チェック...ダブルチェック...(2)

えぇっと「クライマーズ・ハイ」を未見の人は必ずDVDで見てくださいね...というのが前エントリの結論ですね.こんなに日があいてから何言ってんだか,ってことですが.

正しい事実を正確に叙述するための倫理は何もジャーナリストの専売特許では(もちろん)ありません.いうまでもなく.歴史学はそのための体系的な方法論としての「資料批判」の作法を精緻化し,その蓄積・発展を遂げてきています.それに比べたら「歴史社会学」という看板を掲げた仕事のうちに,どれだけそういう方法論的な緊張のもとでなされたものがあるか...もちろん自分自身のものを含めて.

それでもかつて,マイクロ・データのアーカイヴ化の進展という状況を踏まえた歴史社会学的「データ批判」の作法について,試論的な提言をしかけたことはあります.当時は近い将来にアーカイヴ化されたマイクロ・データによる計量的分析にもとづいた歴史研究が(現在の状況よりもっとずっと多く)簇生すると考えていたからです.そして,そうなった場合に歴史学における「資料批判」に対応する“作法”を構築していかないと見るも無残な状況がもたらされるのではないかと(まあ勝手に)考えたからです.

少なくとも歴史研究の資料=データとしては60年SSMデータ[1960年東京SSM調査データ]は他の全国SSM調査データとは性格が根本的に異なり,分析結果の評価そのものにも周到な手続きを施す必要がある.計量歴史社会学という試みが歴史研究として他の研究領域とまともに対峙していくつもりがあるならば,歴史研究における資料批判に対応するデータ分析上の“作法”――さしあたりそれを「データ批判」の作法と呼んでおこう――をもたなければならない.資料批判がある資料を他の資料によって“つぶしていく”作業だとしたら,われわれも他のデータによって60年SSMデータを“つぶしていく”作業を我慢強く行うしかない.そうした作業のあとになお言いうるもの,それを確定していく作業......(「個別歴史性に定位した社会移動研究の可能性」東大社研『社会科学研究』56(5/6),222頁)

しかし,ある意味では,それは「杞憂」でした.上述の発言から数年たった現在,そういう邪魔くさい領域への参入者はほとんどいなかったわけで.その結果,そのような方法論的議論はほとんど進展していません*1.私自身もこの方向での考察を深めてこれたとはとても言える状況ではありません.

歴史「社会学」は歴史学よりもずっと多く「現在」の言説構造の動向に敏感になりたがっていますし,なるべきでもあるでしょう.そういう本性が地道な方法論的議論の蓄積にとってはマイナスに機能しているように思います.

猛スピードで駆け抜ける「思想」の進度に振り落とされることなく,しかし同時に,正しい記述に向かうための「集合知」を構築するための地道な議論にも精力を傾ける...そういう二つの方向に引き裂かれた要請に応えることが必要なのでしょう.

チェック...ダブルチェック...

短期的には「負け」た(「言挙げ」の瞬発性)が,長期的には「勝った」(記述の正しさ)かもしれない,という件の映画の結末は,そういう二方向に引き裂かれた「記述の要請」に頭を悩ませている人間にとってはたまらない「おとぎ話」に聞こえるわけです.

*1:もっとも,データ・アーカイヴの本来の目論見は「歴史研究」の材料(=「史料」)を提供するというよりも,「普遍的」理論(=作業仮説)を検証する材料としての良質なデータを蓄積する,というところにあるわけですから,その筋としては正しい現状であるわけですが.