ボーダーフリー大学、ブタとハマグリ、産業化

またダラダラと、フラフラと書く。

「ブタ」と「ハマグリ

先日、ツイッターのタイムラインを眺めていたら、大学教員アカウントを中心に、「教育困難大学」なる語を冠した記事が少しくバズった(リンクは貼らない)。元高校教員の教育ライターによるもので、以前は高校段階における「教育困難校」ルポ風記事で見かけたお名前である。

記事の趣旨を好意的にとれば、ユニバーサル段階――とはいえ4年制大学でようやく5割、OECD諸国のなかで低めの進学率だが――を迎えた大学が抱える課題を、(後期)中等段階の「教育困難校」における教育実践面での「困難」の延長上に把握しようとする問題提起、となろうか。

だがすでに「ボーダーフリー大学」、「マージナル大学」、「ノンエリート大学」、もっと下卑たところでは「Fラン(ク)大学」などの呼称で、類似の学生の現状も教育現場の実態も、それに正面から向き合う数々の教育実践の模索もその課題や意義も、すでにすぐれた(あるいは詳細/リアルな)報告・考察がいくつもあるなかで、当該記事(から始まる連載?)が何を新たに伝えたいのかは必ずしも明瞭でない。連載予定の初回だからか、ご自身も非常勤で教壇に立っているはずの大学を対象とした記事のほうは以前に比べてもやや機微に疎い、というか少なくとも教育(/ケア)実践の意味や機能への細やかな目配りは感じられない。

当該記事には、「教育困難大学」の「あまりにもひどい授業風景」として紹介される場面の記述がふたつある。「ブタ」と「ハマグリ」のくだりである。「小学生レベルの知識が欠落している学生」を示す事例だという。だが、授業場面の――教員養成・修士卒の元教員による――記述・分析として、それは稚拙だ。理由ははっきりしている。「教育困難校」記事のエピソードの多くが著者の実体験に根ざしているのに対して、これは「聞いた話」だからである。だから、それが「どのような」やりとりであるかについて教育実践としての――教育学的な――分析ができない。

著者は(高校段階の)「教育困難校」の存在意義について、迷いなく謳う。家庭環境の複雑さや困難、貧困、先天的な病気や障害――2人とも、あるいは1人だけの親が長時間労働せざるを得ない貧困家庭では気づくのが遅れたり早期に適切なケアが受けられなかったりして重篤化する場合がある――、義務制学校の教育環境がそれらに十分な配慮もケアもしない/できないまま放置し蓄積した学習上のつまずき、あるいは不登校、そして高校進学後に周囲から寄せられる侮蔑のまなざし、固定化する自己肯定感の低さ、霧散する学習意欲、限定される将来の夢、高い中退率、貧困層予備軍として労働市場に放たれ、世代間で再生産される困難の連鎖。

そんな彼らをこのまま打ち捨てておいてよいのか。それは、そこに通う生徒にとっても、日本社会にとっても大きなマイナスにならないか。

もちろん反語である。私も強く同意する

他方で――なぜか、と私には思えるのだが――、「教育困難大学」のほうは「4年間、学生がほとんど何も学ばないまま、形骸化した「学士」を量産して世に送り出しているのが現実だ」と断じる。もしかしたらこれはあくまで前フリに過ぎず、このあと「教育困難大学」の意義を謳う記事が続くのかもしれない。だとしても、連載冒頭に置かれた記述のトーンがもたらす対比は明らかだ。

「人の不幸に敏感で共感力にあふれ、その一方、自分の能力に自信がない「教育困難校」の生徒たちは、自分より弱い立場の人の役に立ち、当事者や周囲の人から感謝されたり褒められたりしたいと切望」している。そんな細やかな観察を踏まえて著者は、したがって「保育や介護の仕事の賃金や労働条件」の「早急な改善」をと願う。「上級学校への奨学金を拡大することが最良の道ではない」。「基礎学力がない彼らは資格取得の過程で挫折してしまうからだ」。著者によれば奨学金を借りての進学は、「彼らの経済的自立にも、そして貧困の連鎖からの脱出にも功を奏していないと、現状では言わざるをえない」という。ただし著者の「体感」を超える根拠は示されない*1

著者によれば「教育困難校」の生徒は「ヤンキー」系・「コミュ障」系・「無気力」系の三類型に分けられるが、「ヤンキー」系の生徒――とにかく授業を妨害するのが特徴だ――への言及は、似た趣旨で、だがニュアンスは微妙に変わる。

「ヤンキー」の生徒が高校に進学する必要性が本当にあるのか。中退していった彼らの多くは「フリーター」になる。ただ、学歴を重視しない建設業や飲食業、サービス業に就いて真面目に働き、彼らを暖かく育て見守る周囲にも恵まれ、年若くして立派な社会生活を営んでいることも間々ある。そして、20代初めで家庭を持ち、生まれた赤ん坊を抱いて、迷惑をかけた高校にかつての所業を謝りに来ることも少なくないのだ。そんな彼らを見ていると、社会こそ、彼らの「高校」という思いがする。

「進学しても経済的自立にも貧困の連鎖からの脱出にもつながらない」と述べたその一方で、こちらは「中卒・高校中退フリーターでも建設業・飲食業・サービス業なら年若くして立派に自立できる」と言わんばかりに聞こえる。80年代にはよく聞いた話だ。だが21世紀も20年近く経った今日の労働市場のもとでそれはさすがに少しおかしい(重要なのは成功事例の存否ではなく、その「確率」である)。

産業化

大学進学の(私的)収益率はざっくり平均で6~8%、もちろん上位大学や医学部などではもっと高くなる(基本10%~、あるいは15%超も)が、人文系・偏差値51、社会科学系・偏差値44の大学でも6%(女性に限れば10%)という報告がある(やや古くなるが妹尾・日下田 2011島 2013(PDF)にまとめ)。1995年SSM調査データを用いた低偏差値(40未満)大学の収益率 2.5% という知見もある(ONO 2004, ONO 2007)が、国立/私立かつ私立・偏差値別による計測では、国立と私立(偏差値55以上)で8%超、私立(偏差値45以上55未満)で4.5%、私立(偏差値45未満)で5%、この(日本的)エラボレイト法による計測値をミンサー型賃金関数の結果のもっとも低い見積もりで調整した値で国立(8.6~6.4%)、私立・偏差値55以上(8.7~6.5%)、同45未満(5.0~3.7%)と報告されており(島 2017(PDF)※ただし男性のみの数値)、市場利子率と比べてもかなり高い。また1990年代後半以降は、他の先進諸外国と同様、日本でも大学進学の収益率は漸増傾向にある。

たしかに日本の大学教育の収益率は諸外国のなかで高いほうではない――大学教育の費用は高く、大卒と高卒の収入格差は小さい――が、十分に高い(先進諸外国のレンジ内に収まる)し、他の市場金利に比べても有利、ましてマイナスなどではない。もちろんこれらはいずれも平均の値であり、それぞれに分散はある。それでも客観的にみて大学進学は、今のところ他に比肩しうる代替選択肢がない程度には重要な投資先である。大学/大学生の数はいまだ過剰ではない。「大学に行くことに意味がない時代」など到来していない。このポイントは私的収益率に「公的(財政)支出」と「税収」(増)分を考慮に入れた「社会的収益率」でみても同様であることは銘記されたい(国立/私立、男性/女性の差異はあるが概ね6~8%で安定、妹尾・日下田 前掲)。

計算される収益率の数値は、大学教育にかかる費用や、高卒/大卒の労働市場状況、賃金構造(学歴間格差)に依存するので、これらの〈制度〉が変動すれば――大学での教育実践に何ら変化がなくても――変動する。90年代以降に大学教育の収益率が上がるのは、その裏面で悪化した高卒の就職・労働条件の反映でもある。

教育の中身がどうであろうと、〈制度〉が変われば、変わる。その教育観は、経済学的にいえば人的資本論ではなくスクリーニング理論、社会学的にいえば社会化モデルではなく選抜・配分モデルに近くなる。問題が〈制度〉にあるなら、それを変えればよい。「高卒でも就職できて、ふつうに働いて食べていける社会」のほうがまともである。だから、その実現を。「保育や介護の仕事の賃金や労働条件」の改善もその一環だ。

まったく正しい。高卒就職で、あるいは保育や介護の仕事で、「ちゃんと稼げる社会」を追求する。このことの重要性は、どれだけ強調しても足りない。だが同時に、その正しさは――スクリーニング理論や選抜・配分モデルの「正しさ」がそうであるように――半面の正しさである。必要な両輪の、片輪である。

先に少し触れたSSM調査では職業威信スコアなる指標を測定・算出している(1995年SSM調査・威信票(PDF))。異なる地点(国際比較)と異なる時点(時点間比較)におけるスコア間の相関係数の高さ(=職業威信序列の安定性・普遍性)で知られる指標である。この職業威信スコアの出生年代別の平均値を、生涯キャリアに沿って20代から50代まで結んだラインを描き、その長期趨勢を示した図(佐藤・石原 2000: 209, 図10-3)*2――それは社会レベルの歴史時間とライフコース・レベルの個人時間の2つの要素を含んだグラフとなる――を眺めてみると、2つのことが読みとれる。個人レベルでは、年齢を重ね、就業年数を積むにつれ、職業威信スコアが上昇する「年功効果」がみてとれる。当たり前の話かもしれないが、ひとはキャリアを積んで、より「高度」な職業へと「上昇」する、その趨勢が明瞭にわかる。もうひとつ、社会レベルでみた場合には、より若い世代(コーホート)ほど、先行世代よりスコアの高い職業からキャリアをスタートし、生涯キャリア全体のレベルが上昇している趨勢――元論文では「時代効果」――がみてとれる。社会全体の職業が「高度」化しているのだ。だから若い世代ほど、職に就くということが、先行世代より威信スコアの「高い」職業への「跳躍」を伴うものとなる。それが持続的な趨勢として存在することがわかる。

〈産業化〉とは――少なくとも今のところ――そういうことである。新たな産業が次から次へと生み出される、ダイナミックな構造変動。それはしばしば「二極分解(論)」的想像力をかきたてる/てきたが、産業社会はそれほど感応性高くはなく、脆弱なものでもない。その基底において、漸進的かつ持続的に、職業の「高度」化が進行する。産業化/産業社会のメインボディはむしろそこにある。それは企業経営者と労働組合や、その他の政治勢力やなにやかやの力学の帰結として生み落される〈制度〉や、あるいはひとびとによる〈現実の構築〉とは別水準の問題としてある。

繰り返すが、必要なのは「両輪」だ。全体として「高度」化していく職業に、かつてなら支払われたはずの、それに見合う賃金や労働条件が与えられなくなっている。そのことは〈制度〉の問題として撃ち、是正しなければならない。「高卒で働く」職業で「ふつうに働いて食べていける社会」の追求にもつながるはずだ。だが他方で、産業化という持続的な変動は、それとは別次元で厳として進行する。教育から職業へ、あるいはある職業から別の職業への移行に際して、かつてより個人は「高く」跳ばなければならない。「大卒の優位性」とは、こうした水準の〈構造〉問題と切り離されて、まったく「恣意的」に構成されるわけではない。その恣意性「だけ」を切り取り強調するのは、悪しき素朴な「社会学主義」である。

だとすれば、以前より「高く」ある職業への「跳躍」を可能にする「踏み台」を――「跳躍」に「失敗」しても絶対大丈夫な「網の目」を整備するのと並行して――より強固なものにし、拡大する必要がある。その焦点は――必然的に職業と何らかの関連性を含むものとしての――「高等教育」となるだろう。

ボーダーフリー大学

個人的な印象だが、ツイッターであれブログであれ、「ボーダーフリー大学(というか大衆化大学)」ネタはバズりやすい。90年代以降の設置基準の大綱化で、大学の数は増えた。そのすべてではないが、多くは既存の大学序列構造の下位に組み込まれる。量的拡大期には、それまで経済的に――それゆえ/あるいは――学力的に進学しなかった/できなかった層が流入するため、教育の質的変容は不可避である。「ブタ」と「ハマグリ」を前にして、「いったいどうやって教えればよいのか」とも思うだろう。だがそこから「こんな大学は無駄だ」という判断は直接には導かれない。現在の四大進学率と同レベルの進学率だった1950年代の高校でも、「いったいどう教えるのか」「こんなのは高校ではない」「そんな高校は無駄だ」という議論は喧しかったが、そこからユニバーサル化に至る道を、われわれの社会は採択した。今は次の選択を迫られた分岐点である。「大衆化大学」をめぐる議論が炎上しやすいのは、それが現在、わたしたちの社会の「分断」の行く末を左右する、〈社会的〉な争点となっていることの証左である。

グローバル経済の進展にともない、剥き出しの生の脆弱性に曝されることとなる個人をいかに社会に繋ぎ留め、分断と亀裂の深化からこの社会を守るのか。大学教育の収益率の現状と、産業化がもたらす職業構造の変動趨勢を踏まえれば、高等教育・職業教育訓練投資をひとつの基軸とする――いささか不自然な表現にはなるが――「教育機会の再分配」という構想に辿り着く。

この消極的な大学有利説は、今日の社会経済政策を考える上で示唆的だ。かつての経済成長期は、「期待と確実性」に裏づけられた明るい未来があり、学歴間格差も縮小する時代だった。だから、世間の学歴無用論も罪なく許されてきた。しかし、現在は、「不安と不確実性」に悩まされ、未来が見えない危険な時代である。激動する危険な社会を生きるための人生保険が切実に求められている。その有力な人生保険が教育投資である。現時点における学歴無用論や大学過剰論は、若者の進路を誤らせる罪深い無責任なメッセージである。(矢野 2008: 121-2

危険な社会を生きるためには、お互いに助け合う再分配モデルへの舵取りが求められる。手垢がついたかもしれない「福祉社会モデル」を再構築する必要がある。構築の鍵を握るのが教育への公共投資である。不確実な未来を生きる若者だけでなく、30代、40代の中年世代への教育投資が求められている。学歴間格差の拡大は、学歴の有効性だけでなく、中年世代に対する職場教育訓練投資の重要性を示唆している。賃金(=結果)の平等化ではなく、教育機会を平等化する再分配政策が、「社会変動と不況」による「不安と危険」を回避し、しかも経済を効率化する社会経済政策の要である。教育機会を再分配する「教育社会(Education-based Society)」の構築が新しい福祉社会モデルだと思う。(矢野 前掲: 122

いくつか銘記しておく必要がある。投資‐収益の効率性に鑑みて、より早期の教育段階――大学よりは高校、それよりも義務教育、とりわけ就学前、わけても貧困層対象の――への優先性は疑うべくもない。貧困対策としても、費用対効果にみる収益性の「高さ」の「確度」という点で就学前教育への投資の重要性は強調しなければならない(上に言及した「保育の仕事の賃金や労働条件の改善」という課題とはここで結びつく)。だが他方で、中等・高等教育への公的投資や職業訓練プログラムもちゃんと「ペイ」する(Levine & Zimmerman 2010)。子どもの、とりわけ乳幼児期の発達が、純粋に経済的な要因だけでなく、親の――主として労働条件がもたらす――時間的余裕、身体的・精神的健康、ストレス/ゆとり、といった家庭環境を主要な経路として規定される以上、世代間連鎖を断ち切り事態を好転させるためにも、子どもの「教育機会の均等」は、親への再分配を通じて達成される必要がある。

早期(とりわけ就学前)の教育段階の優先性と並んで留意しておくべき付帯事項は、教育の「質」である。「教育困難校」記事の著者が適切にも示唆するように、教育実践の質――たとえばその著者によれば高校段階での“5つの「リ」(リセット、リハビリ、リメディアル、リフレッシュ、リボーン)”の実現――を問わない「無償化」論は無意味である。かりに高等教育を「無償化」するとして、予想される量的増大に即した追加投資が伴わなければ、教育の質は悪化する。それどころか、教育を支える公的財政基盤をいっそう掘り崩しつつ推進される「無償化」政策でさえ、論理的には実現可能だ(「維新」以降の大阪を注視せよ)。

教育投資(-回収)の長期性・不確実性と正の外部性を認めるかぎり、公的支出は必須である(家計(個人)に任せると過少投資になる)。教育投資に見込まれるいくつかの社会的「便益」――知識獲得のスピルオーバー以外にも、将来の失業手当・生活保護受給者予備軍を納税者へと押し上げ、健康・衛生管理や治安維持の観点からみた政府支出の削減と税収増加 etc.――の諸論点を、件の「教育困難校」連載はじつはすべてカバーしている。だからこそ「教育困難校」の生徒を打ち捨てておくことは「日本社会にとって大きなマイナス」だと述べる著者は正しい。

国際人権規約にある「中等・高等教育の漸進的無償化」条項の実現は、もちろん追求されなければならない。その旗を下ろしてはならない。だが大学教育の費用にかかわる〈制度〉の変容は、計測される収益率の数値にも大きな影響を与えるだろう。それはあくまで「漸進的」に、バランスと方法・手段を吟味しつつ進められる必要がある。「質」に言及しない、気安い「無償化」の大盤振る舞いには慎重であらねばならない。だから、「大学進学希望者への新しい経済的援助が考えられつつある今、本連載を通して(略)現在の大学が抱える問題の一端を、少しでも多くの人に考えてもらう機会になるよう願って」開始される「教育困難大学」連載初回の意図も、間違ってはいない。

つまり――途中気になる記述は目につくとしても――、ざっくり言って、そんなに異論はないのである (←オウフ。長々と書いてきたオチがこれではなんだか申し訳ないが、ただし気になるところはすごく気になる――たとえば「試験前夜か当日朝の電車の中で、対策プリントと教科書をひたすら暗記」「対策プリントをひたすら暗記」「プリントで試験に出そうなところをひたすら書き写す」といった「教育困難校」の生徒たちの「本来の試験勉強から懸け離れた」勉強法は、少なくとも20数年前の東大・駒場の試験期間恒例の風景そのものなわけだが、そのことはどう整理する?――ことは確かであるので、許してほしい。

ふたたび「ブタ」と「ハマグリ」へ

教育が「困難」とは、それだけ教育の「リターン」「ベネフィット」も大きいということだ。その点を外さず、広く訴えていく趣旨であるなら、「教育困難」という冠のもとに高校・大学を貫く問題提起には意義がある。

教育困難校」連載中の記事のなかには、「能力が十分でない学生のサポートに力を入れ」、「入学してきた学生の能力や学習習慣をしっかりと把握し、そこから社会で必要とされるレベルまで能力を育成・伸長し、高い評価を得ている大学」が出現していることへの言及もある。それが「大学の教育の質」であると。教育困難「大学」の連載では、そうした実践について、高校と大学の双方で教鞭をとった著者ならではの報告と分析を期待したい。もっと教育実践そのもの、「ブタ」と「ハマグリ」の意義と課題こそ、掘り下げて論じられなければならない。

「大衆化する大学」に対する私のスタンスは、「私語する学生、居眠りする学生」(これも長いです)というエントリを書いたときと基本的に変わっていない。にもかかわらず、今回このようなエントリを書く気になったのは、たぶんこの著者が、私も年間1コマ3単位の社会学の授業(ゼミ)を担当して――個人的に「駅弁へのディスタンクシオン――卓越化とも差別とも訳してよい――が残した高等師範の化石のシッポ」と呼んで――いるTKB大学院・教育研究科(社会科)の卒業生(朝比奈 なを | 著者ページ | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準)だからである(世代的にはカブってないだろうと思う)。

日本語で読めるEMCA(エスノメソドロジー/会話分析)研究の入門書も少しずつ増えてきたので、教師をめざす院生さんとゼミで読み、秋からは授業外に読書会を開催する企画もある。教育学(教科教育法 etc.)の授業分析とは少し異なる、だがそことの接続も意識した教育実践(というより授業)の分析がもっと模索されてよいのではないか。そんなことを考える「EMCAと授業研究」の研究会、というか勉強会をとりあえず今年度は金曜夜に始めようと思っているので、ご関心の向きはどうぞ(←宣伝オチ。

*1:ただし引用箇所の文脈上、主にASUC職業( 荒川葉、2009、『夢追い型進路形成の功罪――高校改革の社会学』東信堂)型専門学校への進学を念頭に置いた記述であることは付記する。

*2:佐藤俊樹・石原英樹、2000、「市民社会の未来と階層階級の現在――「中」社会の終焉から」高坂健次編『日本の階層システム6 階層社会から新しい市民社会へ』東京大学出版会、201-222.