年末につき覚え書き

とくに誰に求められているというわけではないけれども。

夏の終わりのある飲み会をきっかけに、今までにないドライヴ感でものを考えた今年の後半であった。おおきく言えば、「教育の機会均等」ということについて。あるいは、教育と福祉の境界と接合について。数年前の研究会がらみで(机上で)考え、宮寺編『再検討 教育機会の平等』(岩波書店、2011年)や広田・宮寺編『教育システムと社会』(世織書房、2014年)などで散発的に書いたものはあるが、もっと本格的に考えざるをえない模様。まだ自分のなかでも十分整理できていない。

「教育の機会均等」という理念はあるが、それがどのような表現型において実現されるかには多様性と可変性とがある。「教育の機会均等」の実現には公的な教育支出に負うところが大きいが、さまざまな教育資源がどのように配分されるかを決める仕組みについて、われわれは明確には知らない。「均等」からの偏差を克服すべきものとして発見し、さらなる「均等」の実現にむけた政策的介入を導く際に、どのような基準にもとづいて「不均等」が発見され、いかなる手段が現実への介入策として採られるか、その資源配分の基底にはたらくロジックはいかなるものか――苅谷『教育と平等』(中公新書、2009年)によれば、日本の義務教育において実現した「教育の機会均等」は、個人を単位とした「個の平等」ではなく、一定の範域をもつ空間=地域を単位として析出される教育条件の差異=格差を均していく「面の平等」。詳細は著書を参照のこと。

児童生徒数を教員数で割り算してしまえば、結果的に得られる値はみな同じ「PT比」ではあるが、苅谷によれば、教育財政のユニットコストとして何が設定されているかが、教育に関する基本的な考え方と連動するがゆえに重要なのだという。アメリカのように「生徒時間(pupil hour)」(生徒数と教員が教える時間数との積)をユニットコストとする考え方は、学習の個人化、子ども中心主義をベースとした進歩主義的教育実践と親和的だが、「学級定員(の上限)」を基準とする「面の平等」はそうではない。その観点からすれば、70年代末から80年代にかけて注目を浴びた個別化・個性化教育のたぐいが日本で一過性のあだ花に終わるのは必然だ、ということになろう。

学力テストの結果にみられる差異=格差を、子どもの生育環境や社会経済的カテゴリーではなく、都道府県/市町村/学校/学級別の、しかも「点数の散らばり」を捨象した「平均点」の違い(のみ)において把握しようとする「平等」観。日本における「教育の機会均等」が「個の平等」ではなく、「面の平等」として追求されたことの意味は、苅谷が指摘する以上に大きい。「面の平等」が均等/不均等を判定する「面=範域」の最小単位を「学級」とすることは明白だが、その「学級」からこぼれ落ちたり弾き出された/出た子どもの「教育機会」(の毀損)に対する手当てはどうするのか――手当てをとろうとして、それを正当化する根拠を、この「平等」観とそれがもたらした教育資源配分ルールのなかに見出すことは、じつは困難である。

不登校」がたんに「心の問題」ではなく「進路の問題」で(も)あるという問題設定のシフトはすでに起こってひさしいが、それ以上に、義務教育段階におけるそれは基本的人権としての学習権の保障、「教育の機会均等」の基本的理念に抵触する事態である。「個人」ではなく「学級」を最小単位に構築された「教育の機会均等」は、「教育機会」のありかを「学校教育制度」の《内部》に見出すしかないが、それはもはや明らかな限界に直面している、といわざるをえないのではないか。

佐々木輝雄は同様の問題を教育と労働の境界/接合において提起していた。「学校制度内教育の機会均等」と「学校制度外教育の機会均等」とのパラドクス(の追求)がそれである。

学校制度外教育の機会均等理念に基づく教育制度理論・・・によれば,「教育の機会均等」を保障する制度とは,個々の具体的な教育的営みを捨象した,いわば抽象的・非人間的な整合性を持つ制度にあるのではなく,個々の教育的営みそれ自体の実質を保障する制度にあるととらえられた・・・システム論的には一見多様にみえる教育制度であっても,その制度は個々人の教育プロセスの多様化であり,個々人の教育ゴールでは単一な制度として止揚されるのである。つまり,整合性の追及の主体は,抽象的な制度の側にあるのではなく,個々の具体的な人間の側にあるのである。所与の条件における「教育の機会均等」の保障とは,まさにかかる具体的な人間の主体的な整合性の追及[ママ]を可能にする制度によってのみ,初めて可能になると考えられるのである。(『佐々木輝雄職業教育論集 第3巻』262-3頁)

何度読んでもわかりにくいが、おおきく言えば、同じ問題である。教育と学校とはイコールではない。「教育と学校とはイコールではない」という前提から教育―雇用/労働―福祉の関連構造を再設計していくなかで、どこまでも「個々の教育的営みそれ自体の実質」に準拠しつつ、「公教育」のありかたを問い直す。

だが、どのように?

上述の苅谷(2009)は、小泉内閣時代のいわゆる「三位一体の改革」での義務教育費国庫負担制度の存廃問題をめぐる論議のなかで着想が得られたものである。結果的に国庫負担率は2分の1から3分の1に変更された。それから10年。

来年は「義務教育」と「機会均等」について考えることの多い一年となりそうである。よろしく。

再検討 教育機会の平等

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教育システムと社会―その理論的検討

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教育と平等―大衆教育社会はいかに生成したか (中公新書)

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