二次分析研究会成果報告会週間

今週は東大社研SSJデータアーカイブ開催の二次分析研究会のうち、2つの成果報告会に出席した(例年複数行われており、今年は「参加者公募型」で2回、「課題公募型」では6つの研究会が立ちあがっていた模様。詳しくは東大社研SSJDAのページを参照のこと)。

ひとつめは月曜日、先のエントリでご紹介した自分のかかわるもの。未定だった第2部のコメンテータは東大社研・特任研究員の中川宗人さんにつとめていただく。コメントにレジュメ配布で臨まれたのは本研究会ではおそらく初。中川宗人さんには、橋本健二編『戦後日本社会の誕生』(弘文堂、2015年)所収の第4章「学歴主義の戦前と戦後―『京浜工業地帯調査』から見る学歴と経営身分」という論考がある。「京浜工業地帯調査」の「従業員個人調査」データセットの再分析にもとづくものである。前掲書のなかでも力作のひとつなので、ご関心の向きはぜひ。

第2部での議論とからめて一つだけ。

(以下、登壇者の報告やコメントについての言及はすべて私の記憶と編集という作為を経過したあとのものなので、ご本人の発言趣旨とはおそらく異なることに留意。)

相澤さんは、東大社研・労働調査資料のデジタル復元作業に着手した最初の研究者という立場から、ここで復元している調査・データを位置づける主旨のご報告。神奈川県民生部の委託で行われた1960年代前半の5つの調査は、明らかに氏原正治郎を中心としつつ、だがもう一方の軸には江口英一がいた。調査テーマは江口的(貧困・社会福祉社会保障)でありながら、調査手法は氏原的(「氏原工房」)。この2つのベクトルの狭間で――よくも悪くも――「放っておかれた」ことが、5つの神奈川県民生部=東大社研調査原票を今日までほぼ完璧に保存しえたことの背景にあるのではないか、と(ちなみに江口が勤務校に持って行ったとされる諸調査の原票はそのほとんどが散逸した)。

調査実施当時にすでに行われた分析を超えるような《歴史分析としての二次分析》はどのようにありうるのか――たぶんこうした分析を試みたことのあるものなら誰もが抱くであろう感懐。いくら現在の統計処理テクノロジーがめざましい進歩を遂げているとはいえ、最初に実施した調査が実態を切りとった元の解像度それじたいは変更のしようがないのだから、やれることには限度がある。それでもなお、このような作業を行うことにどのような意味があるのか。

ひとつひとつの調査は一時点の「スナップショット」であり/でしかなく、それ単体でやれることには限度がある。だがだからこそ、良質な調査の原票は積極的にアーカイブしていかなければならない――という面白くもなんともない答えが、一応現時点でのわたしの考えである。しかし、わりと頑なにそう思っている。一時点/局所にかんする調査を貯めていき、個々への厳密なデータ批判に立脚しつつ、それらの分析結果――あえていえば「記述的」なそれ――を相互に照応させることではじめて「その時代」の何かが浮き彫りにされていく。そういう大きなプロセスとして構想したほうがよい。ほそぼそとでいいので、着実に継続・継承していかなければならない。この復元作業のプロジェクトのなかで何人かの「当時の氏原=江口周辺を知る研究者」の話をうかがう機会があったが、その方々じしんが立案・設計・実施したいくつもの重要な調査原票がその後どこにも受け継がれず散逸する危険性のもとに置かれているようにも感じる。

違う言い方をすると、「分析」だけを研究者としての評価の対象とするのではなく、「データの整備」をきちんと業績として評価していく体制づくりが重要である。「それで飯が食える」ということ。ここはわりとまじめに提言したい。

「京浜工業地帯調査」の話に戻すと、あれは「従業員個人調査」だけに依存するのではなく、「職場調査」その他の調査資料とも照らし合わせながらデータ分析の結果を位置づけていくのがよい。あれ(「京浜調査」)じたい、複数調査の複合体として存在しているので、まさに「復元した複数調査相互の照らし合わせ」によってはじめて「何か」の像を明確に描きうるものなのだろうと思う。氏原の「性格」論文の第29表(とくに(3)(4)、『日本労働問題研究』だと378頁)が「本給(月給・円)」を単位として作表されていることには留意したい。

かわって金曜日、こちらは香川めいさんを中心に、ベネッセ教育総合研究所が2008年・2013年に実施した「放課後の生活時間調査」データの二次分析を行うプロジェクトの成果報告会、「子どもたちの過ごし方、暮らし方――『放課後の生活時間調査』2008年と2013年から」(PDF)。自分が生活時間調査データを抱えていることもあり、どのような問いを設定し、どういう分析手法を活用しているかを勉強しに参加。

個々のデータ分析から明らかになっている知見もたいへん興味深いものがあったが、それはまた論文化がなされるであろうから措くとして、香川報告の「系列分析」と三輪報告の「遷移行列/対数乗法RC(M)モデル」である。基本的にはある行動からべつの行動への移行あるいはシークエンスをどのように把握し、全体の構造をとりだすか、という関心のものと考えてよいだろう。

これまでなかなか扱いが難しかったタイプのデータなので、とりあえずいまは分析手法のアイディアをだして「やってみる」という段階かという感想を抱く。両報告とも職歴/社会移動で用いられていた分析手法の適用である。他方で、その分析で何を明らかにするのか、なぜそれを明らかにすべきなのか、というところはつねに押さえておきたい。チェピンの「多様性」指標はごくごく単純なものであるが、そこには人びとの「生活の質」をとらえるのだという明確な志向があった。

ともあれ、分析手法の開発は必要だし重要である。来年も報告会があるということなので、つぎはどういう発想でくるのか、目が離せなくなりそうなことである。

というか、なんかわかった風に書いているが、勘所はぜんぶ「感覚」で理解した「ことにしている」の現状であるので、あれをもう少しちゃんと理解するためにはもっと相当勉強しなければならない、という思いを強くした週末である。

っていう感じ。