『サウダーヂ』雑感

※致命的なものはないよう書いたつもりですが記事の性質上ネタバレ皆無というわけにもいきませんので、以下読み進められる方はあらかじめ悪しからずご了承ください。それと、万に一つの誤解もあってはいけないので蛇足ながら申し添えますと、私は同姓同名の映画評論家の方とはまったく別人の、社会学を生業にする、ただのしがない大学教員でございます。

ということで、今さらだけど富田克也監督作品『サウダーヂ』(2011年、制作:空族/『サウダーヂ』製作委員会)を観てきた。最初の公開期間に行きそびれ、その後全国各地の劇場で上映されるも日程調整しきれず、気がつけば上映館がなくなり、DVD化もしない方針と耳にして、先に立たない後悔の念に打ちひしがれていたところ、GWから5月10日にかけてオーディトリウム渋谷にて上映(35mmフィルム・英語字幕付き、167分)との情報入手により大願成就(おおげさ)。

すごくよい映画である。

だが「語る」ことの難しい作品でもある。なので、『サウダーヂ』公式サイトの作品情報から「イントロダクション」だけ抜粋。

『土方、移民、HIPHOP 『この街で一体何が起きている?!』


不況と空洞化が叫ばれて久しい地方都市。“中心”街。シャッター通り、ゴーストタウン。それがアジアNO1の経済大国と呼ばれた日本の地方都市の現状である。しかし街から人がいなくなったわけではない。崩壊寸前の土木建築業、日系ブラジル人、タイ人をはじめとするアジア人、移民労働者たち。そこには過酷な状況のもとで懸命に生きている剥き出しの“生”の姿があった。


街そのものをテーマに、実際にそこで生活している人々をキャスティングしてつくられたこの作品には、これまで日本映画ではあまり描かれる事の無かった移民たちの姿が描かれている。特に100年前に日本からブラジルに渡った日本人の子孫たちのコミュニティは国内において大きな規模を成している。移民の問題は世界的な課題であり、そこでは差別や経済格差、文化間の衝突は避けられない。

同じ場所に「ストーリー」の紹介もあるが、どこか違和感も残る(映画の「あらすじ」とは大体においてそういうものであるが)。

すでに富田克也監督のインタビュー(「サウダーヂ」が物語る日本の現状と行く末)がネット上で読めるので、どんな作品なのかはそちらを見てもらうのがよい。いやもちろん作品を直接観るのがいちばんよい。ところでこのインタビューは映画作品未見の人にもそれとして読まれるべき価値のある独立したテクストとして成立しているので、ぜひ一読されたい。

舞台は監督(1972年生まれ)の出身地でもある山梨・甲府。だが作品中に映しだされるシャッター通りの“中心”街や遠く山々をのぞむ土木作業の現場風景は、私自身が数年住んだ岐阜のそれと見紛うばかりである。あの独特の静けさ、におい、昼間の光、その翳り。だからこれは、まずは「ひと」ではなく「まち」、「日本の地方都市」を切り口にして現代の普遍的な何かに触れた映画なのだろうと思う。「映画を見終わったときに『この複雑さそのものが街ということなんだろう』という印象として残る内容にしたかった」という監督の狙いは、したがって成功していると思う。

「難しい」と感じたのは、映画を「語る」ときふつうに問われるだろう「だれが主人公なのか」という端的な質問にすら答えるのに窮する作品のように私には思えたからだ。その理由のある部分は――監督自身の言葉を借りれば――「複雑に構成されている場を捉えるべく、群像劇というやり方を選び」、「その上でひとりひとりの抱える物語を解決してしまうようなことはやめようと」、「とにかく『こういうことになっている』と放り投げるしかないと思」って採られた方法によるものだろう。だがそれとは別に、この映画を「語る」ときに私が立つことになる構造的な位置がもたらすものもあるだろう。あるいはどのような「物語」であれ何らかの「物語」を「物語る」ことの――かつてなら可能であったことの――困難それ自体が、その困難がもたらしうる悲劇まで含めて描かれてあるのがこの映画なのかも(だが今ごろその類の「困難」に見舞われる位置から発動された非対称な力学の結末を「悲劇」と呼ぶのはふさわしくないのかも)しれない。その意味では、上記のインタビューで監督自ら「『サウダーヂ』の主人公を演じた鷹野毅」とさらりと答えているのが印象的ではあった。

なるほど、鷹野毅が演じる「精司」を焦点に据えたときのストーリーは日本の低学歴・労働者階級が生きる世界(土木建築業)の現在、とでも言えようか。上記監督インタビュー(「サウダーヂ」が物語る日本の現状と行く末)より。

かつて僕らが中高生の時代は、たとえ勉強ができなくても、学校をドロップアウトしても、最後は土方をやればいいんだから、という感覚がどこかにありました。労働はきつい分それなりに稼げたわけです。


その例に漏れず鷹野をはじめとした友人たちも土方になっていったわけですが、この数年のうちに急激に仕事がなくなってきたと聞かされるようになりました。


会社を維持する為だけの様な安い仕事ばかり受注するしかないから、とにかく儲けを出そうとして工期を短くする。そうすると休憩時間なしで働かざるをえない。ただでさえきつい労働がさらにきつくなっている、と。

最後に近く、爆音鳴り響かせる「暴走族(笑)」(ぼうそうぞくかっこわらい)のバックに流れ始める「わがままジュリエット」とともに歩く「精司」、その後照明が落ちた真っ暗闇の中心街アーケードをなおも歩いていく後ろ姿。

いや、立ちすくんでいた、かな。重要なところだけど記憶が定かでない。。。たしか振り向いていた画は覚えている。あまりに岐阜・柳ケ瀬と瓜二つの情景だったので「アーケード」というのも私の記憶の混濁がもたらした勘違いかもしれない(甲府の中心商店街にアーケードになってる一画はある)。

「精司」とその脇をかすめ走っていく「暴走族」の彼らとのあいだに、そしてBOØWYが歌う「わがままジュリエット」と「スモールパーク」や「アーミービレッジ」の歌うHIPHOPとのあいだに流れた時間は、日本の「失われた20年」にそのまま重なる。

「ビン」も含めた日本人アラフォー男性と、その消費の対象としての「タイ」という記号、の件は西原理恵子による作品のいくつかを思い起こさせる。

でも繰り返しになるけれど、この作品はやっぱり「街」を描こうとして、そしたら同じ街に住んでいるんだからブラジル人やタイ人も必然的にストーリーに入ってきて、そこに「あらゆる人種や世代、格差があり、縦や横の構造が入り混じって」いる現状をそのまま、「僕たちは『あらゆる難しい問題を抱えて生きているのだ』ということをそのまま提示」した作品で、そしてそれに成功した作品だと思う。だが念のために言えば、もちろんその「そのまま」はやはりほんとの「そのまま」ではありえない。

たとえばイギリスのケン・ローチ監督の作品と比べると、扱う対象(というかテーマというか)や、舞台の一つとなる労働者向け住宅団地の情景や、実際にそこで生活している人々をキャスティングするといった手法にみられる類似性の一方で、なにより「ひと」にフォーカスするところから描いていくケン・ローチとの距離は遠いとも感じる。

「サウダーヂ」という言葉がある。だがその言葉は作品中で別のものを意味する余りにも即物的なある呼称と聞き間違えられて唐突に現れ、どこにも繋ぎとめられず、あっけなく流れ去っていく。意図したものであろうとなかろうと、その聞き間違えには意味がある。“それ”は“そこ”に溢れている。そして、ポルトガル語を理解しない者にも、それぞれの場所でそれぞれのサウダーヂが。「あなた、よく知ってるね」――だがその会話は徹頭徹尾すれ違う。

だからやはり、「精司」が主人公、とだけ言われてしまうと違和感が残る。観る者は「ミャオ」や「デニス」のストーリーを、あるいはブラジルに帰るかフィリピンかそれとも日本に残るかをやがて選ぶことになるだろう家族のストーリーを思わざるを得ない。「Ufo-Kこと天野猛」の物語途中からの「変調」と照らし合わせながら。

注意深く彼のラップや発言に耳を傾けていれば、当初彼の批判や不満の矛先は、「腐った」日本の政治や既存のシステム、自らのラップに込められた批判意識を聴いてもおらずただ騒いでいるだけの「バカな」聴衆、あるいはタイパブに恋愛気分で入り浸り、誘った自分に奢る気もない「醜い」年長世代、そんなタイパブの飲み代一回で消し飛ぶ自らの「クソな」低賃金、といったところに向けられていたはずだ。だがその憎悪はやがて異なるターゲットに照準する。

排外の気運――「最近、外国人が多いけれど、あいつらが俺たちの仕事を奪ってんだぞ」という劇中のセリフには、しかし、現実には根拠がない。にもかかわらず、

漠然とした総体のイメージとして、「外国人が多い=自分たちの仕事を奪っている」という印象が出来上がってしまい、それを頼りに話をしている。あやふやな話だけれども、“なんとなく”そういうことになっていってしまう。(前掲「『サウダーヂ』が物語る日本の現状と行く末」より)

「天野猛」でありラッパー「Ufo-K」でもある彼はやがて「ブラジル人に脅かされる自分」という強迫的なイメージに囚われる。だがそもそも、彼は「デニス」が何を歌っているのか、同世代のブラジル人の聴衆が「デニス」のどんなメッセージに、なぜ呼応しているのか、理解できていないのだ。想像しようとすらしない。にもかかわらず。だからこそ。

個人的にはアラフォー日本人男性よりも、日系ブラジル人「デニス」率いるHIPHOPグループ「スモールパーク」の歌詞や、昼間に介護の現場で働いてるほうの「まひる」の姿(というかその夜の姿との危うい均衡)や、日本人HIPHOPグループ「アーミービレッジ」の「Ufo-Kこと天野猛」の弟「幸彦」を思いやる兄としての姿に、そしてパチンコで勝った「はした金」を手に喜び勇んで帰る両親に馬乗りに殴りかかる姿に、思うところはある。あるがしかし、今それを十全に表現する言葉を手にしていないところに、これまで自分が考えたり書いたりしてきたことの一面性というか底の浅さを思う(どんな見方も一面的なものでしかないにせよ)。

再三触れている監督インタビューで、作品の話から少し離れて、映画製作という自らの仕事に即して語られる「ある職業を夢の実現と考えて、それに邁進した結果、精神を病んでしまう人がかなりいて、それなら仕事を生活の“一番”に置かずに生きる方法を探るほうがよほどいいかもしれない」との言葉も、どこか作品のテーマと通底する。

それにしても、日本でこういう映画が作られるべくして作られる時代になったのだな、と思う。その意味でも必見の秀作である。

ところでここまで書き忘れていたが、宮台真司氏は好演である。

自分が勉強してきたことに近いところで言うと、ひとつの流れはPaul Willisの古典Learning to Labour: how working class kids get working class jobs『ハマータウンの野郎ども』(ちくま学芸文庫)以降のものとして、Learning to labor in new times, edited by Nadine Dolby and Greg Dimitriadis with Paul Willis, RoutledgeFalmer, 2004 など。ただしこの流れからアプローチできるのは上述したような現代の「街」に錯綜して何本も走る断層のごく一面に限定されるだろう。これが最善の入口かどうかは大いに議論の余地がある(というか「違う」としか思えない)。むしろ Les Back, New Ethnicities and Urban Culture: Racisms and Multiculture in Young Lives, Rotledge, 1996 あたりがいいのか。あるいはジャック・ドンズロ(宇城輝人訳)『都市が壊れるとき:郊外の危機に対応できるのはどのような政治か』(人文書院、2012年)も映画鑑賞中には想起せざるをえなかった。ちなみに関係ないが最前者の紹介ついでに、Charles Walker, Learning to labour in post-Soviet Russia: vocational youth in transition, Routledge, 2010 も結構面白い。関係ないが。

話が逸れたが、散漫に書き散らかした本エントリ中のキーワードのいくつかに関心をお持ちの首都圏在住の方は、5月10日までにオーディトリウム渋谷に足を運ばれるべきと思う。

あそこのイスは3時間近く座ってもケツが痛くなることはない(※個人の感想です)。

ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)

ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)

Learning to Labor in New Times (Critical Social Thought)

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都市が壊れるとき: 郊外の危機に対応できるのはどのような政治か

都市が壊れるとき: 郊外の危機に対応できるのはどのような政治か