比較教育社会史研究会 2016年春季例会プログラム

本ブログを開設した当初の目的は(実は)比較教育社会史研究会の開催告知をネット上にだすということでした。その後、「教育の歴史社会学コロキウム」が発足してからはその告知もしております。

が、どうも前回のコロキウムは告知し忘れたようですな。とうとうやってしまいましたか。。。関係者のみなさま、まったく失念しておりました申し訳ございません(^O^)/

まちがえました、こっちです →

こちらは今月、忘れずに。

第1部のジェンダー部会は常設部会となったそうです。第2部は教員養成史。「公」「私」あるいは世俗国家と教会。。。このあたりは前エントリのような問題提起との絡みも含め、つねに重要なテーマであり続けるのでしょう。

開催地は名古屋ですが、これはひさしぶりに出られそうな予感。Zepp Nagoya の近くっすな。

ご関心の向きはぜひ。

比較教育社会史研究会 2016年春季例会プログラム


日時:2016年6月19日(日)
会場:愛知大学名古屋キャンパス 講義棟6階  L601教室
(http://www.aichi-u.ac.jp/sasashima/access.html)


第1部 ジェンダー部会セッション(11:00〜13:30)
司会:北村陽子(愛知工業大学


スピーカー:西崎緑(福岡教育大学
「Lifting As We Climb:Education and Activism of the African American Women in the early twentieth century」


コメンテイタ:倉石一郎(京都大学


第2部 教員養成史の再検討(14:30〜17:00)
司会:岩下誠(青山学院大学


報告者:
加島大輔(愛知大学)「明治期教員養成史の再検討―教師の職業的自覚・教員養成の「公」性「私」性の問題から―(仮)」
前田更子(明治大学)「世紀転換期フランスにおけるカトリック教育の再編と教員養成(仮)」


コメンテイタ:山田浩之(広島大学


懇親会(17:30〜)

根本問題

「話のポイントがずれている。これまで公教育から排除されていた異質な要素を新たに組み込むのだとして、それでもそれが『公教育』であるという、その新たな境界線はどのように引かれるのか。新たに構想されるべき教育の公共性、教育の公共的意義をどのように主張していくことができるのか――それこそがこの法案の提起した最も重要な論点であろうと思うのだが、その点について、何か展望をお持ちであればうかがいたい。」

大略、そのような主旨であったと記憶する。ある小さな法案をめぐって開催された、ある小さな勉強会の席でその質問が発せられたとき、私は思わず息を呑んだ。というのも、それはほとんど「『公教育』とは何なのか」という問いと同義であると思われたからだ。もちろん、というか少なくとも私が思うに、「公教育」とは何かという問いに対しては、歴史規定的な回答しか与えることはできない。だがそれでも、「公教育の歴史的概念規定」という教育(史)学の根本問題は、ひとりの社会学者がその場で回答(らしきもの)を与えるには、あまりに大きな問いに思われた。質問を受けた社会学者がそのあとしばし絶句した姿はしたがって、その者の知的な有能と誠実とを――その逆ではなく――雄弁に物語ったのである。質問を発した側の者と同様に。

その小さな法案、それも、そのままでは議会の審議を通る見通しもつかないような、ほんの取るに足らないものにも見えた法案は、しかし、たしかにそのように大きく歴史的な問いかけを含んでいた。そうであるがゆえに、私たちはその問題提起に真剣に向き合わなければならないだろうと考えたわけだ。

かつて私も少しだけかかわった著書に収録された橋本伸也と岩下誠による論考(橋本伸也「近現代世界における国家・社会・教育」『福祉国家と教育』(昭和堂、2013年、3-76頁)、および、岩下誠「「長い十八世紀のイギリス」における教育をめぐる国家と社会」同上書(79-97頁))を紹介したい。以下、長くなるが引用する。ブログという形式を考慮して、改行は引用者が適宜入れた。太字の部分も引用者によるものである。

教育史学の最重要概念であった「公教育」は、日本の戦後教育学の前提とした「公教育」概念に規定された偏りを有しただけでなく、歴史的実相から乖離して作られてきた抽象性ゆえの曖昧さを露呈している。(橋本 2013、8頁)

国家・社会の変容と関連づけながら教育のあり方を問うことを通じてもう一つ明らかにしておきたいのは、近代「公教育」という概念の妥当性という問題である。


日本の西洋教育史研究の枠組みを構築した梅根悟には『中世ドイツ都市における公教育制度の成立過程』(誠文堂新光社、1957年)という著作があるが、ここでいわれる「公教育」は、中世自治都市のそれであって、むろんのこと近代国家によるそれとしての意味を有さない。


他方、教育学の一般的(教科書的)理解において「公教育」ないし近代学校制度を確立させた歴史的契機は1789年のフランス革命期の教育改革論であり、1794年のプロイセン一般ラント法であり、あるいはイングランド1870年教育法制定や第三共和政期フランスによる教育改革であるが、いずれも世俗国家による教育支配に力点を置いたこれらの把握において、前ニ者と後ニ者との間には一世紀近い時間的隔たりがある。これら複数の「公教育」は、はたしていかなる次元で共約可能(あるいは不可能)な概念なのだろうか、問い直されるべき問題はここにある。(同上、15頁)

「公」ないし「公共性」の概念それ自体が非常に理解し難い概念であるうえに、「国家が「公共性」を独占する事態」の長く続いた日本の精神風土のなかで彫琢された「(近代)公教育」という用語が使われる際の「公」概念がいったい何を指すのかはきわめてわかりにくい。


しばらく前から多方面で論じられてきたユルゲン・ハーバーマスやハンナ・アレントを踏まえた公共性論のいう「公」と、教育史学が語ってきた「公教育」の「公」にはいったいいかなる接点があるのかも重要な論点である。


教育哲学などではこの点が理念的に論じられているとはいえ、歴史的実態に即しつつ教育の「公共性」を論ずる作業はそれほど進んではいない。(同上、15-6頁)

関連して、近代「公教育」の原則としてアプリオリに把握されてきた「世俗・義務・無償」という定式、そのなかでもとりわけ世俗性原則についての従来の扱いには重大な瑕疵があるといわなければならない。


この定式は、第三共和政期のフランスで確立されたものであるが、後述する通り、ここには19世紀を通じてフランスで闘われた「十字架と三色旗」の対立に起因する特殊フランス的な性格が刻印されていて、だからこそ今にいたるもイスラーム教徒のスカーフ問題に典型的に現れた宗教との緊張をもたらしているが、これを近代教育の一般原則と見なすことには無理がある


実際、イギリスの場合は、1944年教育法で宗教教育の義務化がはかられており、宗教的寛容を前提としつつ学校内で宗教教育を実施する例は多々見られるのである。むろん、近代を通じて宗教的寛容の広がりや国家と教会との分離、人びとの意識や規範における脱宗教化という意味での「世俗化」、さらに教会監督下にあった学校行政の世俗国家による掌握という意味での「教育の世俗化」といった歴史的過程のあったことを見逃すことはできないが、世俗性を「近代公教育のメルクマール」とし、それを基準に「公教育」を提示することは、歴史的実相を見誤らせるものだといわなければならない。


ヨーロッパに即して見た場合、国家と教会、社会が学校と教育をめぐって取り結んでいた関係構造の解明こそが必要な課題なのである。(同上、16頁)

この橋本による提議に対する岩下の応答より。

福祉国家」と「公教育」という二つの概念は、現在のわれわれにはきわめて親和的なものに見える。しかし、伝統的な教育史学史においては、必ずしもそうではなかった。


1950年代から60年代の革新的教育学にとって、福祉国家は部分的に労働者階級の諸要求に譲歩しつつも搾取と抑圧の構造を温存させた資本主義体制にほかならず、そこで組織される学校教育制度もまた、階級支配と搾取を隠蔽する大衆強化の装置にすぎなかった。


したがって、福祉国家下における「公教育」の内実は国家的公共性、換言するならば偽装された公共性として把握された彼らが公費支出をはじめとした国家による公教育概念と対抗するため、市民社会的な系譜において公教育概念を提唱したのはこのような時代的文脈においてであった


「世俗・義務・無償」といった伝統的教育史学における公教育のメルクマールも、教育の公共性を社会編成のあり方からではなく基本的人権としての学習権の保障という観点から定義しようとする思潮を具体化したものと見てよい。(岩下 2013、79-80頁)

マルクス主義市民社会論を折衷させた戦後教育学的な公教育理解は、70年代後半以降に退潮する。80年代から90年代にかけては、国民国家論、社会的再生産論、規律化論といった社会理論が導入され、それまでの戦後教育学の枠組みが批判されると同時に、歴史学者による教育史研究領域への参入が進むことによって、教育の持つ多元的な社会的機能が研究の焦点となった。


こうした諸研究は教育史研究の水準を引き上げると同時に、歴史学研究としても豊かな知見をもたらしたが、ここではその問題には触れない。ここでの議論のポイントは、教育の社会的機能の解明に比して、公教育の歴史的概念規定という作業が教育史研究の後景に退いたのではないか、ということである。


多くの場合、公教育は(福祉)国家制度と等値され、その官僚主義的閉鎖性や抑圧性が批判されることはあっても、かつてのように対抗的な公教育像が提唱されることは稀であった。90年代の教育改革において、新自由主義的な要素は文部省による限定と統制の枠内に収まるものであったため、この時代の教育史研究は、いまだ福祉国家批判と公教育批判という枠組みのなかで自らの政治的革新性を装うことができたともいえる。(同上、80頁)

しかし、2000年代のラディカルな改革を経験した現在では、状況は大きく異なっている。


第一に、福祉国家と教育の関係が再審されている。現在生じているのが福祉国家の退潮なのか、それとも再編なのかは慎重な検討を要するが、もっとも新自由主義的な政治体制下でも公費支出に基づく教育政策が促進されたり(ワークフェア)、公教育を通じた公共心の涵養が大きな政策課題となっている(教育基本法改正やシティズンシップ教育)。


第二に、教育供給主体に関しても、現在進行している事態は供給主体を単純に私的エージェントに還元しようとする動きではない。「小さな政府」を志向する潮流のなかにも、分権・参加を新たな教育の公共性として推進しようとする参加民主主義的要素が含まれている。「新しい公共」論に見られるように、新しいタイプの学校制度提唱論も、学校運営主体の属性にかかわらず公的な性格を持つことを強調し、それを自らの正統性の根拠としている。(同上、81頁)

つまり、現在生じているのは単純な私事化(プライヴァタイゼーション)の過程ではない。それは、福祉国家再編の過程にあって、さまざまな社会集団が自らの正統性を「教育の公共性」として提示することで、教育という領域が、複数の公共性が葛藤する場として浮上しているという事態である。


福祉国家と公教育がともに解体しつつあるという現状認識が正しくないとするならば、翻って福祉国家の形成と公教育の整備をともに介入主義的抑圧装置の展開とする歴史像も見直しが迫られることになろう。


橋本が「公教育の歴史的概念規定」という伝統的な教育学的課題をあらためて提示しているのは、それが歴史学的な課題のみならず、福祉国家再編の動きに対応した新たな対抗的公教育概念を提出することが必要であるという同時代的な洞察に基づいているように思われる。(同上、81頁)

国際的・歴史的にきわめて広い射程をもたらす視角と、特殊「戦後日本」的な文脈に焦点化する観点とが交錯するテクストであるが、たとえばかつて「私事の組織化」としてオルタナティヴな公教育像を提示しようと試みた模索などが、ここでは想起されていよう。

オルタナティヴ》――日本の直面する困難とは、教会と(世俗)国家とのあいだの「公教育」をめぐる苛烈な綱引きともいうべき歴史的経験をもたない社会において、《オルタナティヴ》な《公教育》の居場所を見出すことの困難であると言えるのかもしれない。あるいは、こう言い換えてもよい――国家的な「公教育」の立ち上がりにおいて捨て去った《もうひとつ他にありえた公教育》という原初的記憶をもちえない社会における困難だと。

あの質問のあとに流れたしばしの沈黙の時間には、少なく見積もってもこれだけの問題が厚く堆積していたのである。その歴史の重みに鑑みて、決して容易な問いでないのは明らかだ。

だがそれでもなお、そこに展望を見出そうとするならば、30年にわたって《オルタナティヴ》の模索を継続してきた運動家であり実践家でもある者が会の最後に語った、“教育における複数の《公》の――「対抗」ではなく――併存・共存”という構想のなかに、ひとつの可能性が宿るのかもしれない、とも漠然と感じた。

同時に、これをなにか日本の教育の「破滅」や「衰退」に通じる道だなどと考えるのではなく、そうではなく、《公教育》の《オルタナティヴ》をここまで問える程度にはわれわれの社会は成熟したのである、と、そうとらえたいと念じていた。

【恵投御礼】『子どもと貧困の戦後史』

連休の谷間の昨日、大学に出向いたところ、すばらしい共著の本が2冊、レターボックスに届いておりました。

1冊目は、相澤真一・土屋敦・小山裕・開田奈穂美・元森絵里子『子どもと貧困の戦後史』(青弓社、2016年)。目次等はこちら

著者のみなさまよりお送りいただきました。ありがとうございます。

東京大学社会科学研究所に調査原票が保存されていた2つの社会調査、いわゆる「貧困層の形成(静岡)調査」(1952年、労働科学研究所実施「被保護世帯についての生活調査」)と、「『ボーダーライン層』調査」(1961年、神奈川県民生部実施「神奈川県における民生基礎調査」)の復元作業とそのデータ分析に立脚した、計量歴史社会学/計量社会史の試みです。現在の「子どもの貧困」問題の構造的理解に寄与しうる戦後史像の描出がめざされています。

「子ども」と「貧困」は戦後直後には密接な結び付きのもとで可視化されていましたが、やがて不可視になり、21世紀に入った今ふたたびクローズアップされています。本書の分析の視点は、「子ども」が貧困からの脱出を助ける「エンジン」とも、貧困にとどまらせてしまう「重荷」ともなりうる両義性へと焦点化されます(序章)。

全168頁と小さな本ですが、今後の計量社会史研究にとって重要な里程標となるでしょう。特筆すべきは、その「方法」です。

。。。と、ここまで書いてきて、これはこのままいくと本格的な書評になってしまいそうなので、もうやめます。

ただ一点だけ、本書が2つの社会調査データの復元作業に立脚しつつ、その計量分析の結果を、他の公開データやマクロ統計、さらには新聞記事・教育社会学の教科書・中学校の生徒会誌などの文書資料との相互参照のもとに慎重に位置づけながら、戦後日本社会像を描き出そうとしている姿勢は、やはりここで特筆しておきたいと思います。

計量的な二次分析を主たる内容とする章(1章・3章・4章)のあいだに、新聞記事を素材とした2章と、教育社会学の教科書・中学校の生徒会誌を分析対象にした5章がきわめて効果的に、有機的な関連性のもとに配置されています。それも重要であるのはもちろんなのですが、それだけではありません。

1章、3章は「貧困層の形成(静岡)調査」の分析、4章は「ボーダーライン層」調査の分析をそれぞれメインとしていますが、そのうち1章は静岡調査の調査票のなかにある自由記述の質的データと2005年SSM調査データの分析結果も併記しながら、また、3章は、文部省「公立小学校・中学校長期欠席児童生徒調査」への参照のもとにデータ分析の結果を位置づけながら、論述がなされていきます。当たり前の話にしかみえないかもしれませんが、このことの重要性は強調されてよいことです。

社会調査の原票の復元作業とその二次分析にもとづく計量社会史研究は、このように行なわれなければなりません。

小山裕さんの章の最後の部分から引用します。

本章で折りに触れて指摘してきたように、特定のカテゴリーを使って、原理的には一つ一つ異なるはずの出来事を分類していくという調査実践は、調査の設計者や実施者の意図や意識に規定されていて、それが結果にも影響を及ぼしていく可能性は否定できない。それでもほかのデータや歴史的事実と突き合わせて批判的に検討していくことで、表面上の字面や数字の背後に厳然と存在する歴史的現実に接近することができるはずだ。(99頁)

まさに。恐縮なことに拙論まで参照してくださり、わが意を得たり。

「社会調査の原票の復元作業とその二次分析にもとづく計量社会史研究」はここまできた――全168頁からなる本書は、あきらかにそのメルクマールとなる労作だといえるでしょう。

子どもと貧困の戦後史 (青弓社ライブラリー)

子どもと貧困の戦後史 (青弓社ライブラリー)

【恵投御礼】『概念分析の社会学 2――実践の社会的論理』

すばらしき共著本、2冊目は、酒井泰斗・浦野茂・前田泰樹・中村和生・小宮友根編『概念分析の社会学 2――実践の社会的論理』(ナカニシヤ出版、2016年)です。

同じくナカニシヤ出版から2009年に刊行された『概念分析の社会学――社会的経験と人間の科学』の続編。充実した紹介ページはこちら

著者のうちのお二人からお送りいただきました。ありがとうございます。

手にとって、「はじめに」「ナビゲーション 1〜 4」「おわりに」と、全14章の論考のなかから福祉/教育がらみの数章にざっと目を通しただけですが、これはなかなかです。前著もそうでしたが、論文集でありながら1冊の書物としての完結性、といいますか完成度が高い。それと同時に、各章それぞれの議論の密度も高く、上述のように著書の一部分だけを、それも流し読みしただけでたいへんに脳みそが疲労いたしました。各論考の圧縮率がやや高くてたいへんそうな気もしますが、逆に言えば、これで3,200円というのは破格の安さと言えましょう。

脳みそが疲れるほんとのところの要因はむしろ、「概念連関をたどることによる実践の記述的解明」を行う本書の諸論考が備える抽象性と具象とのかかわりを、具体的な「記述的解明」のなかに読み解く作業に、本来的に付随するものでありましょうが。

なお、本書には前著と異なる点がいくつか指摘できますが、そのひとつは、エスノメソドロジー研究「ではない」社会学者による論考が2編収録されていることです。前著を手に取り、自らの問題意識や研究プロジェクトとの類似性を感得しながら、しかし十全にはそれを実現できてこなかった研究者には、重要な参照点となるかもしれません。

少し時間をかけて、丁寧に取り組みたいと思います。ありがとうございました。

概念分析の社会学2: 実践の社会的論理

概念分析の社会学2: 実践の社会的論理

「頭の悪さ」

社会学は、たとえば経済学がそうなっているような意味では学問として体系化されにくく、体系化されていない。だから学問の習得のプロセスでは、自分の問題意識を明確なかたちで言語化し、具体的な対象との関連のもとで、問いや「視点」や手法を一つひとつ「カスタマイズ」――といってまったくの「自己流」ではもちろん困る――して組み立てていかないといけない。

比較的に漠然とした研究計画で入学してくる院生をみていると、そのことがくっきりとわかる。フィールドワークでやる、といっているのに、計量的手法でないと解けないような問いを立てている、というような状態が長く続く。だからゼミでは、問題意識と対象と問いと視点と手法と……のあいだにある、微妙だが重要なずれを、参加者との討論のなかで検討し、まずは可視化し、いったん壊して、組み立て直して、また修正して、というのを繰り返していくプロセスとなる。

修士論文が書けた、というのはこの「カスタマイズ」がどうにかこうにか、ひとつ、やり遂げることができた、ということを意味するのではないか。「体系」ではなく、「方法」の習得。

個人的な印象でしかないが、「ものわかりの悪かった」院生ほど、このプロセスをきちんとやり遂げたあとは、「安心して見ていられる」研究者になっている気がする。自分がとても苦労した経験があるから、この「カスタマイズ」の重要性を身にしみてわかる、というところがあるのだろうか。ひとつできたからといって、それでなんでもかんでも解けるように、論じられるようになるわけではない。別の問題にはまた、別の「カスタマイズ」を考える必要がある。

むしろ問題は、「ものわかりのよい」「センスのある」「頭のよい」学生だったほうにあるのかもしれない。なんにでも口を挟んでやがてボロをだす、というのはだから、「頭の悪い」人間のやることではない。

社会学というのは、「頭のよい」人間には、あまり向いていない学問なのかもしれない。

しかし、そもそも学問というのは「頭の悪い」人間が――およそ人間というものは「頭が悪い」――どうにかこうにか、きわめて不十分なかたちであれ、世界を認識しようと発展させてきた制度であろうから、べつに社会学に固有なかたちで言うべき話でもなかったかもしれない。

ということで、ここまで書いてきたことにはほとんど意味がなかったな、ということがここまで書いてきてわかった。

社会学にしても、計量とか会話分析とか、手法でピンを刺し、そこを動かぬ基点に他を整序していくというような、習得すべき知識やスキルの体系化もあるところにはあるだろう。

それでもなお、問題(意識)や対象から入り、相対的に「カスタマイズ」の余地が大きく残る領域において、「ものわかりのよい」「センスのある」「頭のよい」院生が、「とても質の高い」修士論文を書きあげたときに、あるいは書きあげるプロセスにおいて、上に述べたようなことを「指導する」ことは可能であるか、否か。

製造物責任」などという品のない言い方で「指導する」側の責任を問うのも、引き取るのも、どこか信用ならないのは、その程度のことすら考えた形跡がみえないからかもしれない。ひとを――いまの場合、研究者を――「指導」し、育てるということの難しさを、まじめに考えているようには思えないからなのかもしれない。

(レジュメ) 「天野郁夫と教育社会学――近代化論から(比較)高等教育システム論、その歴史研究へ」

そんなわけで過日、日本教社会学会がこの数年取り組んでいる「若手研究セミナー」なる企画のなかで、天野郁夫による講演「私の教育社会学研究50年」のコメンテイターなる意味不明の役を務める。斯界を代表する研究者の半世紀におよぶ研究生活に「コメント」もなにもないわけで、とかく「ご説拝聴」になってしまい若手と講演者との質疑応答が沈滞しがちという危惧へのカンフル剤として働けばよいものと割り切る。事前にもらった講演レジュメにある浩瀚な研究業績の時系列的羅列を思いきって構造化し、聴衆が奥行きをつけて「読める」ように補助線を引くだけの簡単なお仕事。。。のはずが、90分を越える講演のあと15分ほどの休憩のあいだに拙レジュメが配布され、休憩時間中ずっと隣の席で天野郁夫がそれを熟読するという名の罰ゲーム。後悔先に立たず。

とはいえ、率直にいって、この仕事は引き受けてよかった。指名してくださった方々には感謝したい。たぶんコメンテイターにならなければ私がこのレジュメを手にすることはなかっただろうし、結果、天野郁夫の仕事が「どういうもの」であるかを勘違いして「理解」したつもりのままだっただろうと思う。

多くの著書のある天野だが、単著が刊行されるのは意外なほど遅く、1978年の日経新書『旧制専門学校』が最初である。さらに基準を「学術専門書」に置くとすると、1982年の『教育と選抜』まで待つ。だがそこからの10年に主要なものだけで、『試験の社会史』(83年)、『「学習社会」への挑戦』(84年)、『高等教育の日本的構造』(86年)、『近代日本高等教育研究』(89年)、『学歴主義の社会史』(編著1991年)、『学歴の社会史』(92年)などが立て続けに出版される(そのかん高等教育/教育全般の時論・一般書を加えることさらに数冊)。なかでも『試験の社会史』は教育研究として初のサントリー学芸賞を受賞する。

東大着任が79年なので、この流れを目の当たりにした東大の院生ならずとも、天野は東大にきて(それまで温めてきた)自分の仕事を開花させた、、、それは刊行された著書の「カテゴリー」別の数とインパクトからして『教育と選抜』『試験の社会史』『学歴主義の社会史』『学歴の社会史』といった学歴=選抜研究がメイン・テーマである、、、と思ってしまったとしても無理はない。少なくとも私はそう思った。だが、「その後」、仕事のメインは高等教育論だとされる――天野自身、東大での高等教育論講座の開設にもこだわり尽力する――ようになるし、私もそのことの意味を深くは考えないままそう理解してきた。この「「教育の歴史社会学」系学歴研究の天野」と「高等教育論の天野」との相互関係を、彼のキャリア全体のなかでどうとらえるかということはあまり考えてこなかった。

そのことが、今回よくわかった。天野のレジュメで私がいちばん印象的だったのは、国立教育研究所(アジア教育研究室→教育計画研究室)から始まり、名古屋大学(比較教育学)、東京大学(教育社会学)、国立大学財務経営センターを経て現在に至る自らの研究ステージのなかで、バートン・クラークの比較高等教育研究プロジェクトに参加したイェール大学ISPS客員研究員時代の1974〜75年を「重要な分水嶺」と明記して名古屋大学時代をⅠ期とⅡ期に分割し、もって研究キャリア全体も前期と後期に分かたれてあったことである。

天野の専門は高等教育論、それも「比較_高等教育_システム論」、これがメインで、「教育の歴史社会学(学歴=選抜研究)」がサブとなる。この幹と枝とが合流したところに現在絶賛刊行中のいわゆる「高等教育三部作」(『大学の誕生』(上・下)、『高等教育の時代』(上・下)、『新制大学の誕生』(近刊))がある。本エントリ副題(当日レジュメに同じ)はそのことを示す。

そんなことを軸にした私の理解を当日は述べた。私にとってもそれは意味ある発見だったので、いずれ文章にしてエントリにして残しておきたいと思う。とりあえず今日は、当日配布のレジュメだけ公開(途中、図はうまく再現できていないがそこはそれ)。本文はまたいずれ。

★自己紹介
(略)


★歴史感覚の微調整
東京大学 比較教育社会学コース スタッフ(森在籍時)
・天野郁夫・藤田英典苅谷剛彦箕浦康子・金子元久
藤田英典苅谷剛彦箕浦康子・金子元久 + 広田照幸
藤田英典苅谷剛彦・     金子元久・広田照幸 + 恒吉僚子(森と入れ違いで 白石さや)


東京大学 教育社会学
・牧野巽(教授:1949〜1965)
・清水義弘(助教授:1953〜1965)(教授:1965〜1978)
・松原治郎(助教授:1966〜1978)(教授:1978〜1984)____ここまで東大文学部・社会学科出身
・天野郁夫(助教授:1979〜1984)(教授:1984〜1996)……教育社会学出身
藤田英典助教授:1986〜1992)(教授:1992〜2003)


※1)1984〜1986:東京大学の教育社会学講座に天野郁夫ひとり
※2)天野―参加者 ⇔ 清水―森 …… 「清水義弘の講演の場にかりだされた苅谷剛彦」で近似
※3)一橋卒→富士通→東大教育(学士入学)「高校の先生になりたかった」(だがゼロ免だった)


★1990年代以降の「教育の歴史社会学」系レビュー論文のなかで
・広田(1990):
「麻生は〈機能〉に注目し、天野は〈制度(化)〉に注目した」(82)、「総体としてどういう構造を持つに至ったのかを具体的にたどる」(84)、「「近代化と教育」を解く枠組み自体の不十分さを克服しようとする方向」(85)
・広田(1995):
「平板な変動モデル」「趨勢モデルを越えたモデルの構築はできなかった」(37)
・広田(2006):
「天野郁夫の業績目録(1996年、私家版)をみると、歴史研究の成果を発表している同時期に、「アメリカにおけるマンパワー論の動向」(1963)、「教育政策と人的能力開発政策」(1965年)、「日本の教育計画」(1968年)などの論考が並んでおり、まさに同時代の経済成長と人材需要―教育計画の問題と重なった関心で歴史研究を深めていたことがうかがわれる。現在から未来にかけての長期の構造変動という視角をずらし、過去から現在に至る構造変動という視角を採用すれば、教育計画論と近代化過程の研究とは、手法や理論の面できわめて親和性が高かった」(143)


☑「枠組み」「モデル」: 近代化論、(構造)機能主義 …… ?


☑現代の問題を考えるための歴史研究: 歴史分析と現状分析(・比較分析)とは両輪
「別に歴史研究をしたくて日本の高等教育の明治以来のことをやっているわけではないのです。私の問題関心はいつも現代の方にありました」「私の問題意識はいつも現代が出発点で、現代の高等教育システムの抱えているさまざまな問題の向こうに何が透視できるのか、透視しようとする努力の結果が、この本だと、自分では思っています」(後掲書評会での発言)


★本コメントの要約
☑(比較)高等教育システム論: 「大学」ではなく「高等教育」、「個別」ではなく「システム」← 大衆化/序列


☑印象的だった点: エール大学ISPS客員研究員を分水嶺に、名古屋大学時代を二分


☑2つの分割線: 名古屋Ⅰ期/Ⅱ期、東大前/後
●60s 近代化論―――――――74-75 高等教育システム――――――→ 
(人材養成/専門教育…)     (比較/日本的)         ⇒「高等教育三部作」
・            …………79 教育社会学――――――→
                  (学歴研究/選抜/(葛藤)理論)


☑「経済と教育」・近代化論の問題設定から(比較)高等教育システム論へ
→ 現状への問題意識に立脚して、プロセスを具体的にたどる歴史研究
→ 葛藤モデルで描くか、機能モデルで描くかは、テーマ・対象しだい


☑「近代化論が下敷き」と一括される時期の研究に、むしろ今日の若手と通じる未発の契機?


★近代化論: 『日本の教育システム』(1996)、『教育と近代化』(1997)
☑教育と経済、清水義弘、教育計画、高等教育
・教育開発・技術革新: 人的資本論マンパワー論への不満(労働力の「量」から「質」へ)
→ その後の展開なく(学歴研究・高等教育システム論へ)  cf. 沢井実(経営史)
→ 「学校教育を媒介として伝達・形成される知識・技術の質」「人材形成」(=社会化)
  「教育の過程で獲得された知識・技術の内容や、その有効性」(=レリバンス)
→ 学歴研究を経由することで「選抜・配分」の視点に傾斜していった


・Wastage 研究: 途上国の教育開発・教育計画(ユネスコ)、教育投資論/人的資本論
→「中途退学と原級留置という二つの現象」、「不就学」…人的資源/教育費の「浪費」
→ ウェステージの速やかな解消(不就学の改善・就学率の上昇)に成功した途上国・日本
→ 不就学・中途退学・原級留置…「政策的・実践的な、またきわめて現代的な問題意識」
→ 文脈を反転させ現在の教育社会学の主題に cf. 包摂/排除、酒井朗「学校に行かない子ども」


・教育計画論 : 教育政策・教育行政の「計画化」の歴史(/知識)社会学的解読
→ 「(1)教育の計画化を要請する基盤の成立と変容、(2)教育の計画化の思想と理論の成立と展開、(3)計画化の主体の形成と成熟、(4)政策・行政的な実践としての計画の出現」
→ 1971年中教審答申の前後という時代背景、のちの〈制度(化)〉〈システム(化)〉の発想


・高等教育研究: (旧制)専門学校/私学
→ 近代化の担い手・人材養成・「専門教育」・「速成」、法学商学系私学・「教養」・「実業」


☑「理論」ではなく、「対象」「問題」と、対象にかんするたしかな「事実」「知見」
「…構造=機能主義的な立場に立ったこれらの論文は、「時代遅れ」とみえるかも知れない。…しかし論文の価値は、主題や方法の時代との適合性にあるわけではない。…流行をこえて継承されるべき実証的な研究の積み重ね、蓄積がなければ学問の発展はない。そして私はいまだに、自分が近代日本の教育について確実な事実や知識としてなにを、どれだけもっているのか、…疑念を捨て切れずにいる」(天野1997: 411)


★(比較)高等教育システム論
名古屋大学時代Ⅱによる展開:M. トロウ
・「高等教育」: どの範囲の学校が高等教育か
・「システム」: 法的規定だけではない関係性(ただし「システム」はそう簡単に形成されない)


★教育社会学東京大学
☑学歴研究=選抜研究: 『教育と選抜』『試験の社会史』『学歴主義の社会史』『学歴の社会史』
・「学歴」の意味を「社会的地位」に還元して把握する枠組み(=選抜・配分)
・東大の院生を指導する立場
→ 70s欧米のネオ・ウェーバー(ネオ・マルクス)派の葛藤理論との対峙=「地位表示機能」
→ 初発にあった社会化(「人材形成」)や「レリバンス」への視点とはここで分岐
(→ 70sイギリスの「新しい教育社会学」=「スループット」)


☑院生 指導 との共同研究
トヨタ財団/カシオ財団研究助成: 「高等学校の進路分化機能に関する研究」
→ 以後の日本の教育社会学の一つの潮流へ
 e.g. 学校社会学、学校エスノグラフィ、「教育から職業への移行」研究etc.


丹波篠山: 『学歴主義の社会史』→ その後の「教育の歴史社会学」の里程標に
 cf. 野村正實『学歴主義と労働社会』


★高等教育三部作
☑プロセスを具体的にたどる歴史研究: 『大学の誕生』(形成/葛藤)、『高等教育の時代』(構造と機能)


★結論(論点の提起):研究キャリア初期にみる「未発の契機」をめぐって
☑研究キャリア初期の「未発の契機」: 『教育と近代化―日本の経験』『日本の教育システム』 


☑「通り一本」を越えさせる研究  cf. 菅山真次『「就社」社会の誕生』
・技術革新、労働力の「質」、「教育の過程で獲得された知識・技術の内容や、その有効性」
・学歴=選抜研究への転回とのある種の「距離感」⇔ 経営(史)学、労働(史)研究
・隣接諸領域を媒介し、それらとの接点で研究の有効性を発揮する

※参考資料
「天野郁夫『大学の誕生(上・下)』(中公新書、2009年)書評会――著者を迎えて」より抜粋
(平成22〜24年度日本学術振興会科学研究費補助金・基盤研究(B)「社会理論・社会構想と教育システム設計との理論的・現実的整合性に関する研究」第2次論文集(研究代表者・広田照幸、課題番号:22330236), 2013年所収)


広田照幸: ちょっと全然違う点をうかがいたいのですが、どうやったらこういう本が書けるのかというような話をちょっと聞きたいんですけど。
天野郁夫: ちょ、ちょっと(笑)
広田: いや、つまり何かというと、淡々とこの本は歴史が記述してあるように見えて、実はすごくシステマティックな枠組みで書かれている本だと思うんですよ。枠組みということを考えたときに、麻生誠先生の『大学と人材養成』(中公新書、1970年)の本が同じ高等教育の多様性の問題を扱っていますが、しかしあの本は非常に機能主義的な枠組みですよね。どういう人材が必要で、そのためにこういう学校ができましたというふうな。そういう機能的対応のようにして多様性が論じられているんですが、あの本と比べるとこれは葛藤論ではないかと思って読んだんですね。とくにウェーバー的な集団間の葛藤、威信を争う葛藤の物語として、この本は書かれている、と。だけども、そんなことは本文には一行も書かれていないわけですよ(笑) そうすると、社会学者としての天野先生の部分をださずにこの本を書いたときの、その作り方の思いみたいなものをちょっと聞きたいというのがあります。そもそも、この本の隠れた理論、フレームについての今の理解は適切かどうかという、そこら辺をちょっとうかがわせてください。
上山隆大: なんか、ゼミみたくなってきた。
――: (笑)
天野いや、葛藤論だとか何だとかいう以前に、制度の立ち上がりの時期というのは、どんな書き方をしても葛藤論的な枠組みを組み入れなければ、書けない、面白くは書けない。面白くというのは変だけど、ダイナミックには書けないということがあると思います。この次に書くのは『高等教育の時代』というタイトルになっていますが、これはもう葛藤論では書けません。
広田: ああ、そうですか
天野構造機能主義的な古い枠組みで書いています。僕ももう老人ですからね、あまり方法論や理論にこだわらず、好きなように書かせてもらっています(笑)
広田: 最初のところに、こういうフレームで歴史を見ていこうとか示してあればすごく分かりやすかったのですが、それが書かれていなくて。だけど、それを一つ一つの記述を通して読み取れというのがこの本で、最初少し読み取りにくかったのですが、あるところまでいったら、ああ、なるほどと、大体分かってきたわけです。
上山でもそれは、歴史の正統的な書き方じゃないですか。
広田: ああ、そうですね。まあ、われわれは一応、教育社会学という領域でやってきているから。歴史家はやっぱり違うということでしょうかね。
天野: これは、そういう意味では歴史研究。大体ね、近現代の百数十年というのは、社会科学にとって歴史的過去かどうかという問題もあるんじゃないか。・・・・・・
(中略)
広田多くの歴史家はどうしても事件とか出来事の方を、個別にどう説明するかにいくから、だから多分、全体としてこういうシステマティックな記述にならないんだと思うんですよ。
天野: それは、社会学的なレームワークが、僕のなかのどこかにしまわれていて、それを巧みに引き出しながら使っているっていうだけの話だから。
広田: ええ。パソコンに向かってさらさらと書いて、こんな、密度が高くて、そろったものは書けないから、きっとどっかにプロットがまずあるんだろうと思って。
天野: いや、ないですよ(笑)

二次分析研究会成果報告会週間

今週は東大社研SSJデータアーカイブ開催の二次分析研究会のうち、2つの成果報告会に出席した(例年複数行われており、今年は「参加者公募型」で2回、「課題公募型」では6つの研究会が立ちあがっていた模様。詳しくは東大社研SSJDAのページを参照のこと)。

ひとつめは月曜日、先のエントリでご紹介した自分のかかわるもの。未定だった第2部のコメンテータは東大社研・特任研究員の中川宗人さんにつとめていただく。コメントにレジュメ配布で臨まれたのは本研究会ではおそらく初。中川宗人さんには、橋本健二編『戦後日本社会の誕生』(弘文堂、2015年)所収の第4章「学歴主義の戦前と戦後―『京浜工業地帯調査』から見る学歴と経営身分」という論考がある。「京浜工業地帯調査」の「従業員個人調査」データセットの再分析にもとづくものである。前掲書のなかでも力作のひとつなので、ご関心の向きはぜひ。

第2部での議論とからめて一つだけ。

(以下、登壇者の報告やコメントについての言及はすべて私の記憶と編集という作為を経過したあとのものなので、ご本人の発言趣旨とはおそらく異なることに留意。)

相澤さんは、東大社研・労働調査資料のデジタル復元作業に着手した最初の研究者という立場から、ここで復元している調査・データを位置づける主旨のご報告。神奈川県民生部の委託で行われた1960年代前半の5つの調査は、明らかに氏原正治郎を中心としつつ、だがもう一方の軸には江口英一がいた。調査テーマは江口的(貧困・社会福祉社会保障)でありながら、調査手法は氏原的(「氏原工房」)。この2つのベクトルの狭間で――よくも悪くも――「放っておかれた」ことが、5つの神奈川県民生部=東大社研調査原票を今日までほぼ完璧に保存しえたことの背景にあるのではないか、と(ちなみに江口が勤務校に持って行ったとされる諸調査の原票はそのほとんどが散逸した)。

調査実施当時にすでに行われた分析を超えるような《歴史分析としての二次分析》はどのようにありうるのか――たぶんこうした分析を試みたことのあるものなら誰もが抱くであろう感懐。いくら現在の統計処理テクノロジーがめざましい進歩を遂げているとはいえ、最初に実施した調査が実態を切りとった元の解像度それじたいは変更のしようがないのだから、やれることには限度がある。それでもなお、このような作業を行うことにどのような意味があるのか。

ひとつひとつの調査は一時点の「スナップショット」であり/でしかなく、それ単体でやれることには限度がある。だがだからこそ、良質な調査の原票は積極的にアーカイブしていかなければならない――という面白くもなんともない答えが、一応現時点でのわたしの考えである。しかし、わりと頑なにそう思っている。一時点/局所にかんする調査を貯めていき、個々への厳密なデータ批判に立脚しつつ、それらの分析結果――あえていえば「記述的」なそれ――を相互に照応させることではじめて「その時代」の何かが浮き彫りにされていく。そういう大きなプロセスとして構想したほうがよい。ほそぼそとでいいので、着実に継続・継承していかなければならない。この復元作業のプロジェクトのなかで何人かの「当時の氏原=江口周辺を知る研究者」の話をうかがう機会があったが、その方々じしんが立案・設計・実施したいくつもの重要な調査原票がその後どこにも受け継がれず散逸する危険性のもとに置かれているようにも感じる。

違う言い方をすると、「分析」だけを研究者としての評価の対象とするのではなく、「データの整備」をきちんと業績として評価していく体制づくりが重要である。「それで飯が食える」ということ。ここはわりとまじめに提言したい。

「京浜工業地帯調査」の話に戻すと、あれは「従業員個人調査」だけに依存するのではなく、「職場調査」その他の調査資料とも照らし合わせながらデータ分析の結果を位置づけていくのがよい。あれ(「京浜調査」)じたい、複数調査の複合体として存在しているので、まさに「復元した複数調査相互の照らし合わせ」によってはじめて「何か」の像を明確に描きうるものなのだろうと思う。氏原の「性格」論文の第29表(とくに(3)(4)、『日本労働問題研究』だと378頁)が「本給(月給・円)」を単位として作表されていることには留意したい。

かわって金曜日、こちらは香川めいさんを中心に、ベネッセ教育総合研究所が2008年・2013年に実施した「放課後の生活時間調査」データの二次分析を行うプロジェクトの成果報告会、「子どもたちの過ごし方、暮らし方――『放課後の生活時間調査』2008年と2013年から」(PDF)。自分が生活時間調査データを抱えていることもあり、どのような問いを設定し、どういう分析手法を活用しているかを勉強しに参加。

個々のデータ分析から明らかになっている知見もたいへん興味深いものがあったが、それはまた論文化がなされるであろうから措くとして、香川報告の「系列分析」と三輪報告の「遷移行列/対数乗法RC(M)モデル」である。基本的にはある行動からべつの行動への移行あるいはシークエンスをどのように把握し、全体の構造をとりだすか、という関心のものと考えてよいだろう。

これまでなかなか扱いが難しかったタイプのデータなので、とりあえずいまは分析手法のアイディアをだして「やってみる」という段階かという感想を抱く。両報告とも職歴/社会移動で用いられていた分析手法の適用である。他方で、その分析で何を明らかにするのか、なぜそれを明らかにすべきなのか、というところはつねに押さえておきたい。チェピンの「多様性」指標はごくごく単純なものであるが、そこには人びとの「生活の質」をとらえるのだという明確な志向があった。

ともあれ、分析手法の開発は必要だし重要である。来年も報告会があるということなので、つぎはどういう発想でくるのか、目が離せなくなりそうなことである。

というか、なんかわかった風に書いているが、勘所はぜんぶ「感覚」で理解した「ことにしている」の現状であるので、あれをもう少しちゃんと理解するためにはもっと相当勉強しなければならない、という思いを強くした週末である。

っていう感じ。