みなし

「教育の職業的レリバンス」というときに「レリバンス」なるものの存在を実体視する人が多い。むしろ否定派に多いかもしれない。だが某先生流にいうなら、それはまずは「みなし」の問題である。

実践者や推進派は「みなし」を「わがもの」としてやらないと「みなし」そのものが成り立たないから、それが実体としてそこにあるかのように振る舞うわけで。

そういう意味では「要は“みなし”です」と言ってしまっている時点で「それは(ムーヴメントとしては)どうなんだ」とは思っている。ここは「“みなし”が憑依する人」じゃなきゃ、とも思うが憑かないものはしょうがない。

いつの時代、どんな社会にも生きていくための喫緊の糧として「それ」が必要な人は必ずいる、という話を別にしても、教育内容が「職業的」に構成されていたほうが学習活動に参加しやすく、またポジティヴな学習経験を積みやすい人というのはたしかにいて、それもアカデミックなそれからは排除されがちな人たちのなかに必ず一定数いて、可能な限りそう人たちをも包摂する学習空間を構想するなら、「職業的」ということは追究されてよい一つの取り組みだと思う。

それ以上のものではなく、だがその程度のものは真面目に考えられてよい。

ともあれ、「職業的」であれなんであれ、この社会に必要なのは「教育のレリバンス」そのものへのもういくばくかの(真っ当な)信憑ではなかろうかと思うので、別にケンカしなきゃならないようなところでもない。

「教育」がそれ自体で「みなし」を生みだすことはない(そうであったら苦労はない)だろうが、それでも「みなし」に釣り合うだけの「中身」をそれなりに充填する、という営みは継続されねばならない。げに労多く、地道な仕事である。

先日、自分の講義で「対数関数」を説明する羽目になった。「こんな数学、何の役に立つんですか!?」というのはある種の若い衆が口にしたがるセリフだが、「どこから言えばわからんぐらい役に立ちまくりだわそんなもん」としか思わなくて、あらためてそんなことを思い出したという話。