クラレンドンハイツの公営住宅団地、貧困を象徴する典型的な「住宅プロジェクト」に住むデレックは、同じ団地に住む他のティーンエイジャーたちに比べてかなり特異な教育歴をもつ。
きわめて学業成績優秀で――このこと自体プロジェクトに住む黒人の少年として特異だ――、3年生から8年生まで、合衆国連邦政府の奨学金で市のはずれにあるバーンズ学園という名門私立学校(プレップスクール)に通うことになった。8年生までの在籍期間中の成績はAやBばかりで、すぐに生徒や教師の尊敬を集めるほどの優秀さだった。
白人の上流階級ばかりの教育環境にも適応し、友人もたくさんできた。テキサスやメキシコ、マーサズ・ヴィンヤードで裕福な友人やその家族と一緒に過ごす夏休みも経験した。母親は私立学校に通えることになった息子が将来は大学に進み、弁護士になってくれることを夢みていた。
そのままいけばデレックは、アメリカン・ドリームの神話に輝きを与える貴重な確証となるはずだった。肌の色や貧しさにかかわらず、才能と意欲と努力さえあれば成功への道は開ける、と。
だがデレックは8年生でプレップスクールを辞め、9年生から12年生(日本の高校3年生)までは地元の公立ハイスクールに通学することを選ぶ。いったいなぜ?
デレック:勉強するのは好きだけど、多すぎるのは好きじゃないんだ。それで8年生でバーンズをやめたんだ。興味がなくなったってわけ。もうたくさんって思えるようになったんだ、[授業料の]請求書とかなんかがね。
著者:でも奨学金をもらってたんだろ。それでぜんぶ払えたんじゃないのかい。
デレック:ああ、いい成績をとってるかぎりはね。そしたら、政府が払ってくれるんだけどね。(83頁)
政府が代わりに払ってくれる。いい成績をとってるかぎりはね。
だが、学校から届く請求書の宛名は自分(の親)だ。一人で家族を支える母親だ。自分が基準の成績をとりそこねたら、その瞬間に母親は返すあてもない借金を背負うことになる。一瞬にして。
はたして10代20代の若者が、家族をプロジェクトから救出するか、さもなくば路頭に迷わせるかというような、そのようなプレッシャーのもとで勉学すべきものだろうか。続くものだろうか。
無理というものではないのだろうか。
いやできる。現に自分はそうして成り上がったのだ、という人もきっといるだろう。だが忘れてはいけない。この一人が耐えきってやり遂げた向こう側には、その何倍何十倍何百倍ものデレックがいるということを。数知れない前途有為の人材が、声も上げずにプレッシャーに削られ断念していった/いることを。
倫理的理念的に許されないというよりも、現実的にいって不合理である。社会の発展を阻害している。
ここ日本でも、国立大学の学費を(さらに)上げるという案を国の審議会が出してきた。それに対し、国立大学の学費を上げて教育機会が奪われるというのなら、奨学金で対応すればいいじゃない、という「合理的」な「対案」も出されている。だが、その「奨学金」はほんとうに、決してデレックを生みだすことのないよう細心の制度設計が払われたものなのか。そこでいわれる「合理的」は、いったい誰にとっての「合理的」なのか。
明晰で、誠実で、家族思いの青年ほど、自分が経済的な身の丈にあってない教育機会にチャレンジしつづけることの「リスク」の意味を鋭く察し、自ら進んで引きさがる。「前途有為」からの退却は、いつだって「自発的」だ。
一律に安価で良質な教育機会を用意することの社会にとっての「合理」性を、なぜそうまでないがしろにするのか。(誤解のないようにしてほしいが、現行の国立大学の学費はすでに国際的には「べらぼうに高価な水準」だと私は思う。)
デレックが大学に進学することはなかった。著者はその後のデレックがどうなったか、8年後の姿まで追跡調査をしているので、ご関心の向きは著書を直接参照されたい。10代20代の若者に、右手で教育機会を差し出しつつ、左手で請求書(学費)を突き付ける社会の姿がそこに描かれてあると、私は思う。
付記:
国際人権規約(社会権規約)中の中等教育・高等教育の漸進的無償化条項は、教育機会と引き換えに請求書(学費)を突き付けない、という原則を国際的に確認したものだ。この無償化条項に対し、批准以来長く「留保」を続けてきた日本政府も、ようやく国際公約として「留保撤回」を宣言したはずではなかったか。
国立大学の学費値上げなど、端的に「国際公約違反」である。
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