社会的排除と教育社会学(もうあきたのでとりあえず最後)

社会的排除」という概念が突破口になるわけではない.

そこはくれぐれも勘違いしてはならない.「社会的排除」概念によって研究上の新しいインスピレーションが得られるとしても,そこで得られるもののほとんどは,これまでの教育社会学が「階層」という概念で捉えてきたテーマに尽きる,と私は思う.

むしろ,「階層」という概念で捉えるべき問題を,わざわざ「社会的排除」という概念で把握することによって問題の所在が不明瞭になる,と言ってしまってもよい(いったいなんのための「文化資本」や「社会関係資本」という概念の考案だったのか!).

「貧困」という概念で捉えるべき問題を,わざわざ「社会的排除」という概念で把握することが問題の所在を不明瞭にする“場合もある”というのと相同の難点だ.

それでもなお,教育研究(とりわけ教育社会学)にとっては「社会的排除」概念がもたらす恩恵があるのではないかと(ぼんやり)私が思うのは,いくつかこれまでに検討が尽くされてはいない具体的な研究テーマの所在が示唆されるからだ.

教育社会学が「教育の社会的機能」としてとりわけ重視してきたのは「選抜・配分」機能だ.そのことの帰結として,教育社会学の研究対象は中等教育(最近では高等教育に重点を移しつつ)以降の「進路分化」の場面に偏りがちである.そうであるが故の「格差社会論」や「トランジション研究」への注目.

けれども,自分自身が教員養成大学の教員として小・中・高の学校現場に足しげく通うようになると(ついでに言うと自分は大学という学校現場で働く),明らかに重要な研究対象は「義務教育」の現場だろう,と素朴に思う.

教育経済学や教育投資論,人的資本論などなどが前提とする「投資収益の効率性」が“つくりあげられる”のは「義務教育」の期間をつうじてである,というのは,今の勤務校に着任してからの3年半で私がたどり着いたゆるぎない「仮説」である.「大学一世」問題を扱う研究も,その問題をほんとうに突き詰めて考察したいのであれば,「義務教育」のレベルにまで降りていく必要が絶対にあると思う.「高校」ではない.「高等教育」のユニバーサル化を目指すのであれば(私は目指したい),問題の所在はむしろ「義務教育」だと思う.

社会的排除」概念は教育社会学の観点からはこぼれ落ちがちな「義務教育」の意義の重要性を改めて思い出させてくれるという点で,有益だと思う.

それも(たとえば今はやりの)「学力」の「格差」といった問題とは別次元のところで義務教育が果たしている/果たしうる「機能」への着目.

もっともそれさえも,これまでの教育社会学の歴史のなかで既に(大阪を中心とした研究グループによる)被差別部落を対象とした地道な調査と実証研究の蓄積のなかに多くの先行業績を見いだせるものでしかないのだが.

この点については,苅谷剛彦先生が「学力」研究に着手した最初の論文を書こうとしたときに,まともな検討に値する「学力」調査データの蓄積は「被差別部落」を対象としたもののなかに“しか”なかったことを想起すべきである.こうした「被差別部落」を対象とした地道な実証研究の方法と知見の蓄積に対しては,敬意を込めて「大阪学派」という呼称を用いたいと常々考えている.

そのほか,歴史研究や理論研究などを志向している,もう少し原理的に考えたい人にとっては,「福祉」と「教育」との境界上の諸問題などを「社会的排除」概念をとっかかりに考えてみるなど,有益ではないだろうか.

地方私立の底辺高校などに行って校内研修講師などを仰せつかると決まって「いやあ,うちの高校なんて“教育”機関じゃなくて“福祉”施設ですよ」的な自虐的(?)な発言に接することが多い.実際,専門家であれば「なんとか障害」とか「診断」したくなる生徒さんもいることだろう.

そこには「教育」と「福祉」の境界線が“引ける”という前提がある.そして,その両者のあいだには何らかの価値階梯があるようなニュアンスも潜んでいる.

どのような?

たぶんそのヒントは「教育」が人が成長し変化する営みへの介入であるという,ごく常識的な,当たり前の,しかし教育社会学が結局のところずっと捉え損ねてきている「機能」(「社会化機能」!)を改めて捉え返すところにあるのだろう,と思う.

最近入れてもらった某研究会のスタンスがまさにこの“「教育」と「福祉」との境界線上の諸問題を考える”というところにある.だが実は率直に言うと私自身は“これ”が研究上の「突破口」になるとは思っていない.懐疑的だ.けれど,この問題設定が一番ひとを「集められる」だろう,とは思う.とりあえず“そこ”からやるしかないだろう,とは思う.

それにしても思うのだけれど,もしも人が生まれながらにすでに「大人」であったら(つまり人間にとって「大人になるプロセス」というものが不要であったら)この世の社会思想や社会設計はどんなにかシンプルかつロジカルであったろう.どんな“ラディカル”な構想も“ロジカル”でさえあれば,“うまくいく”世界がもたらされていたに違いない.ほとんどなんの留保もなく,合理的社会思想と合理的社会設計だけでいけたはずである.

でも実際には人は最初,「子ども」として生まれてくる.圧倒的に未熟な「人未満」として生まれてくる.だから,「社会の再生産」というノイズが社会構想や社会設計にはつきまとうことになる.

したがって,合理的社会思想や合理的社会設計にとっては,“人未満で生まれた動物が人になっていくプロセスというものが不可欠である”という要素――人間に不可欠の前提――はアキレス腱なのだ.

しかしほかならぬ,その「アキレス腱」こそが実はわれわれのこの世界に豊かな恩寵をもたらす源だとしたら?......「教育」というものを考える固有の意義も,そこらあたりにあるのだろう,ということは言える.

なんだか尻すぼみだな.疲れているから仕方ありません.また改めて考えることにいたしましょう.

悪しからず.