根本問題

「話のポイントがずれている。これまで公教育から排除されていた異質な要素を新たに組み込むのだとして、それでもそれが『公教育』であるという、その新たな境界線はどのように引かれるのか。新たに構想されるべき教育の公共性、教育の公共的意義をどのように主張していくことができるのか――それこそがこの法案の提起した最も重要な論点であろうと思うのだが、その点について、何か展望をお持ちであればうかがいたい。」

大略、そのような主旨であったと記憶する。ある小さな法案をめぐって開催された、ある小さな勉強会の席でその質問が発せられたとき、私は思わず息を呑んだ。というのも、それはほとんど「『公教育』とは何なのか」という問いと同義であると思われたからだ。もちろん、というか少なくとも私が思うに、「公教育」とは何かという問いに対しては、歴史規定的な回答しか与えることはできない。だがそれでも、「公教育の歴史的概念規定」という教育(史)学の根本問題は、ひとりの社会学者がその場で回答(らしきもの)を与えるには、あまりに大きな問いに思われた。質問を受けた社会学者がそのあとしばし絶句した姿はしたがって、その者の知的な有能と誠実とを――その逆ではなく――雄弁に物語ったのである。質問を発した側の者と同様に。

その小さな法案、それも、そのままでは議会の審議を通る見通しもつかないような、ほんの取るに足らないものにも見えた法案は、しかし、たしかにそのように大きく歴史的な問いかけを含んでいた。そうであるがゆえに、私たちはその問題提起に真剣に向き合わなければならないだろうと考えたわけだ。

かつて私も少しだけかかわった著書に収録された橋本伸也と岩下誠による論考(橋本伸也「近現代世界における国家・社会・教育」『福祉国家と教育』(昭和堂、2013年、3-76頁)、および、岩下誠「「長い十八世紀のイギリス」における教育をめぐる国家と社会」同上書(79-97頁))を紹介したい。以下、長くなるが引用する。ブログという形式を考慮して、改行は引用者が適宜入れた。太字の部分も引用者によるものである。

教育史学の最重要概念であった「公教育」は、日本の戦後教育学の前提とした「公教育」概念に規定された偏りを有しただけでなく、歴史的実相から乖離して作られてきた抽象性ゆえの曖昧さを露呈している。(橋本 2013、8頁)

国家・社会の変容と関連づけながら教育のあり方を問うことを通じてもう一つ明らかにしておきたいのは、近代「公教育」という概念の妥当性という問題である。


日本の西洋教育史研究の枠組みを構築した梅根悟には『中世ドイツ都市における公教育制度の成立過程』(誠文堂新光社、1957年)という著作があるが、ここでいわれる「公教育」は、中世自治都市のそれであって、むろんのこと近代国家によるそれとしての意味を有さない。


他方、教育学の一般的(教科書的)理解において「公教育」ないし近代学校制度を確立させた歴史的契機は1789年のフランス革命期の教育改革論であり、1794年のプロイセン一般ラント法であり、あるいはイングランド1870年教育法制定や第三共和政期フランスによる教育改革であるが、いずれも世俗国家による教育支配に力点を置いたこれらの把握において、前ニ者と後ニ者との間には一世紀近い時間的隔たりがある。これら複数の「公教育」は、はたしていかなる次元で共約可能(あるいは不可能)な概念なのだろうか、問い直されるべき問題はここにある。(同上、15頁)

「公」ないし「公共性」の概念それ自体が非常に理解し難い概念であるうえに、「国家が「公共性」を独占する事態」の長く続いた日本の精神風土のなかで彫琢された「(近代)公教育」という用語が使われる際の「公」概念がいったい何を指すのかはきわめてわかりにくい。


しばらく前から多方面で論じられてきたユルゲン・ハーバーマスやハンナ・アレントを踏まえた公共性論のいう「公」と、教育史学が語ってきた「公教育」の「公」にはいったいいかなる接点があるのかも重要な論点である。


教育哲学などではこの点が理念的に論じられているとはいえ、歴史的実態に即しつつ教育の「公共性」を論ずる作業はそれほど進んではいない。(同上、15-6頁)

関連して、近代「公教育」の原則としてアプリオリに把握されてきた「世俗・義務・無償」という定式、そのなかでもとりわけ世俗性原則についての従来の扱いには重大な瑕疵があるといわなければならない。


この定式は、第三共和政期のフランスで確立されたものであるが、後述する通り、ここには19世紀を通じてフランスで闘われた「十字架と三色旗」の対立に起因する特殊フランス的な性格が刻印されていて、だからこそ今にいたるもイスラーム教徒のスカーフ問題に典型的に現れた宗教との緊張をもたらしているが、これを近代教育の一般原則と見なすことには無理がある


実際、イギリスの場合は、1944年教育法で宗教教育の義務化がはかられており、宗教的寛容を前提としつつ学校内で宗教教育を実施する例は多々見られるのである。むろん、近代を通じて宗教的寛容の広がりや国家と教会との分離、人びとの意識や規範における脱宗教化という意味での「世俗化」、さらに教会監督下にあった学校行政の世俗国家による掌握という意味での「教育の世俗化」といった歴史的過程のあったことを見逃すことはできないが、世俗性を「近代公教育のメルクマール」とし、それを基準に「公教育」を提示することは、歴史的実相を見誤らせるものだといわなければならない。


ヨーロッパに即して見た場合、国家と教会、社会が学校と教育をめぐって取り結んでいた関係構造の解明こそが必要な課題なのである。(同上、16頁)

この橋本による提議に対する岩下の応答より。

福祉国家」と「公教育」という二つの概念は、現在のわれわれにはきわめて親和的なものに見える。しかし、伝統的な教育史学史においては、必ずしもそうではなかった。


1950年代から60年代の革新的教育学にとって、福祉国家は部分的に労働者階級の諸要求に譲歩しつつも搾取と抑圧の構造を温存させた資本主義体制にほかならず、そこで組織される学校教育制度もまた、階級支配と搾取を隠蔽する大衆強化の装置にすぎなかった。


したがって、福祉国家下における「公教育」の内実は国家的公共性、換言するならば偽装された公共性として把握された彼らが公費支出をはじめとした国家による公教育概念と対抗するため、市民社会的な系譜において公教育概念を提唱したのはこのような時代的文脈においてであった


「世俗・義務・無償」といった伝統的教育史学における公教育のメルクマールも、教育の公共性を社会編成のあり方からではなく基本的人権としての学習権の保障という観点から定義しようとする思潮を具体化したものと見てよい。(岩下 2013、79-80頁)

マルクス主義市民社会論を折衷させた戦後教育学的な公教育理解は、70年代後半以降に退潮する。80年代から90年代にかけては、国民国家論、社会的再生産論、規律化論といった社会理論が導入され、それまでの戦後教育学の枠組みが批判されると同時に、歴史学者による教育史研究領域への参入が進むことによって、教育の持つ多元的な社会的機能が研究の焦点となった。


こうした諸研究は教育史研究の水準を引き上げると同時に、歴史学研究としても豊かな知見をもたらしたが、ここではその問題には触れない。ここでの議論のポイントは、教育の社会的機能の解明に比して、公教育の歴史的概念規定という作業が教育史研究の後景に退いたのではないか、ということである。


多くの場合、公教育は(福祉)国家制度と等値され、その官僚主義的閉鎖性や抑圧性が批判されることはあっても、かつてのように対抗的な公教育像が提唱されることは稀であった。90年代の教育改革において、新自由主義的な要素は文部省による限定と統制の枠内に収まるものであったため、この時代の教育史研究は、いまだ福祉国家批判と公教育批判という枠組みのなかで自らの政治的革新性を装うことができたともいえる。(同上、80頁)

しかし、2000年代のラディカルな改革を経験した現在では、状況は大きく異なっている。


第一に、福祉国家と教育の関係が再審されている。現在生じているのが福祉国家の退潮なのか、それとも再編なのかは慎重な検討を要するが、もっとも新自由主義的な政治体制下でも公費支出に基づく教育政策が促進されたり(ワークフェア)、公教育を通じた公共心の涵養が大きな政策課題となっている(教育基本法改正やシティズンシップ教育)。


第二に、教育供給主体に関しても、現在進行している事態は供給主体を単純に私的エージェントに還元しようとする動きではない。「小さな政府」を志向する潮流のなかにも、分権・参加を新たな教育の公共性として推進しようとする参加民主主義的要素が含まれている。「新しい公共」論に見られるように、新しいタイプの学校制度提唱論も、学校運営主体の属性にかかわらず公的な性格を持つことを強調し、それを自らの正統性の根拠としている。(同上、81頁)

つまり、現在生じているのは単純な私事化(プライヴァタイゼーション)の過程ではない。それは、福祉国家再編の過程にあって、さまざまな社会集団が自らの正統性を「教育の公共性」として提示することで、教育という領域が、複数の公共性が葛藤する場として浮上しているという事態である。


福祉国家と公教育がともに解体しつつあるという現状認識が正しくないとするならば、翻って福祉国家の形成と公教育の整備をともに介入主義的抑圧装置の展開とする歴史像も見直しが迫られることになろう。


橋本が「公教育の歴史的概念規定」という伝統的な教育学的課題をあらためて提示しているのは、それが歴史学的な課題のみならず、福祉国家再編の動きに対応した新たな対抗的公教育概念を提出することが必要であるという同時代的な洞察に基づいているように思われる。(同上、81頁)

国際的・歴史的にきわめて広い射程をもたらす視角と、特殊「戦後日本」的な文脈に焦点化する観点とが交錯するテクストであるが、たとえばかつて「私事の組織化」としてオルタナティヴな公教育像を提示しようと試みた模索などが、ここでは想起されていよう。

オルタナティヴ》――日本の直面する困難とは、教会と(世俗)国家とのあいだの「公教育」をめぐる苛烈な綱引きともいうべき歴史的経験をもたない社会において、《オルタナティヴ》な《公教育》の居場所を見出すことの困難であると言えるのかもしれない。あるいは、こう言い換えてもよい――国家的な「公教育」の立ち上がりにおいて捨て去った《もうひとつ他にありえた公教育》という原初的記憶をもちえない社会における困難だと。

あの質問のあとに流れたしばしの沈黙の時間には、少なく見積もってもこれだけの問題が厚く堆積していたのである。その歴史の重みに鑑みて、決して容易な問いでないのは明らかだ。

だがそれでもなお、そこに展望を見出そうとするならば、30年にわたって《オルタナティヴ》の模索を継続してきた運動家であり実践家でもある者が会の最後に語った、“教育における複数の《公》の――「対抗」ではなく――併存・共存”という構想のなかに、ひとつの可能性が宿るのかもしれない、とも漠然と感じた。

同時に、これをなにか日本の教育の「破滅」や「衰退」に通じる道だなどと考えるのではなく、そうではなく、《公教育》の《オルタナティヴ》をここまで問える程度にはわれわれの社会は成熟したのである、と、そうとらえたいと念じていた。