「生きる力」(泣)の歴史観:後編

さて、と(また長いよ、中身ないけど)。

戦前について『近代日本カリキュラム政策史研究』(風間書房、1997年)、戦後について『現代日本の教育課程改革 ―― 学習指導要領と国民の資質形成』(風間書房、1992年)、という分厚い実証研究の方は参照しておらず、この本(『学習指導要領は国民形成の設計書』(東北大学出版会、2010年))の内部だけで話をする(きちんと勉強すべき人は↑の2冊へ)。

たとえば大田堯(編)『戦後日本教育史』(岩波書店、1978年)の後半(3章・4章;いわゆる「逆コース」から60年代・高度成長期にかけて)のように「国民教育運動」に棹さしながら「教育の国家統制」批判の論脈と歴史像とをシンクロさせる叙述――端的にいえば「文部省vs.日教組」図式のもとで後者にコミットした歴史像の構築――のタイプと対照したときに、どのような歴史像として読めるか、あるいは“あえて”読み込むか、という問題関心に限定した読み方をする。

これも苦行の一環であるからな。

そうすると大田編(1978)のような冷戦構造=55年体制的な、2項対立図式的な、あえていえば政治主義的な「国民教育運動」史観(まあちょっとアレなネーミングだが許してほしい)と比較すると、本書の記述には3つの構成要素が織りなすプロセスとして明治以降の日本の教育(課程)史を描く歴史観が底流を流れるように思う(そんな感じで読んでみよう)。

明治以降、今日に至るまでの日本における近代学校の教育課程の展開が〈科学技術主義〉−〈復古的道徳主義〉−〈自由教育=自己教育力主義〉の3項のせめぎあいの過程として描かれる(※注意:3項の〈 〉内はいずれも私の造語である)

〈科学技術主義〉とここで呼んだのは近代産業社会の発展に必須の科学的・合理的知識/思考力の育成を重視する立場である。

〈復古的道徳主義〉というのは明治初期には相互に矛盾をはらでいた「儒教主義道徳(「忠君」)」と「天皇イデオロギー(「愛国」)」とが「忠君愛国」というイデオロギー的合成物として教育勅語に結実して以降の「道徳教育」を重視する立場である。

〈自由教育=自己教育力主義〉とは――言葉はこなれていないが――大正自由教育を端緒として日本に普及する「児童中心主義」を源流として参照しつつ発展する、現代でいうと、いわゆる「新学力観」に象徴される「自己教育力」の育成を重視する立場である、ととりあえずは整理しておく(※注意:再度強調するが、全部、私の勝手な整理である)

ここまで書いて、なんかどっかで目にしたことのある「図式」だな、とそのあまりの既視感になぜかと考えて気づいたが、これは広田照幸『日本人のしつけは衰退したか――「教育する家族」のゆくえ』(講談社、1999年)であげられていた戦前期・新中間層の教育意識にみる3要素とかぶっているではないかw(57-63頁)

すなわち、「童心主義」「厳格主義」「学歴主義」の3要素。「厳格主義」「学歴主義」がベクトルこそ異なれ〈子どもらしさ〉を克服の対象と見、規律・訓練・監督による大人の介入を是とするのに対して、「童心主義」は〈子どもらしさ〉の尊重、自由と自発性の重視した「のびのび」型教育観であることにおいて対立する。しかし、「童心主義」「厳格主義」が人格中心の教育観であるのに対して、「学歴主義」は知識中心の教育を求める点において対立する――といった教育意識の錯綜性・複合性が指摘されておる(大正期の教育雑誌『家庭及学校』の内容が紹介されている)。

のみならず、広田によれば、

実をいうと、これら三つの志向性は、当時の学校教育自体の中に対立しながら存在していた。その意味では、学校教育と同じ教育目標を意識的に追究しはじめた新中間層の親にも、これら三つの方針を見出すことができるのは当然のことであった(58-59頁)

という。

広田はここで出典を明記していないし、その後この話をふくらませてもいないが、もしかしたらここで想定されていたのは本書の著者(水原)による上述の戦前期・教育課程史の研究成果だったのかもしれない(明後日――っていうか明日っていうか――本人(広田)に聞いてみればよい)。

あるいは戦前の教育史を勉強している人にとっては常識なのか。

ともあれ、本書は一貫してこの3項構成のせめぎあいとして戦前から現代までの教育(課程)史を描いている本だ、という読み方で内容を整理してみる。


【1章:近代的人間像を目指して―近代学校の創設と1872年小学教則】
1872年に学制が頒布された当初、明治初期の教育課程は欧米の翻訳・模倣に終始し、近代自然科学に大きく傾斜した知育偏重のカリキュラムで、教科という教育固有の概念も成立していなかった。道徳教育の要素も皆無であり、上述の3項でいえば〈科学技術主義〉一辺倒の教育課程であった。


【2章:新知識を有する儒教的人間像―開発主義と儒教道徳の1881年小学校教則綱領】
だがやがてそうした欧米の模倣に徹する近代化の進展が日本の「風俗ノ敗レ」をもたらしたとして、道徳教育(「修身」)を強調する立場が現れる。

本書は、そこでは「近代化の開発主義」_と_「天皇イデオロギー」_と_「儒教主義道徳」_との間の論理的「不」整合性をどのように克服し、矛盾を抱える理念と利害とを接合するかという点に教育課程編成の最大の課題があった、とみてとる観点を提示する。

上に整理した3項に対応させると、「近代化の開発主義」は〈科学技術主義〉の系であり、「天皇イデオロギー」と「儒教主義道徳」はのちに〈復古的道徳主義〉へと合流するが、この時点ではいまだ接合ならない相互に独立した2つの源流である。ここではまだ〈自由教育=自己教育力主義〉の教育観は不在である。


【3章:天皇制下の忠君愛国の臣民像―教育勅語と1891年小学校教則大綱】
日本の近代化が直面したこの課題を理念のうえで乗り越えるために編み出された、「忠君」(という封建思想)と「愛国」(という近代思想)とのイデオロギー的接合の結実(「傑作」)として「教育勅語渙発の歴史的意義が位置づけられる。以後の教育課程政策でつねに参照される1つの軸としての〈復古的道徳主義〉がここに現れる。


【4章:民本主義の産業社会で実用的な公民像―産業革命と1900年小学校令施行規則】
大正期には周知の通り、児童中心主義の観点に依拠して実験的な教育課程編成と教育方法とを新たに追究する試みが「大正自由教育」「新教育運動」という形をとって展開する。以後の教育課程政策で参照される1つの軸としての〈自由教育=自己教育力主義〉の系譜がここに誕生する。

これはいまでいう「総合的な学習」にみられるような合科的・体験的学習を重視するものであり、著者自身も明らかにこれにコミットしている。その著者が何度も強調する言葉を用いれば、それは「自己教育力」の育成を教育目的として最重要視する立場である。

他方で、臨時教育会議(1917(大正6)年)の議論以降の流れを追うなかで指摘されるのは、高等小学校が「産業革命」を経て大衆化段階を迎えるに至り「国民大衆の完成教育機関」としての位置づけを与えられながらも――あるいは与えられたがゆえに――「中等教育への進学準備教育」と「実業教育重視路線」との相克が顕在化する局面を経て、初等「後」教育への産業界からの要請を受けて最終的に「実業教育重視」へと収斂していくという、高等小学校(と労働者養成)をめぐる大正期の政策的プロセスである。上に整理した枠組みによれば、これは〈科学技術主義〉のなかでの具体的な路線選択の問題であろう。蛇足だが、今日の中等「後」教育の「職業的レリバンス」や具体的な制度化の方策を考えるうえで得られる示唆は大きい(そうパラフレーズして考える力のある人には)。

ここでようやく3項とも出揃ったので、あらかじめの見立てを簡潔に述べておく。

すでに指摘した通り、著者は〈自由教育=自己教育力主義〉(←繰り返すが私の造語であって著者はこんな言い方は一切していない)の立場にコミットしており、この優先要素を前提にさえ据えれば他の2項は「要はバランスをとることがなにより」というぐらいに考えている/としか考えていない、のではないかと思われる(そしてそれは十分妥当な教育観だと私は思う)。

しかし、著者が提示する歴史像によれば、この〈自由教育=自己教育力主義〉がなかなか十全には発展していかない要因がその後の歴史にはあって、そのための紆余曲折、というものを描いていくことになる。

「十全には発展していかない要因」というのには大きくは2つあって、1つは、これら3項がそれなりにせめぎ合う、矛盾と葛藤を含んだ関係にあるから、ということ。もう1つは――こちらがここではより重視したいポイントなのだが――、戦後の冷戦構造=55年体制がもたらした教育界におけるイデオロギー対立の構図と高度経済成長の達成そのものが、この立場に依拠した教育の発展を阻害する要因だったというのである。

そういう観点をとる著者によれば、不毛なイデオロギー対立(「文部省vs.日教組」)の終焉した90年代以降の教育課程政策の展開は、あるべき立場(〈自由教育=自己教育主義〉)の発展する条件がようやく整いつつある世界、というわけだ(←決めつけ)。


【5章:皇国の道へ「行」的錬成に励む皇民像―軍国主義の1941年国民学校令】
前者の歴史観(せめぎあい史観)がもっともよく発揮されるのが、軍国主義下の1941年国民学校令を扱った5章である。

軍国主義・「皇国の道」へとひた走ることになる昭和戦前期において、一方で「万世一系」の天皇を翼賛する「皇国ノ道」の教育方針(≒近代合理主義的思想の排除)が採択されるが、同時に、科学・技術戦争という性格も帯びた第2次大戦に打ち勝つための合理的な科学的思考の育成も強く――いやむしろそれこそが――求められたことが、本章では正しく指摘される。

後者の目的(科学・技術戦争に打ち勝つために必要な科学的思考の育成)のためには、「真理追求に熱意を持ち科学的研究のできる子どもを育てるため」の「真の知育」が施されるべきであって、「上からの詰め込み教育では、創造力のある子どもは育たないし、自立した科学を創り出すことは不可能である」。したがって、これら要請の両立を図るために、「自ら考へ、自ら創造する能力のある人間(皇国民)を錬成する」ための「行」的教育方法が採用されたのだという(80-81頁)。

「行」的教育方法――「児童の全能力を錬磨し、体力、思想、感情、意志等、要するに児童の精神及び身体を全一的に育成する事」を通じて生涯にわたって自己修養できる持続性を形成することを目的とした「一種の新学力観」――にもとづいた国民形成。著者はこの戦時期の皇国民錬成のための「行」的教育方法を指して、「理論的には、児童・生徒の自発性と経験を重視し、活動的で合科的な授業を展開した大正自由教育の成果を継承する側面があ」ったと指摘する(82頁)。

自由主義思想の公的認定になってしまうことによる治安上のリスクを犯してでも「綜合教授」(合科教授/実験的・実践的・体験的活動を通しての学習)による効果的な教育を展開したかった文部省の思惑(88頁)を、「たんに各教科などの領域の知識を与えればよいというのではなく、それらが確実に機能するための能力を育成することが要請されてい」たことの現れとして読み解く歴史観(93頁)。

観点を変えれば、国民学校では、そのリスクを犯しても、合科教授による効果的な教育を展開したかったのです。実際、教育課程表を見ればわかるように、5大教科にして一定の合科学習が予定されていましたし、教科書についてもその種の融合された教材開発が期待されたのでした。(88頁)

だが戦時期にここまでみられた〈科学技術主義〉と〈自由教育=自己教育力主義〉との接合が果たされ発展していく可能性の萌芽も、軍国主義という〈復古的道徳主義〉の極北のもとでは「神がかり的な臭み」(94頁)へと「行」的修錬が歪んでいく結果となり、ついに開花することなく終わる、という叙述がなされる。ここらあたりに本書の底流を流れる著者の視点の1つが集約されて現れるように思うのだが、いかがか。

【戦後】

しかし、そもそもなぜ教育課程政策は、なによりもまず〈自由教育=自己教育力主義〉に準拠しなければならない必然性があるのだろう。

著者の結論から言えば、それは「批判的思考力」に根ざした「思慮深さ(反省性)」を資質として備えた市民像に近づくために不可欠な教育であるから、ということになろうか。

しかし、それは戦後改革そのものが目指した「民主主義社会を担うことができる知識とスキル」の育成という教育目標の系譜にも連なるものであろう(【6章:第2次大戦後の民主主義社会を担う市民像―経験主義の1947年・1951年学習指導要領】)。

だとすれば、ここにあるのは大田堯(編)『戦後日本教育史』におけるような「国民教育運動」史観にも棹さす、同系の教育観・歴史観なのか。

違う――だが、どのように?

〈自由教育=自己教育力主義〉はある場合には〈科学技術主義〉と親和的に接合した教育観へと傾く可能性もあるが(e.g. 5章「真の知育」)、背反することも――当然――ありうる(e.g. 戦後改革から50年代にかけての/あるいは近年の学力論争)。また〈復古的道徳主義〉とのあいだでも、ある場合は順接し(e.g. 5章「皇国民錬成」)、ある場合は背反する(e.g. 10章・臨教審における新保守主義路線との反目)。

おそらく本書の著者にとって、「国民教育運動」型教育(観)も、それが「上から与える教育観」に依拠する限りにおいて、イデオロギー的にはそれと激しく対立した「国家統制」型教育(観)とまったく等価――等しく無価値――なのだ。

「国民教育運動」型教育(観)は、自らが敵と見立てた「国家による教育統制」の立場に立った〈科学技術主義〉――「能力主義」教育――や〈復古的道徳主義〉――「逆コース」以降の教育政策の反動化、「愛国心」教育――と激しく対立し、戦後改革で目指された「民主主義社会を担う市民の育成」を教育理念として対置した。だが、本書の教育観・歴史像からすれば、それもまた一方的な「正しさの押しつけ」に堕すものである限りにおいて、やはり同等に忌避されるべきものなのである。

                 〈自由教育=自己教育主義〉
                        ↑↑         
                        ↓↓
===================================
「国家統制」型教育観  :  〈科学技術主義〉 −〈復古的道徳主義〉
                       対↑        対↑
                       立↓        立↓    
「国民教育運動」型教育観: 〈「能力主義」批判〉−〈「愛国心教育」批判〉
===================================


【7章:経済復興に努力する勤勉な国民像―系統主義の1958年・1960年改訂】
だから、「国民教育運動」史観が冷戦構造の確立以降の教育政策の反動化、いわゆる「逆コース」を厳しい指弾の対象としたのに対して(大田編『戦後日本教育史』第3章)、それからみれば本書の記述にはかなりの温度差がある。

[1958年小・中/60年高等学校学習指導要領改訂は]米軍による占領から独立して初めての本格的な改革であり、戦後改革の理念を転換する大きな修正であることが確認できました。この時の想定された人間像は、イデオロギー対立の中でもゆるがない道徳的信念を持ち、かつ科学・技術力を有して、経済復興に邁進する勤勉な国民像と言えます。(135頁)

道徳的であるというのは、イデオロギー対立が深刻な時代、しかも世界的な冷戦構造において、自由主義の穏健な思想と共産主義に対して揺るがない道徳的信念が重視されました。共産主義を報じるソ連と中国が、しだいにその勢力を伸ばし、思想的な影響を日本にもたらし、労働運動などを通してかなりの広がりを見せていましたので、自由主義の精神と日本の伝統的な道徳を教育することが必要とされ、道徳の時間が設置されたのでした。ですから道徳教育の本当のねらいは対共産主義にありましたが、実際の道徳教育の内容は自由主義と伝統的な社会規範そのものでした。学習指導要領では、穏健な考え方を有し、経済復興を担って勤勉に働く国民像が想定されていたのでした。(135-136頁)


【8章:高度経済成長下、生産性の高い目的追求型の国民像―構造主義の1968・1969・1970年改訂】
そして、安保闘争を経て60年代に入り「所得倍増計画」に応じて打ち出された経済審議会教育訓練小委員会の「所得倍増計画にともなう長期教育計画」以降の展開に対する評価も、「産業界の要求への教育の従属」と国家による教育制度の「能力主義」的再編を「差別教育」だとして厳しく非難する大田編『戦後日本教育史』(第4章)と比較すると、本書のそれは対照的である。

本書によれば、経済成長のための経済計画と教育計画、人材開発計画と「全国一斉学力テスト」の時代の「教育の現代化」も、高度科学技術人材育成と教育への科学的方法の導入といった側面はあくまで事の半面であり、その全体像はむしろ人間形成における「調和と統一」を目指すところにあったという。

日教組や大田堯・勝田守一などの教育学者によって]そのような批判や理論的課題が提起されましたが、政策としては、所得倍増計画と高度経済成長路線とを具体化する教育計画を遂行する時代にありましたので、1968(昭和43)年改訂の学習指導要領では、よりいっそう現代科学の成果を反映させるための、高度で科学的な教育を進める「教育の現代化」の方針が打ち出されることになりました。(144頁)

ただし、本来は、この時の改訂のねらいは「調和と統一」に主眼がありました。・・・(中略)・・・「調和と統一」ある人間形成が求められました。高度経済成長の過程でテスト主義の競争が熾烈に展開された結果、青少年に過度のゆがみが生じてしまいましたので、十全な成長発達を求める「調和」の理念が打ち出されたのです。(144頁)

また、「統一」というのは、国家的国民的統合性の問題で、高度経済成長過程での階層分化と反社会的行為の増大に対応した理念です。それで、・・・国家社会への「責任感と協力の精神」が強調されたのでした。(144頁)

「階層分化」や「過度のゆがみ」「反社会的行為の増大」といった「現状認識」を括弧に入れずに叙述することへのツッコミは今は措こう(さんざん前エントリでやっている、もうおなかいっぱい)。

ポイントは、著者がこの「教育の現代化」の時代の学習指導要領に対して、(「国民教育運動」史観が目の敵にする)「期待される人間像」(1966年中教審答申)の枠には収まりきらない教育的な意義と可能性とを認めている点である。

その意味では、「教育の現代化」は「期待される人間像」とは矛盾する新しいコンセプトの教育課程でした。児童生徒の経験や実験を大切にして「発見学習」を導入し、かつ学問への構造的な認識を獲得させる考え方は、まさに経験主義と系統主義を止揚して教育課程を現代化しようとするものでした。高度に科学・技術が発展した時代にふさわしい思考法が入っており、新しい資質を有する国民像が提起されていましたが、それは成功しませんでした。(156-157頁)

「新しい資質を有する国民像が提起されていましたが、それは成功しませんでした」。

なぜか?

[なぜなら]一言でいえば、教育現場不在であったと言えます。(157頁)

すでに文部省と日本教職員組合とはイデオロギー対立と不信の関係にあり、・・・(中略)・・・教育現場からの声は届かず、むしろ、この時代は高度経済成長をめざす産業界のニーズが優先されたのでした。(157頁)

つまり、文部省と日教組とのイデオロギー対立と不信の構図こそが「教育現場」――日教組の政治主義とは独立した存在として想定されている「教育現場」――からの「声」を教育課程政策に反映させる回路を封殺し、高度成長をめざす産業界のニーズの優先(のみ)をもたらすことになったと著者はいう。


【9章:成熟社会で多様な価値観の国民像―「ゆとり」志向の1977年改訂】
周知の通り、「教育の人間化」への方針転換と評価される77年の学習指導要領改訂は、現代までつながる「ゆとり」路線へと舵を切った転換点である。高度経済成長の達成によって「成熟社会」の局面に入った日本の社会と教育は、それゆえの困難を抱えたのだという。

先進国に追いつき・追い越せという共通の目標を見失い、高度経済成長の果てに何を目指すべきなのか、見えなくなりつつありました。・・・(中略)・・・成熟社会における「人間化」とはいったい何なのか、一人ひとりが自己実現をする生き方をするとしても、その自己実現は何を実現することなのか・・・(中略)・・・従来型の進路指導や道徳教育で対応することが、大変むずかしい時代に入りました。(174頁)


【10章:生涯学習社会を自己教育力で切り拓く国民像―新学力観の1989年改訂】
【11章:不透明な情報化時代を生き抜く国民像―「生きる力」志向の1998年・2003年改訂】

そこで「生きる力」ですよ。

ご記憶だろう、前エントリでめくるめく時代状況説明が繰り広げられたのは、10章・11章のこの局面である。

「新学力観」(10章)→「生きる力」(11章)→「活用能力」(12章)との流れを貫く基底には、著者いうところの「自己教育力」の育成という課題がある。

「自己教育力」の育成という課題が喫緊のものとして共有されるためには、日本社会は伝統的なモラルでは理解不能な享楽的な文化で満ちていて(e.g. ピンクレディー)、子どもは自然体験や子ども同士の集団遊びの契機を喪失し(e.g. ウォークマン)、日本経済は新たな経済秩序が要求する世界標準から取り残されて窮地に立たされており(e.g. 中国)、国民は勤勉さを失い(e.g. 受験競争にやぶれた後の青年の心境w)、青年は正義感を失って利己的なだけの存在となってしまい(e.g. スーダン)、学校ではいじめと冷笑が横行しながらも「人間的な鍛えの弱さ」ゆえに抗しようもなく時代に押し流されてしまい「癒し」として「卒業」を歌うしかない脆弱で自信を失った子どもたち(e.g. 尾崎)で溢れかえっている必要があるのだ。

逆ではない。

本書の著者がギャグであのようなことを書きつけたのでなく、なにかの病気を発症したためでも、もともとちょっとアレな人だったのでもないという前提であの記述の発生する淵源を説明するには、↑こう考えるしかない。本人は無意識だとしても。

われながら、親切なことだ。

「新学力観」――思考力・判断力・表現力・論理的思考力・創造力・直観力・情報活用能力(←挙げりゃいいってもんでもないだろう)の諸能力を結実させたところの「自己教育力」(187頁)――で水路づけられた〈自由教育=自己教育力主義〉の流れは、「生きる力」をテーマとした98年改訂で「総合的な学習の時間」の設置をもたらす。

著者が文部省内「教育課程に関する基礎研究協力者会議」から求められて教育課程の改革案を提出したのはこの直前(95年)である。本書11章の記述も、したがって、著者がなにを提言したか、の解説なのだ。

それによれば最大の教育課題は「知の総合化と主体化」ということなのだ。

文化伝達機関である学校は、これまで「縦割りの教科」の構成にもとづいてその機能を果たそうとしてきたが、著者によれば、それでは「どうしても伝えることのできない部分を相当残さざるを得ないことに」なる。

また従来は「縦割りの教科」による教育が、受けた子どもの側で「総合化」され各人固有の主体的な知性や感性の形成という「主体化」を遂げることが「予定調和的に考えられて」きた。

だがそれは「総合化」を支えてきた基盤であった自然体験や子ども同士の集団遊びの契機の衰退と、各教科の水準の高度化・内容量の膨大化とによって、もはや機能不全を起こしている。これまでなら特別活動と道徳教育が「知の総合化と主体化」を補助する機能を負ってきたが、それも種々の要因で縮小傾向である。

そこでカリキュラムの構成それ自体を「知の総合化」と「知の主体化」を中核原理に据えた構成に変える必要がある、というわけだ(以上、208-209頁)。

んでまあ、実際そういう風に学習指導要領も変わったと。


【12章:グローバルな知識基盤社会で活躍する日本的市民像―「活用能力」志向の2008年・2009年改訂】
著者によれば、学力低下批判を受けて「確かな学力」への補正措置をとった2008年・09年の改訂は、前の学習指導要領(「生きる力」志向の教育課程)の熟成版だそうである(247頁)。

ちなみに「生きる力」志向の学習指導要領(98年改訂版)は2003年にOECDが提案した21世紀の青年に求められる資質としてのキー・コンピテンシーを先取りしていたのだ、と文科省は自負しているらしい。

しかし著者によれば、日本の「生きる力」と、OECDのキー・コンピテンシーとでは、その核心部分である「思慮深さ(反省性)」への力点の置き方に違いがあって、なお日本の「生きる力」には弱さがある、と。最後にこの点を「教育の戦後史」の観点と絡めて指摘しておこう。

なぜ/どのような「弱さ」があるのか。

1つは「高度経済成長の負の遺産」。

日本においてもこの[OECDのキー・コンピテンシー論の]未来観は共有できますが、高度経済成長の負の遺産とも言うべき状況、すなわち前述のように目前の児童生徒や青年が病んでいるという重い課題があり、どうしても「生きる力」から出発しなければならなかったのです。(233頁)

まあ、それはもうええわ。

もう1つ。

さらに「思慮深さ(反省性)」の中で批判的思考が強く求められない、もう1つの深刻な理由があります。それは、戦後日本60年の歴史において、2009年の民主党政権に転換するまで、本格的な政権交代と市民的自治の経験がなかったという民主主義の未熟さです。日本では、物事を批判的に考察し、公明正大に議論し、未来を創出する能力を、日本の市民一人ひとりが本当の意味で要請されることがありませんでした。また、国家レベルでのイデオロギー対立が長く続いたために、反対意見は、対立したイデオロギーの表明として受け止められ、選択肢の提案として歓迎されることはありませんでした。そのため、議論の仕方も、ラディカルに批判することに価値があり、現実への「思慮深さ」や「反省」は弱みを露呈することになりかねないので、戦術的に敬遠されてきたのです。(233頁)

とりあえず、ほんとかどうかはさておき、そういう歴史観にもとづいた叙述だということだ。

そのうえで、こういう戦後のイデオロギー的対立状況がもたらした「弱点」を抱えた日本の民主主義社会の担い手たちを、著者は「日本的市民」と名づける。

[2008年・2009年学習指導要領が志向する人間像のことを]「日本的市民」と命名しましたが、それは新たな時代の市民性が求められつつも、市民性にとって大切な人権意識と批判的思考力の育成が弱いことを重視して、「日本的」と定義しました。日本の学習指導要領では、この欠如が伝統的に継承され、かつ批判されてきました。(252頁)

それは本書で明らかにしたように、戦後改革以来の歴史的経緯、すなわちイデオロギー対立と自民党政権の長期化、そして高度経済成長路線の選択などが大きく影響しているからで、今回の学習指導要領もその枠組みから脱却できませんでした。(252頁)

この点で著者は現行学習指導要領をかなり明確に批判している。そして現代日本の教育の喫緊にして最大の課題として批判的思考力と人権認識の育成――「市民」の育成――への道筋を見据える点において、実は本書の結末部は驚くほど広田照幸『格差・秩序不安と教育』(世織書房、2009年)――とくに「序論」――の問題意識へと近似する。

さて、えっと、だからなんだっけ?

しかし広田があくまで「未来社会の構想――ユートピア的なそれではなく、制度構築レベルのそれ――」(同上、28頁)の構築という課題とリンクさせて(「未来社会」の政治‐経済体制の選択について「判断する」ことのできる)市民(国民)の形成という課題を明示的に並置するのに対して、後者にはそれがない。その次元での構想(との関わりで教育の未来)を考えるというスタンスの希薄さが――緊張感のなさが――、前エントリで見たような教育外部の環境条件に対するトンデモな叙述をなさしめるのであろうか(とか言ってみた)。

そういう読み方も(やろうと思えば)できますよ、と。とりあえず整理してみただけで終わります。

にしちゃあ、メガトン級の爆弾が埋まりすぎてる逸品ではあった。<本書。

まあべつにどの本が、とは言わんけどさ(このブログでも前に一個扱ったことがあるとも言わんけどさ)、教育学系の教科書ってネタだかベタだか判別つけがたい地雷の埋まってるブツが多すぎて怖くて読めんわ。ほんとに。

うっかり近づくと、やけどするぜ(←オチ)。

近代日本カリキュラム政策史研究

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現代日本の教育課程改革―学習指導要領と国民の資質形成

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戦後日本教育史 (1978年)

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日本人のしつけは衰退したか (講談社現代新書)

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格差・秩序不安と教育

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