方言

昼飯がてらうっかりつけたBS日テレの「ゼロの焦点」(真野あずさ主演。1991年火曜サスペンス劇場)が面白すぎてつい最後まで見てしまった。「松本清張作家活動40年記念スペシャル」で脚本は新藤兼人。私などは教養がないので広末涼子主演2009年映画版としか比較できないのだが。

主役のイメージは真野のほうがだんぜんいいと思ったが、それはやはり09年映画版は中谷美紀のものとみるべきということだろうか(ラストシーンの広末はがんばってたと記憶する)。

何が面白かったといって、91年当時の金沢・羽咋・高浜・鶴来あたりで(たぶん)ほぼ全編ロケをしていて、その風景がである。

金沢は私が東京にでてから激変した、そのことがよくわかる。東の茶屋街も主計町もあんな観光向けにアレンジされた明るい茶色になる前の、ところどころ朽ちた、暗く陰気なこげ茶である。ビルは低くやはり暗い色感のねずみ色で、本作のロケは初夏のようだが、夏蒸し暑く、冬は色を失い憂鬱さに閉ざされる、記憶のなかのあの土地の「質感」が残っていた。能登の漁村をさして「切ないような、痛々しい風景」(61年映画版で助監督を務めた山田洋次 wikipediaより)とは言いえて妙である。

あれですら「原作小説特有の重苦しい空気感や北陸地方の寒々しい陰鬱な冬の風景などは全く見られず、いささか趣を異にする」などとwikipediaには記されているが、こちらとしてはあの画面の向こう側にそれをみてしまうので、なんというか、苦笑である。

90年代のある時期から今にいたるまでの20年にあの街の景観が蒙った変化に比べれば、私が育った70年から90年までの20年など時間が止まっていたようなものだ。50年代末頃という時代設定のロケが91年にふつうにできてしまうのだから。

あの土地の方言は語尾をそれにしてしまえばそれなりには聞こえるがイントネーションがむつかしく、そこに演者の力量(というか取り組みぐあい)があらわれる。ちょい役で一瞬でてきた乙羽信子がひどくてびっくりした。林隆三も「羽咋(はくい)」の発音が3回出てきてそのうち2回はまちがっている。でてきた役者のなかでは、これまた一瞬だけの高浜の戸籍係がいちばんよかった。石井洋祐という俳優らしい。たんに「それらしく聞こえる」というのでなく、あの土地に役人として留まった人間という階級のニュアンスも醸し出していて印象に残った。(とはいえ、途中から観はじめたので、その限りでということだ。)

少し前にあったある企画をネットで目にしてヘタな金沢弁で「作文」してみようと試みたときに痛感したが、方言というのは閉鎖的で自己完結的なそれぞれの土地の階級構造をものすごくリアルに再現してしまう。「土地柄」というのはそういうことだ。だから、「どの階級の(あるいはどういう階級“軌道”を経験した)人間による発話であるか」という想定ぬきで方言の「作文」はできない。そしてできあがった文章は、如実に土着の階級(というより身分)性を想起させる。しかしながら/だからこそあの共同の試みには意味があったと私は思うが、それはじつは「これまでにどこにもなかったことば」を新たに創出しようする営みだったからなのだと思う。

わたしのは失敗作だった。たんに「気持ち悪い」だけの代物になった。

少しあの土地の固有性(と勝手に私が思い込んでいるもの)にこだわりすぎているのかもしれないが、とりあえず今日観たドラマに映し出された風景は面白かった。それだけの話である。

あらためていろんな面で「ゼロの焦点」は2時間サスペンスものの「原型」になっているのだと感じ、その点も興味深かった。