島大学
スピーカー:松塚俊三(福岡大学)「研究を振り返って」
コメンテイタ:金澤周作(京都大学)、岩下誠(青山学院大学


懇親会(18:45〜)

国家・共同体・教師の戦略―教師の比較社会史 (叢書・比較教育社会史)

国家・共同体・教師の戦略―教師の比較社会史 (叢書・比較教育社会史)

識字と読書―リテラシーの比較社会史 (叢書・比較教育社会史)

識字と読書―リテラシーの比較社会史 (叢書・比較教育社会史)

(告知その2)「エゴ・ドキュメント/パーソナル・ナラティヴをめぐる歴史学と社会学の対話」

さて、その比較教育社会史研究会経由でまわってきたシンポジウムのお知らせ。

3月11日(土)に上智大学四谷キャンパスにおいて、オーラル・ヒストリーにかんする歴史学社会学の学際的シンポジウムが「エゴ・ドキュメント/パーソナル・ナラティヴをめぐる歴史学と社会学の対話」と題して開催されます。

日本オーラル・ヒストリー学会主催とありますが、比較教育社会史研究会と深いかかわりのある大門正克さん(横浜国立大学)と長谷川貴彦さん(北海道大学)が、それぞれ司会と報告者としてご登壇、ということで案内が届いたようです。

一方で、もうひとりの報告者には社会学から、移民・エスニシティ研究がご専門で新進超絶気鋭の社会学者・朴沙羅さん(神戸大学)、討論者には同じく社会学から(数年前には私と同じ職場で働く間柄でもあった)好井裕明さん(日本大学)が登壇されます。朴沙羅さんには多くの優れた研究業績がありますが、ここではアレッサンドロ・ポルテッリ『オーラルヒストリーとは何か』(水声社、2016年)の翻訳を挙げるに留めておきます。

このシンポジウムがあること自体は、後者の社会学界隈ネット経由ですでに知っておりましたが、上記のような縁で比較教育社会史研究会経由でも私のところにお知らせメールが舞い込みました。

これは私にとってたいへん印象深い出来事です。

というのも、このブログで比較教育社会史研究会の例会の告知を続けてきてもうそろそろ10年近く――前にも書いたかもしれませんが、私がブログを始めたのはこの研究会の告知をだすというのが初発の動機です――、その営みが「社会学業界」ネットワーク経由の情報とクロスしたのは、じつにこれが「初めて」の経験だからです。これまでこの研究会と「教育」社会学とがコラボないしクロスすることはきわめてしばしばありましたが、「教育」のつかない「社会学」がその位置にくるのは私の記憶では初めてのことです。

考えてみれば、叢書所収の論文のなかには――たとえば『識字と読書』所収の酒井順子「口述文化と文字世界――シティ・オヴ・ロンドンに見られた労働文化の伝達」のように――ふつうに社会学/人類学系オーラルヒストリー/ライフヒストリーの論考はあるわけです。ここで多くは論じませんが――厳密に論じきるだけの力量が私にありません――、日本_の_社会学における口述生活史/オーラルヒストリー/ライフヒストリー/ライフストーリー、、、等々の語が指し示す圏域を支配していた磁場の極点が移行しつつあることの反映なのかしらん、という気がしないでもありません。気のせいだとも言えますが。

たとえばこれがもっぱら「対話的構築主義」の範域内に生じた問題意識であったなら、そのシンポジウムの知らせが比較教育社会史研究会を経由して私のもとに届いてくる、といったことの生じる余地はなかっただろうと思います。だからどっちがいいとか悪いとかの話をしているのではなく、ただ「クロスしなかっただろう」ということです。と同時に、これは兆候的なことではなかろうか、と感じたことも事実です。

そんなわけで私のなかで勝手にエポック・メイキングなお知らせです。2017年3月17日(土)13:30〜17:30、上智大学四谷キャンパス2号館5階508室、申込不要・入場無料とのことですので、ご関心の向きは、ぜひ。

なお、これと関連してその3日後、3月14日(火)には一般社団法人社会調査協会の公開研究会「ライフストーリーとライフヒストリー――『事実』の構築性と実在性をめぐって」も開催されるそうです。こちらはガチで社会学業界の「中」のお話しになりましょうか。登壇者は西倉実季さん(和歌山大学、報告「ライフストーリー論におけるリアリティ研究の可能性」)、朴沙羅さん(神戸大学、報告「何が対話的に構築されるのか」)、岸政彦さん(龍谷大学、報告「物語/歴史/人生――個人史から社会を考える三つの方法」)、司会に 三浦耕吉郎さん(関西学院大学)ということのようです。開催地は大阪、関西学院大学・梅田キャンパス1405教室。詳細は上のリンク先をご覧ください。

オーラルヒストリーとは何か

オーラルヒストリーとは何か

(告知その3)天野郁夫『新制大学の誕生――大衆高等教育への道』合評会

ところが、だ。

いや、ところが、ってこともないんですが、3月11日(土)にはこれまたこのブログで継続的に告知してきております「教育の歴史社会学コロキウム」において、天野郁夫『新制大学の誕生――大衆高等教育への道』合評会も開催されてしまうのです。

「されてしまう」ってこともないんですが。

天野郁夫といえば言わずと知れた日本高等教育史/論の泰斗、齢70を超えてから『大学の誕生』(上下巻(上:帝国大学の時代、下:大学への挑戦)、中公新書、2009年)、『高等教育の時代』(上下巻(上:戦間期日本の大学、下:大衆化大学の原像)、中公叢書、2013年)、そして今回の『新制大学の誕生』と、明治初期から戦後に至る日本高等教育史3部作を立て続けに刊行されております。今回の書評対象作はこの3部作完結編。

思えば3部作の口火を切った『大学の誕生』では不肖わたくしの企画・司会により合評会を開催した模様も若干ブログでご紹介したわけですが、そこをご覧いただければお分かりのように、その合評会の時点で「いやじつはぼくもう次の本書いたんだけど(1600枚)」とのたまって場を揺るがせた台詞はつまりその時点で2作目『高等教育の時代』を書き終えていたということを意味しており、この折りの懇親会の席では3部作構想がきっちり語られていたわけであります。

そして今回の合評会が開かれるこの時点においてもまた、中公新書から次著『帝国大学――近代日本のエリート育成装置』の刊行が決定しておられるわけでありまして。それもこの3月にですよ。

どないやっちゅうねん。

そういえば「帝国大学について書いている」ってゆうてたもんなあ。たしかもう一個なんか書く構想を語っておられたような。ただ強いて言うなら次のやつはさすがに上下2巻本ではないようです、よかったですありがとうございました。

ところで上記懇親会の席上での私の記憶によれば、戦後改革時に総理大臣諮問機関として設置された「教育刷新委員会」(1946年8月設置、その後1949年6月には教育刷新審議会に改称)で交わされた議論を読み込むことの重要性をしきりと強調しておられました。その言葉どおり、今回の2巻本は『教育刷新委員会・教育刷新審議会会議録』全13巻の解読をひとつの焦点として、一方にその前段として戦時期に再燃する学制改革論議との連続性を、もう一方に文部省と戦後「新制大学」に結実する各学校史に視点を置いた実際の移行・昇格の過程を視野に入れつつ、「明治10年(1877)の最初の近代大学・東京大学の創設から数えて140年に満たないわが国の大学・高等教育システムの歴史の中で、最も重要な転換点であったといってよい、その新しい大学の制度と組織が、どのような経緯を経て誕生したのか」(1頁)、この新制大学誕生の物語が紡がれていくわけです。

評者には、天野先生と同世代の「教育の歴史社会学」の泰斗・菊池城司先生、高等教育(史)研究からは教え子世代にあたる吉田文先生、そして新進気鋭の戸田理先生と、世代を異にしつつたいへん充実したメンバーが揃いました。交わされる議論の中身にいまから期待が高まります。

例によって、教育の歴史社会学に関心のある方なら、だれでも気軽に参加できます。学部生の方も歓迎です。いつもと開催場所は変わって早稲田大学ですのでお間違えのないよう。なお、これはいつも通り、参加希望の方は前日までに教育の歴史社会学コロキウム事務局の佐々木啓子先生までご連絡を。連絡先をご存じない方は私に問い合わせてください。

教育の歴史社会学コロキウムも、もう3周年だそうですね。早い。

というわけで、ご関心の向きは、ぜひ。

第12回 教育の歴史社会学コロキウム


日時:2017年3月11日(土)13:30〜17:00
場所:早稲田大学16号館7F−710(演習室)


プログラム:天野郁夫『新制大学の誕生』(上下巻、名古屋大学出版会、2016年)合評会


書評報告(各30分)
1.戸村理氏(國學院大學
2.吉田文氏(早稲田大学
3.菊池城司氏(大阪大学名誉教授)


(休憩20分)


リプライ(40分)天野郁夫氏(東京大学名誉教授)
討論(40分)

懇親会(食事会)自由参加 17:30〜



連絡先:教育の歴史社会学コロキウム事務局
    電気通信大学 共通教育部 佐々木研究室

新制大学の誕生【上巻】――大衆高等教育への道

新制大学の誕生【上巻】――大衆高等教育への道

新制大学の誕生【下巻】―大衆高等教育への道―

新制大学の誕生【下巻】―大衆高等教育への道―

帝国大学―近代日本のエリート育成装置 (中公新書)

帝国大学―近代日本のエリート育成装置 (中公新書)

(告知その4)二次分析研究会・成果報告会「高度経済成長期における福祉の計量社会史」

さて、今年度も東京大学社会科学研究所附属社会調査・データアーカイブ研究センターの二次分析研究会・課題公募型研究「戦後日本社会における福祉社会の形成過程にかんする計量社会史」の成果報告会が3月28日(火)に予定されています。タイトルは、「高度経済成長期における福祉の計量社会史」となっています。

昨年度からの継続です。1960年代前半に東京大学社会科学研究所(氏原正治郎グループ)が神奈川県民生部の委託により実施していた複数の社会調査を対象に、原票のデジタル復元&データセットの作成&その分析、を実施するプロジェクト。詳細は上記リンク先をご参照ください。今回は「福祉資金行政実態調査」です。プログラムの詳細はこちら(PDF、下記に転記しました)

プログラムの行間からすでに渡邉さんの獅子奮迅ぶりが伝わってくるものと確信しますが、実際の入力・データセット構築作業において発揮されたそれは、その比ではありません。たいへんな労力と才覚とがあって初めてこの短期間でなせるわざだと思います。これは強調して強調しすぎることは決してありません。

橋本健二さん(早稲田大学)の研究グループから継承されている、社研・氏原グループによる戦後労働・社会保障調査の個票を対象としたデジタル化・復元作業は、そのどれもがそれぞれに超弩級の難しさを抱えるものでした。そのなかでも今回の「福祉資金行政実態調査」は、調査個票のなかに、世帯と個人のダイナミックな相互関係が_のちの分析段階における操作的な分節化の方途を必ずしも明確に想定・設計しないまま_埋め込まれている、という性格が強く、たいへん興味深いデータであると同時に、変数化・コード化等の処理の点で、これまでの諸調査と比較しても出色の困難があっただろうと拝察します。これはたいへんな作業です。

この調査は「低所得階層を対象として実施されている母子福祉資金及び世帯更生資金の貸付制度を採り上げ、・・・その行政効果についての実証的研究を行な」ったものです(『昭和37年度福祉資金行政実態調査報告』(神奈川県民生部、1963年)、1頁)。母子福祉資金制度は「事業(開始/継続)」「住宅」「修学」の各資金、世帯更生資金制度は「生業」「住宅」「療養」の各資金、この――「扶助」でも「給付」でもなく――貸付による「効果」、という以前にその利用の「実態」を把握しようとしたものです。ですので、貸付(借受)時点と調査時現在との2時点における世帯状況の変化――このなかに個人の「移動」の反映も埋め込まれているわけですが――と、その「要因」ならびに「帰結」と解釈できそうな情報とが詰め込まれているわけです。一枚(!)の調査票のなかに。

何を言ってるかわからないと思いますが「わかりたい」と望まれる方は、当日第1部における渡邉さんの報告を聞きにいらしてください。

某所のメモより。

ある個人が「生業の世界」と「職業の世界」のどちらに属するのかについての判断自体が文脈依存的に揺らぐ現実、ある個人の労働状況と市場状況とが生家である世帯の経営状況やライフサイクル状況に依存する関係性を生きているなかから〈自律的な個人〉が析出されたり、逆に包摂されたりするダイナミズムの具体的現象が「移動」なのではないだろうか。・・・家族/世帯がその「市場原理」と「組織原理」とを調整しながら戦略的に再生産を図っていくなかで個人が外部に析出されたり内部に包摂されたりする。・・・

もうひとつ、これが3つ目になる氏原グループ・社会保障調査データ(「福祉資金行政実態調査」(1962年実施)、「老齢者生活実態調査」(1963年実施)、「団地居住者生活実態調査」(1965年実施))を繋げて解く鍵のひとつは、おそらく「住宅」なのだろうと思います。とくにこの「福祉資金行政実態調査」では焦点になるのではないかと。これは下記プログラム中の佐藤さんや、今回のプログラムにお名前はありませんが、同じくメンバーの祐成保志さんらによって、当日議論になるところかもしれません。

私はあとに続く具体的なデータ紹介・記述分析の報告の露払いの役を果たすだけですが、まったく別の研究会系列でも戦後日本社会における「自営業社会から雇用社会へ」、「教育と労働と福祉」、「生活構造」、「移動」といった問題群をまとまりを欠きつつ考えてはきているので、そのあたりを少し自分のなかで整理しておきたいと思います。

全体としてややマニアックな話になりますし、「成果(に至る途中経過の)報告会」という性格になると思いますが、自分への備忘まで書き記しました。ご参考まで。

[二次分析研究会2016 課題公募型研究 成果報告会]
高度経済成長期における福祉の計量社会史


日時:2017年3月28日(火)14:00〜16:30
場所:東京大学本郷キャンパス)赤門総合研究棟5階549センター会議室


【第1部】データ復元の概要(14:00〜15:00)
司会:佐藤香東京大学)、コメンテイター:香川めい(東京大学


・「社会調査データの復元による計量社会史の試み」:森直人(筑波大学


・「社会福祉資金実態調査の概要と復元作業」:渡邉大輔(成蹊大学


・「これまでに復元した三調査の比較」:渡邉大輔(成蹊大学


【第2部】福祉資金調査の記述分析(15:15〜16:30)
司会:佐藤香東京大学)、コメンテイター:香川めい(東京大学


・「世帯」:石島健太郎(日本学術振興会


・「修学支援」:白川優治(千葉大学


・「住宅」:佐藤和宏東京大学大学院)


・「困窮」:渡邉大輔(成蹊大学


【総括討論】

(告知・番外)宮下奈都 & 岸政彦トークイベント @ オヨヨせせらぎ

最後は研究の話とはうって変わり、来月のことなのですが、金沢で友人がやっている古本屋のオヨヨ書林せせらぎ通り店という場所で開催されるトークイベントの宣伝です。社会学者で先ごろ小説『ビニール傘』が第156回芥川賞候補となったことでも話題の岸政彦さんと、『羊と鋼の森』にて2016年本屋大賞を受賞された福井市出身・在住の作家、宮下奈都さんのトークイベントです。

宮下奈都 & 岸政彦トークイベント、4月15日(土)18時より、会場はオヨヨ書林せせらぎ通り店、料金は1,500円で要予約(定員50名)です。連絡先は上記リンク先をご参照ください。

ふとしたきっかけで実現できた企画です。わたし自身そこにちょこっとかかわれたことをうれしく思います。金沢近辺在住の方も、そうでない方も、いまは北陸新幹線というイカしたやつが走ってますので、この機会にぜひ。わたくしも諸事調整のうえ、足を運ぼうと思います。金沢在住でない私の知り合いで、この機会にちょっくら金沢まで行ってみっか、という方がいらっしゃいましたら、ぜひご連絡ください。むこうで飯食って酒飲みましょう。ご案内します。

あと来てくれたらうれしいな、と思うのは、金沢(近辺)在住で文学・音楽好き(まあここに「社会学」好きが混ざり込んでも可)の高校生、ぐらいのお客さんかなあ......
あ、トークイベントのお題は「音楽」だそうです。

なんというかな、いまどうなのか知らないんですが、私が高校生だった頃には学生服でぶらっと入れる(ちょびっと緊張するんだけど)、なんつうかなあ、カルチャー? アート? 系みたいな? そういうお店って市内中心部にいくつかありましたよね。地方都市のくせに(「くせに」ってのもひどい言いぐさですが)、美大金沢美術工芸大学)のある街ですし。いまどうなんだろう。というかせせらぎ通り周辺はまだしも竪町あたりの様子をみるとちょっとねえ、、、

大学生も働いている人ももちろん大歓迎なんだけど、個人的にはここ「高校生」というのがポイントでね。まあぶっちゃけ学校さぼることもあるやん? こういうこと書くと怒られるだろうけど。いや、さぼっちゃダメですよ。さぼっちゃダメなのでまあ学校帰りとかね、学校早めに切り上げたときとかね(←)、そういうときにふらっと古本漁りに立ち寄るとかね。たぶん「ひとり」が好きなんでね。んでまあ1,500円って高校生にとってだいぶハードル高いとは思うんだけど、でもこういう機会に「ほんもの」の人が実際にしゃべる声とか身振りとか雰囲気、アウラとかね、「謦咳に接する」っつうの? おおげさに言えば。そういう場所にオヨヨせせらぎがなれたらいいなあと思うよね。

だれ目線やねんオレ。

昔あの街に「レコード・ジャングル」っていう中古・輸入盤のレコード屋さんがあったと思うんだけど(って書いていまググったら今もちゃんとあります! ありますよみなさん!)、そこでなんんん……んも音楽のことなんか知らんままの高校生が学校早めに切り上げてひとりでレコードぼーっと見てたら、もう恥ずかしいので誰の何とか一切書かないけど、たまたまちょっと気になって安かったし買おうと思ってレジに持ってった2枚のレコードがシカゴ・ブルースのやつだったみたいでして、こっちはぜんぜんそういうの知らんのやけどたまたま。ほんっとたまったまやったんですけど、そしたらなんかそれっぽいオシャレしたレジのお姉さんが「あっ、きみ、こういうの好きなん? いいでしょう? ちょうど今日入ったの、これ。そしたらねえ、この本とか読むといいよ(レジ前にはたしかにシカゴ・ブルースの本が置いてあった)、歴史がすごいわかる。あと今セールやってるし2枚買ってくれたら3枚目もっとディカウントできる。もうちょっと選んでみる?」ってすごい勢いで勧めてくるし、そのへんのジャンルの歴史もすごい親切にかいつまんでレクチャーしてくれるし、そっか安くなんのかーいま小遣いちょっと潤沢やしなあと思ってもう一回レコード漁りに行ったら、サイモン&ガーファンクルの『明日に架ける橋』が目に入ったわけ。「あ、これ知っとる。シカゴブルースとかそんなん言われてもなあん知らんけどこれは見たことある。有名なやつや。あ、安くなるし買えるわ。これ買おう」つってそれ持ってレジ行ったら、さっきあんな前のめりになって親切にあれこれ話しかけてくれてたお姉さん、チラともこっち見ないで冷やかに一言「はい、ぜんぶで○○円になります」ゆうてすっごい「あ、これじゃなかったんや、ちがうんや」感はんぱなかった。レコード3枚抱きしめて逃げるように店出たわ。

ビギナーズ・ラックゆうやつですわ。(違

つうかどさくさにまぎれてサイモン&ガーファンクル disんなやこら。いいアルバムですよ。

いやそんなことはどうでもよくて、オヨせせ(←だんだん省略が激しく)ではこうしたトークイベントのほかにも、音楽のライブとか映画の上映とか、いろいろ各種アート/カルチャー系?イベントを開催しておりますので、とくに金沢近郊在住のみなさまはぜひ定期的にチェックしてみてください。

なお、金沢に「オヨヨ書林」なる古本屋さんは「せせらぎ通り店」以外に「シンタテマチ店」があります。というか、「シンタテマチ店」が本家です。そこんとこよろしく。

オヨヨ書林のイベントページはこちらtwitter アカウントはこちらfacebook (せせらぎ通り店)はこちら

みなさま、どうかよろしくお願いします。

何のために実践を見るのか

某日、シクレルの読書会に参加した。たいへん有意義だった。再読となった文献もさることながら、シクレルのもとで勉強された某先生が何気なく漏らされる(昔の)お話をとても興味深く拝聴した。これまで欠席が続いたことを悔いた。世話役の方のご都合により、この読書会ももうすぐ終わるようである。残念だ。

当日読んだのは Language Use and School Performance から K. Leiter によるCh.2 “Ad hocing in the school: A study of placement practices in the kindergartens of two schools” である。これは竹内洋の『日本のメリトクラシー:構造と心性』(東京大学出版会、1995年)第1章の先行研究レビュー(34-38頁あたり)に引かれているので知られているだろう。1974年の論文。

竹内のライター批判は、ほぼ Karabel & Halsey(1977) を踏襲しており、(マクロな(?))「社会構造と関連づけられていない」のがダメだという。教育社会学では比較的見なれた光景だが、わざわざ(それほど目立ってもてはやされたわけでもないだろう論考を)取り上げて論評しているのだから高く評価しているともとれる。

実際、あらためてライターの論文を読み返してみると、冒頭でこそ「エスノメソドロジーの視角を採用する」と宣言されているが(「が」ってこともないが)、伝統的(?)な教育社会学とも「通じ合う」余地の多い研究、というか今ならふつうによくできた学校エスノグラフィとして読まれそうな感じの書きぶりである。

教師が子どもとのやりとりを通じて、彼ら/彼女らをいくつかの社会的類型に振り分けていくことが、子どもの出自(インプット)と達成(アウトプット)、つまり選抜と配分の帰結を媒介している――というぐらいに読まれたのだろうと思うがそんなのは読む方の勝手な期待の投影であって、実際にはそんなことをやるとはライターは言っていないし、実際に行われているのも教師が「どのように」子どもをクラスに振り分けているかの実践の記述であってそれのみである(記述の精度はいまエスノメソドロジーとして読まれるものの精密さには遠く及ばない)。

教師がなにか学校や教室のなかでやっていること――実践――が、選抜と配分(インプット‐アウトプット)の結果(階級や民族などの出自による不平等)をもたらす重要な要因――スループット――として効いているよ、そこのところがこれまで「ブラックボックス」になっていたからちゃんと実践をみよう、というオーソドックスな教育社会学の研究方針は「実践をみる(記述する)」という自ら設定したはずの課題をあらかじめ裏切ることになる。

これまでのオーソドックスな教育社会学は、つまるところ社会化と選抜・配分という「(学校)教育の(社会的)機能」を問うてきた。それはまず、永々とつながる実践のつらなりをどこかで「切断」し――その切断は「メンバー」によるそれに準拠することもあれば「観察者」が「恣意的」に持ち込むこともあるだろう――、切り分けられたAと別に切り分けられてあるBとを「メンバーの方法」とは違ったやりかたで接続させる/関連づける記述の実践だと言ってよい。AとBとは前もって「切断」されているので、そのかぎりで「別もの」である。別のものの接続/関連づけが行われるには、A/B双方を包括する同一の地平が仮構される必要がある、というか滑り入り込んでくる。

教育社会学で求められる/高く評価される記述とは、意外で(=「メンバーの方法」とは異なり)_かつ/だけれども_理解可能な記述、ということになる。そういうルールのゲームである。話には「オチ」が必要だというわけだ。それは必然的に――と言ってしまってよいと思うが――、AとかBそのもの(AとかBがいかに可能になっているのか)の記述には焦点化しない。あらかじめ、その課題からの離脱が約束されている。なにせAとBを「接続させる/関連づける」ことが主眼のゲームなのだ。そういうゲームの世界では、AとかBそのもの――AとかBの実践がいかに可能になっているのか――の記述への志向は、「オチがない!ヽ(`Д´)ノプンプン」と怒られてしまうか、そうでなければ「なにがしたいのかわからない (゚Д゚?)」と当惑されるはめになるだろう。

知らんけど。

さて、ここからもう少し書くことがあったのだが――そのために書き始めたはずなのだが――、疲れているのでこの辺で切り上げる。つまり、このエントリにもオチはない。

思わせぶりなタイトルでごめんなさい。<(_ _)>

Language Use and School Performance

Language Use and School Performance

[rakuten:rakutenkobo-ebooks:13915586:detail]

「さとにきたらええやん」をみにきたらええやん

いやほんまに。みたらええやん。

たしかにシン・ゴジラも面白いかもしれない。とくにゴジラの暴れっぷりはよかった。「よい」っていうのもどうかと思うが、あくまで映画的に。けれどあれにはあんまり「ひと」がでてこない。

「さとにきたらええやん」。重江良樹監督のドキュメンタリー映画(2015年、100分)。初監督作品。公式ホームページはこちら。舞台は大阪市西成区釜ヶ崎。この「日雇い労働者の街」で、38年にわたり、地域の子どもや親やその他のひとびとの居場所であり続ける「こどもの里」を撮る。音楽は地元・釜ヶ崎が生んだヒップホップアーティストのSHINGO★西成。

この映画には「ひと」がでてくる。ひとが育ち、生きていくのに必要で、大切な、たいていのことがでてくる。ただしゴジラはでてこない。

2008年、映像学校在学中に思いつきで釜ヶ崎の街に足を運び、「こどもの里」と出会った重江監督が、ボランティアとして通い始めて5年ほど経った2013年に「映画にしよう」と撮影を開始。社会学にたとえるなら(なぜたとえるのか)、ボランティアとして参与観察に入り、5年間フィールドワークを進めて2年で執筆、みたく考えると、さしずめ本作品は「博士論文として提出したものをリライトして単著を出版」的なところだろうか。(たぶん違う

(失礼なことを言っていたらごめんなさい。)

撮影を始めて半年、メインの登場人物も絞れてきたところで知り合いの監督に撮影した映像を観てもらうと、「カメラと人物の距離が遠い。もっとかかわれ。こんな撮影では何も伝わらない」と言われ、カメラを回すことでその場の空気を壊し関係性を壊すことを怖れていた臆病な自分に「ハッと」気づく、というくだりもどこか大学院のゼミでの研究報告&検討のやりとりが髣髴として興味深い。

さて、「こどもの里」である。外形的に言えば、いわゆる「学童保育」的な、しかし受け入れ対象年齢を限定しない居場所提供事業、親や子ども自身からの依頼による緊急一時保護・一時宿泊、さらに親子分離の長期化が判断されたときに児童相談所から委託される「里親」、ファミリーホーム(児童養育)事業等からなる、包括的な子ども支援の場(2014年度からは乳幼児とその保護者を対象とした「大阪市地域子育て支援拠点事業」(つどいの広場)も開設)。

ニーズを見つけ、現実に応じて、なんでもやる。福祉の基本。

館長は荘保共子さん(通称・デメキン)。大学卒業後まもなくボランティアで釜ヶ崎の子どもたちと出会い、人生が一変。1977年に聖フランシスコ会のハインリッヒ神父が始めた高齢労働者のための食堂(「ふるさとの家」)の2階を間借りし、「子どもの広場」を開設。その後「守護の天使の姉妹修道会」が引き継ぎ、1980年にいまある場所で「こどもの里」としてオープン。一方で、ここにも橋下徹市長による大阪市政は影を落としていて、2013年には大阪市の「子どもの家事業」は廃止、こどもの里も存続が危ぶまれたが「NPO法人こどもの里」を設立し、存続。

(余談だが、「子どもの家事業」廃止を謳った橋下徹市長の繰り出した論理はめちゃくちゃである。試しに、「児童いきいき放課後事業」「子どもの家事業」「留守家庭児童対策事業」あたりでググってみて、それぞれの利用料・利用可能時間・(想定)利用対象層を比較し、考えてみてほしい。そのうえで、なかであえて「子どもの家事業」を廃止するということがどういう帰結をもたらしうるか、想像してみてほしい。そして、橋下市長が何を言って、「子どもの家事業」を廃止したかも。)

不安定な生活のなかにある子ども、だけでなくその親、のみならず地域に住む人びと、へのサポートを無料で提供する。遊び、学習、休息、「避難」、生活相談、教育相談、宿泊場所の提供。いつでもあいてますし、泊まれます、何でも受け付けますし、何でもききます、利用料はいりません。

こどもの里では、「こども夜回り」という活動と学習会も行われている。夜、釜ヶ崎で野宿する人びとを「里」の子どもたちがまわり、言葉をかける。さとにきたらええやん、いつでもおいでや、なんとかなるて。

メインに描かれるのは「里」にきている3人の子ども。だがすべては映画を観てほしい。どんなエピソード紹介もすべてネタバレ。これはそういう映画である。だから映画館に足を運んでもらいたい。

登場人物はみなそれぞれの事情を抱えながら、笑い、ときに泣き、怒り、ぶつかり合い、支え合いながら生きている。そんな様子を衒いなく、まっすぐに映し出した作品は、さわやかである。もちろん、ここに描き出さ(/せ)なかった現実の、深く重い暗さはあろう。だがこの映画は、まずは「光」をきちんと「光」として描くことを選んだ。その選択を私は支持したい。あとで振り返って、初めて発表した作品にはのちの作者の「すべて」が凝縮されていた、ということはよくある。この「さとにきたらええやん」も重江監督にとってそういう作品になるのかもしれない。

昔、なにで読んだのかもうまったくすっかり忘れてしまったが、なにかのマンガで――べつに「名作」でもなんでもない、なんかのスポーツ漫画だったような――登場人物の男が、自分の言動を深く反省するシーンがあった。その男は、だれか自分より年下の、たぶん中高生ぐらいの男の子の前で、その男の子の父親を悪しざまに罵ってしまった、そのことをとても激しく悔いていたのだ。あんなふうにあの子の父親のことをあの子の前で言うべきではなかった、と。でもその男の子自身も父親のことをとても強く憎み、軽侮しているのだ。「だからそんな気にすることではないでしょう? あの子自身がいつも言ってることですよ」と慰める別の登場人物を遮って、その男はなおも言う、

「いや、どんなに憎み、軽蔑しているとしても、子どもにとって親は特別なんだ。自分の親が他の誰かに目の前で罵倒されて平気な子どもなんていない。自分が罵倒するのとは、違うんだ。それなのに、おれは。。。」(大意&記憶をもとに創作)

自分の10代の頃に読んだそのシーンを変に覚えている。

この映画を観て、一番にそのことを思い出して、映画鑑賞後に購入したパンフレットにあった荘保さんのインタビューを読んでいたら同じことが書いてあって、やっぱりそうだよなと思った。

どんなにひどいとこちらが思う親でも子どもにとっては親は親。こどもは親が大切で大好きな「宝」なので、親を何とかしたいといつも思っている。だから子どもが生きるということは、親の生活、しんどさも知って親との関わりも大切になってくるんです。

まああとむつかしく言うと福祉、ケアとか、教育とかそういうことになるんだけれど、そういう問題領域においてて考えるべきたいていのことはでてくる。そのための「ポイント」は随所に埋め込まれている。ひとつだけ、荘保さんのインタビューで、「こどもの里」のような子ども包括支援センターは一つの中学校区に一つぐらいあったらいい、と語られていたことはここに書いておきたい。たとえば学童保育は一小学校区に一つ、子ども包括支援センターが一中学校区に一つ(もちろん人口規模やなんやかやによる)。

ところで、この映画を観てもう一つ思ったのは、メインの登場人物のひとりの高校生のマユミちゃん、である。おれ、この子ぜったい見たことあるわ。

いや、この子とは会ってないよ。この子とは会ったことないんやけど、こんな子いっぱい会ってたわ。見たことあるわあ、こういう顔。前の職場の大学の、指定校推薦入試の面接とかでな。ああいう顔の、あんな表情する子はいっぱい見てたと思うわ。それを思い出して、とても懐かしかった。たいへんなこともあるんだけれども、周りに支えとなる大人もいて。

しばらく引っ込んでいた、前の職場でまた働きたい欲が、ぶり返す。

公開からもうずいぶん経つが、9月16日(金)までのポレポレ東中野(東京)や第七藝術劇場(大阪)でのアンコール上映をはじめ、10月にはシネマチュプキ・タバタ(東京)、シネマ尾道(広島)、そのほか今秋中に京都、鹿児島、金沢などなどで上映予定(詳細はこちら)。けれど、涼しかった風が肌寒く感じるようになる頃にはもう終わってしまっているかもしれない。行かれるなら、この秋、寒くなる前に。

なおこれを書くにあたって映画のパンフレットを大いに参照した。表紙は「こどもの里」の玄関からあふれだす、色とりどりの子どもたちのスニーカーの写真。ちょっと遠目にはテーブルに広げられた色あざやかなキャンディあめちゃんみたく見える。映画の雰囲気を伝えておもしろい。
(※2016-9-11修正。私としたことが。ここはやはり大阪なだけに)