「頭の悪さ」

社会学は、たとえば経済学がそうなっているような意味では学問として体系化されにくく、体系化されていない。だから学問の習得のプロセスでは、自分の問題意識を明確なかたちで言語化し、具体的な対象との関連のもとで、問いや「視点」や手法を一つひとつ「カスタマイズ」――といってまったくの「自己流」ではもちろん困る――して組み立てていかないといけない。

比較的に漠然とした研究計画で入学してくる院生をみていると、そのことがくっきりとわかる。フィールドワークでやる、といっているのに、計量的手法でないと解けないような問いを立てている、というような状態が長く続く。だからゼミでは、問題意識と対象と問いと視点と手法と……のあいだにある、微妙だが重要なずれを、参加者との討論のなかで検討し、まずは可視化し、いったん壊して、組み立て直して、また修正して、というのを繰り返していくプロセスとなる。

修士論文が書けた、というのはこの「カスタマイズ」がどうにかこうにか、ひとつ、やり遂げることができた、ということを意味するのではないか。「体系」ではなく、「方法」の習得。

個人的な印象でしかないが、「ものわかりの悪かった」院生ほど、このプロセスをきちんとやり遂げたあとは、「安心して見ていられる」研究者になっている気がする。自分がとても苦労した経験があるから、この「カスタマイズ」の重要性を身にしみてわかる、というところがあるのだろうか。ひとつできたからといって、それでなんでもかんでも解けるように、論じられるようになるわけではない。別の問題にはまた、別の「カスタマイズ」を考える必要がある。

むしろ問題は、「ものわかりのよい」「センスのある」「頭のよい」学生だったほうにあるのかもしれない。なんにでも口を挟んでやがてボロをだす、というのはだから、「頭の悪い」人間のやることではない。

社会学というのは、「頭のよい」人間には、あまり向いていない学問なのかもしれない。

しかし、そもそも学問というのは「頭の悪い」人間が――およそ人間というものは「頭が悪い」――どうにかこうにか、きわめて不十分なかたちであれ、世界を認識しようと発展させてきた制度であろうから、べつに社会学に固有なかたちで言うべき話でもなかったかもしれない。

ということで、ここまで書いてきたことにはほとんど意味がなかったな、ということがここまで書いてきてわかった。

社会学にしても、計量とか会話分析とか、手法でピンを刺し、そこを動かぬ基点に他を整序していくというような、習得すべき知識やスキルの体系化もあるところにはあるだろう。

それでもなお、問題(意識)や対象から入り、相対的に「カスタマイズ」の余地が大きく残る領域において、「ものわかりのよい」「センスのある」「頭のよい」院生が、「とても質の高い」修士論文を書きあげたときに、あるいは書きあげるプロセスにおいて、上に述べたようなことを「指導する」ことは可能であるか、否か。

製造物責任」などという品のない言い方で「指導する」側の責任を問うのも、引き取るのも、どこか信用ならないのは、その程度のことすら考えた形跡がみえないからかもしれない。ひとを――いまの場合、研究者を――「指導」し、育てるということの難しさを、まじめに考えているようには思えないからなのかもしれない。