「総合学習で家庭環境による成績の格差は拡大するので総合学習は廃止すべきである」

...というエントリ名がミスリーディングであるのは、毎日新聞の記事の「総合学習:成績向上 推進校、学テ結果 専門家「拡充を」」という見出しがそうであるのと同様だ(英作文しなさい)。

当該記事の見出しは、「学力テストの結果をみると総合学習を推進している学校で成績向上がみられたから総合学習は拡充した方がよい、専門家もそう言ってるし」との解釈に、読む者を誘導する。

小中学校などで週に2時間程度実施されている「総合的な学習の時間」と学力の関係が注目されている。積極的に総合学習で探究活動に取り組む学校ほど全国学力テストの結果が良く、学習意欲も高かった。


「課題を見つけ、解決する資質・能力」を身につける教科横断型学習として2002年度から本格導入された総合学習は「ゆとり教育学力低下を招いた」との見方による主要教科の授業時間増に伴い、11年度から授業時数が削減された経緯がある。


専門家は「学力、意欲向上のためにも時間を増やすべきだ」と指摘している。

総合学習」は学力低下の元凶のように言われたけど(だから授業時数も削減されたけど)、実際には成績を向上させるんだから、むしろもっと拡充したほうがいいよね、というわけだ。

だが、そのような解釈を可能にする根拠はどこにも示されていない。

日本の新聞もネット配信の際には記事のネタ元となった報告書の類にはリンクを貼るのをそろそろデフォルトにしてもらいたい。たぶんこれ(平成25年度全国学力・学習状況調査報告書クロス集計【PDF注意】)であろうと推測する(が、違っていたら、あるいは他により適切なものがあるならご指摘いただきたい)。

ここには単純クロス集計しかない(そしてあわせて示された棒グラフは「0(ゼロ)」から始まらないものが並ぶ)。したがって記事中にも(実は)言及があるように、すべては「相関関係」である。

報告書の5頁にも「調査結果の解釈等に関する留意事項」として、

掲載しているクロス集計等については,相関関係を示した(※)ものであり,必ずしも因果関係を示したものではないことに留意することが必要であり,データから読み取れる内容と実際の状況とをよく照らし合わせて分析する必要がある。

との指摘がある(当たり前だ)。が、上掲の記事はこの点に(明らかに意識的に)背いて書かれている。

「相関関係」と「因果関係」は違う。「総合学習をしっかりやる」から「教科の学力が高い」のではなく、「教科の学力が高い児童生徒(あるいは学校)」は「総合学習をしっかりやる」のかもしれないし、まったく別のところに両方を高めるような何か重要な「原因」があるのかもしれないし、あるいは「たまたまそうなっただけ」なのかもしれない。

ついでなので言うと、「向上」というトレンドを示すデータは報告書のどこにもないのに「成績向上」と銘打っているのは、もっぱら「[PISAで]日本は09、12年とトップレベルの成績だったが「小学校段階から総合学習を学んできた生徒が対象だった」(田村調査官)」からとってるつもりなのだろう。聞くところでは最近教員研修などの場で「PISAで点数が上がったのは“ゆとり世代”(だから「ゆとり教育」擁護)」などと講ずるものもあるらしい。仮に「上がった」という認識を容れるとしても(譲歩)、「ゆとり教育」(ここでは90年代以降の動きに限定して用いる)は当初から以下にみる教育社会学者による強い批判に晒されて、そのことが親の意識や現場の教育実践に大きな影響を与えた(対策をとらせた)と考えることができるのだから、そちらが効いているのかもしれない。社会学いうところの「再帰性」というやつだ。そのような「根拠」で政策の可否を論じるべきではない。というかそもそも2つのトレンドを並べただけで「一方が他方の原因(とか結果とか)」と述べること自体おかしい(地球の温暖化は私が地球上に降臨してから進展したが、別に私が地球を暑くしたわけではない)。

また、かつて総合学習に向けられた批判のうち、とくに教育社会学者である苅谷剛彦氏が強調した重要な論点は、総合学習の拡充・推進が「児童生徒の家庭環境による教育達成の格差を拡大させるのではないか」という懸念であった。

データを素直に眺めると、むしろその懸念が妥当する事態が起っているのではないかと怖れたほうがよい(それゆえ、その検証を急ぎ促すことが必要である)ように思えるのだが、この点について当該記事はどう考えるのか。推進派は自分の「正しさ」を疑わないのだろうが(棒)、あるいは自分の信じる実践が広まりさえすればいいのかもしれないが(棒)、当該政策の影響下で育つことになる――とりわけ社会的な不利を抱えた――子どもの人生は取り返しがつかない。

児童生徒本人の努力ではいかんともしがたい家庭環境の差による格差が拡大することよりも大切な何かが総合学習の拡充によって達成されるのだというなら、そのことを主張し、推進すればよい。その場合、私はそれに同意しないので、批判側に回るつもりであるが。

もう一度思い起こしておくと、総合学習によって児童生徒の学習意欲が喚起され、教師の「手応え」も高まるだろうことを、苅谷の批判は否定していない。むしろ表面的には教師も児童生徒もやりがいを感じ、満足度が高まるという「好ましい事態」が起る裏側で、不平等の再生産あるいは拡大が、静かに、深く進行することに――それが「手遅れ」にならないうちに――警鐘を鳴らしたのだ。忘れてはならない。

それでも中には「OECDをみれば明らかなようにこれが国際的な潮流なのであって、、、」と続けたい人もいるかもしれないが(出羽の守)、「だからそれが国際的に同時並行的な新自由主義的教育改革による再編の一環なのであって、社会的な不利を抱えた社会層における貧困の世代的連鎖と社会的排除の深刻化を、、、」式の批判もまた「国際的な潮流」としてあるわけでしょう。苅谷の批判はガラパゴス日本に孤立して在るわけではない。

もっとも、記事を書いてる人も記事中でコメントしている人も、このあたりはある意味「わかって」やっているのであって(じゃないとさすがに悲しいし怖い)、これはもう明らかに次にくる学習指導要領改訂で予定されるコンピテンシー重視への「転換」に向けた流れのなかでの一幕である。(どうやら日本の教育学/界がエビデンス軽視の「政治的」言明に偏重した業界だというのは何も「日教組 vs. 文部省」の二項対立図式が然らしめたものではないらしい。)

なぜこんな(程度の)記事にこんな(陳腐な)反応をするかというと、かつて宮寺晃夫編の『再検討 教育機会の平等』(岩波書店、2011年)という本のなかでそれなりに総合学習(をはじめとする「教育の個性化・自由化」路線)についてまじめに考えて、「総合学習推進の批判派に回った教育社会学者=苅谷剛彦、の批判」を内容とする文章を書き(「個性化教育の可能性」)、その後もその延長上に同様の問題群をほそぼそと考察してきたつもりでいるからだ。このブログでも一時期なんども言及した。「批判の批判」なので、「擁護」の文脈で受け止める人が多い(多かった)だろう。たいした文章ではない(し、厳密な意味で科学的な「論文」とはいえない代物だ)が、私としては「これしかない」と思えるほんのわずかな細い道筋を描いてみせたつもりだ。まあはっきり言って私の自意識などどうでもいいが、この手の記事がまたぞろ大手を振って歩くというのは、なんというか、いろいろ感じ入るものである。

拙文そのものは総合学習(というか実践面での「教育の自由化・個性化」路線)が学力の低下や格差拡大に帰結するともしないとも述べていない。そんな「結論」など提示できないからだ。依拠するに足るデータがない。

そもそもの「学力テスト」が抽出調査でないとか、最新のテスト理論に立脚していないとか、いろいろ問題があるなかで、あるタイプの教育実践の個別の「効果」を厳密に推定することなどできない。それら「いろいろの問題」をクリアしたとしても、他の要因をコントロールするための種々のハードルは高いわけである。この報告書にしてみても、「総合的な学習の時間における探究活動」について学校が「こう進めた」という回答と、児童生徒が「こう進められた」という認識とは大きくズレるのだ。

そういう前提のもとで、断片的で不完全なデータをもとに、限界の多い分析手法によって出た結果を、慎重に解釈しながら、「最悪の事態」を回避すべく、しかし可能な限り望ましい帰結を求めて、議論していくしかない。そういう風に議論するしかない。まさに「データから読み取れる内容と実際の状況とをよく照らし合わせて」検討するほかない。

総合学習を批判した苅谷は一面的だったが、総合学習を推進・拡充する側の議論はそれに輪をかけて一面的である(今も昔も)。

もう(とりあえず当面)日本の教育政策はこういう綱引きごっこで進むもんなんだと割り切って付き合っていくしかないのだろうか。だとしたら、専門家ならざるわれわれは、一体どちらの言うことを信じて支持したり反対すればよいだろう。

よい見極めかたがある。お教えしよう。

データと分析と解釈の「よりいい加減でないほう」を信じるのがよい。主張そのものよりも、主張を支える推論の手続きと形式を見て、「よりまとも」なほうを信頼するしかない。今の場合、総合学習推進・拡充派のほうが激しくいい加減である。

よって、総合学習の拡充には反対するのがよい。そういう結論になる。

残念なことに。