“広田・橋本・岩下編 『福祉国家と教育』を読む(提案)” 前編 (てか前置き)

いや書いた人の一人なわけですが、という話ではある。

そしてあらかじめ断っておきたいが、本エントリは前置きだけに終始する。

それにしても、この本(広田照幸・橋本伸也・岩下誠編『福祉国家と教育――比較教育社会史の新たな展開に向けて』昭和堂、2013年)を通しで全編読んだ/読めた人というのは、たぶん現時点で地球上に6人ぐらいしかいないのではないか。そのうち3人は編者だろう。「読めて」いるかは怪しいが、私は「読んだ」。しかしそれは「一冊通しで何が言われているか報告してほしい」という依頼を受けたからである(本エントリに続くであろう「後編」は、そのざっくりとしたメモを予定している)。

この本を手にとった人のほとんどは、自分の(研究)関心に近い時代/地域を扱った章のみの「つまみ読み」といったところだろう。素人さんはまず手にとらない。ということは「営業」的には苦戦である。昭和堂さん、がんばって。編者の一人は売り上げ苦戦が予想外だったらしく、「いやーあれ売れてないらしいんですわー」と口にしていたが、私にはそっちのセリフのほうが予想外である。ちなみに「売れる」と思った要素を聞かせてほしい。まさか中身の学術的重要性が高ければ売れると思っていたわけでもあるまいて。何度もしつこく言って申し訳ないが。

勘違いされると困るのでここで断言しておくが、これは買って手元に置いておくべき本である。そのことを主張するのが私がこれから2つ(前編・後編)書くであろうエントリの目的である。

この本は「つまみ読み」では意味がない(あまり)。「通し」で読むことに意義がある。だがほとんどの人は途中で「筋」を見失って挫折するか、時間のコスパが悪いとそもそもトライしないだろう。だからこのブログでは私なりに「通し」で読むことで見えた一つの「筋」を書いてみたい。それが「正解」だと主張するものではない。この本に「筋」がある、ということを前提に各章を位置づける姿勢を提案したいだけだ。

それはこの本の作られ方と関連する。「序」(広田照幸)と「あとがき」(橋本伸也)を読めばわかるが、この本の元になったのは2012年3月にお茶の水女子大学で行われた比較教育社会史研究会10周年の記念シンポジウムである。

あらためて簡単に述べれば、比較教育社会史研究会は2002年に誕生した教育学・歴史学社会学文化人類学言語学・文学など多様な分野の、多様な時代・地域を対象とする歴史研究者による研究ネットワークである。すでに『叢書・比較教育社会史』(全7巻)が昭和堂から出版されている。今回の報告をする機会をいただいて初めて知ったのだが、外から見るとこの『叢書』が一つの同じ母体=ネットワークによる産物だという認識のない場合があるらしい。

その10周年シンポジウムでは、橋本伸也氏による400字詰め150枚ほどにもなるだろうか、「近現代世界における国家・社会・教育――『福祉国家と教育』という観点から」と題する長大な提議論文(以下、橋本提議)が、研究会メーリングリストで事前に配布された。中世から現代までの、主としてヨーロッパにおける国家・社会と教育との関係の変遷について包括的な見取り図を描こうとするものである。これが本書の起点となる第1部「提議」である。

シンポ当日は、橋本提議が扱う4つに区切られた時代に沿って2人ずつの登壇者が指定され、それぞれ橋本氏による問題提起への応答性を意識せよ(それもできるだけ提起の全体に関わらせて)、というお題のもとに、報告が行われた。(1)18世紀までの近世ないし初期近代、(2)自由主義国民国家形成の時代としての19世紀、(3)19世紀末から20世紀初頭の前世紀転換期における構造変動、(4)福祉国家社会主義の時代としての20世紀から現代まで、の4つである。その報告をもとにした論考が、第2部「応答と対論」に収録された8篇となる。2章ずつが、「遠い淵源」「ナショナリズム・世俗化・リベラリズム」「福祉国家/社会国家への転轍」「福祉国家社会主義新自由主義」の4つのパートに分かれていて、それぞれのパート末尾には、当日の「討論のまとめ」もある。

さらに、である。橋本提議および当日の8本の報告とその後の議論をすべて踏まえたうえで、である。「『提議』と討論のなかで深めきれなかった理論的論点を追加的に設定して考察を加えるとともに、本書にいたる一連の過程を総括し教育社会史研究のさらなる課題と展望を大胆に提起」(322頁)せよ、とのお題のもとに書かれたのが第3部「討議」に収録された3つの論考である。拙稿はここにある。

どんな無理ゲー。

だが拙稿以外の2つの章は見事にその難題に応えている。ハンガリー近代史が専門の姉川雄大氏による「東欧近現代史から見た『市民社会』」は、本書に収録された論文のなかで、橋本提議(およびそれにおおよそ同調的だった第2部の議論の構図全体)に対する最も痛烈な批判を展開した論考である。また、第2部でも1章を書いている岩下誠氏による最終章「新自由主義時代の教育社会史のあり方を考える」は、文字通り「本書にいたる一連の過程を総括し教育社会史研究のさらなる課題と展望」する内容となっている。

したがって、「つまみ読み」でなく本書を読むためには、1)橋本提議がどのような問題提起をしているかを理解したうえで、2)姉川論文によって何が、なぜ批判され3)岩下論文が何を「次」の課題として引き取ろうとしているか、という観点をもつと見通しがよい。言わずもがなだが、もちろん第2部の各章を読み飛ばしてかまわないというのではない。ここで提案しているのは、一つの「筋」を見失わないための「読み方」である。以下、本ブログでは、この行論にかかわる限りで第2部の各章にも言及する。

前置きが長くなるが、もう少し続ける。

橋本提議がすでに「『無謀』で荒削りな試みにならざるをえないことを十二分にわけまえた」挑戦であった。それに続く第2部・第3部の各章も、「特定の時代・地域の専門的な知見に依拠しながらも、手堅い個別実証研究の枠からはずいぶん前に進み出て、『提議』の妥当性と有効性を批判的に検証する」ことを自らに課した、そういう論考なのである(321-322頁)。「つまみ読み」が益少なし、というのはこの所以である。

このように、本書の成り立ちを特徴づけるのは、世代とディシプリンと、専門とする時代・地域を異にする多様な研究者が一つのアリーナを共有して、問題提起と、それへの応答と、それへの批判と、さらにそれへの応答と、……といった「論争的対話」の連鎖なのだ。それが当事者にとってどのような経験であるかは、橋本伸也氏による「あとがき」に詳しい。少し長くなるが、引用する(著書中にはないが、以下では適宜改行を入れた)。

一連の討論の場とならんで本書の編集過程もまた、提議者・編者としての役回りをあてがわれた筆者にとって、これまでの本作りの経験とはまったく異なる、きわめて刺激的なものとなった。


「提議」で示された論点の妥当性を確認し補強するだけでなく、むしろ足りぬところ及ばぬところを指摘し批判する議論が眼前に突きつけられたことは、これまで味わったことのないような緊張感をもたらした。専門的な個別論文を適宜配列したうえで微調整を施し、それらを束ねた公約数的な序章を用意して済ませるという具合にはいかないからである。


すべての報告と討論の録音を文字に起こし、それに基づいて作成された執筆メモや草稿を交換するなかで頻繁にメールのやりとりを繰り返したのだが、そのこと自体が論争的対話の場として機能して、編者と執筆者の双方が自己の思索を深化させることができた。


(中略)


これはきわめて稀有で、興奮を伴う貴重な経験であった。以下では、「あとがき」としての本来の領分を踏み越えることになるが、これらのやりとりのなかで語られたことを踏まえつつ、より敷衍した形で本書中に示されたいくつかの批判的論点への応答を試みてみたい。(322-323頁)

ということで、このあとに続く「あとがき」では、第3部の拙稿と、姉川論文とをめぐる2つのやりとりを踏まえた橋本氏のさらなる応答的思索が展開されていくわけであるが......

そう、下手をするともう1冊本が生まれようとしているのである。

これ、永遠に続くんちゃうかと。

まさに、あのメールのやりとりはそういう経験だった。思考の発散と深化。私が何ごとか述べたあとに返ってくる橋本氏の応答は、あの1発ジャブを入れられるとワン・ツー・スリー・フォー・ファイブまで返ってくる全盛期の辰吉丈一郎のような、あるいは「ストップ、そこまでだ!」(©かわうそくん@吉田戦車)と手を差し伸ばして思わず言いたくなるような、そんな経験だった(もちろん、めくるめく貴重な経験ではあった)。

それらメールのやりとりにもすべて目を通したうえで書かれてあるのが、上述の岩下論文である。そういう経緯に鑑みて、本書を真に締めくくる位置にあるのは、やはりこの論文である。

したがって、この前置きに続くエントリでは、本書への私なりのコメントを若干述べることになるだろうが、それはほぼこの岩下論文最終章への応答という形をとることになる。

ところで、私にとって第3部を書くのはとても辛い仕事だった。はっきり言って、できの悪い論文だと思う。今から思うに、私には橋本提議の問題提起が「総体」として何なのか、執筆時点では正確に把握できていなかったと思う。第3部執筆者としての素地を欠いていた。せっかく私を執筆者の一人に指名してくれた編者の方にはがっかりさせてしまったのではないかと、内心忸怩たる思いである。

だが今は少しだけ「見える」。本エントリに続くであろう「後編」ではそのことを――ごく簡単に、にはなるが――書きとめておきたい。

2002年に京都は同志社大学で開催された第1回比較教育社会史研究会大会で報告して以来、私にとってこの研究会は、10年以上にわたり継続的に参加し続けたほぼ唯一の学(者の集まる)会・研究(者の集まる)会となった。率直に言って、「自分の専門」とは言い難い場であったにもかかわらず。

なぜ私は通い続けたのか。

思い出すに、この研究会で発表される研究報告とそれをめぐって交わされる議論の応酬にみる、扱う時代のスパンの長さと、言及される地域比較・国際比較のスコープの広さとは――私の問題関心に触れるもののなかでは――他に類をみない水準だった。研究報告ではアーカイヴの一次史料に沈潜した緻密なモノグラフをものする一方で、本書の橋本提議に象徴的なある種の「大風呂敷」――揶揄ではない――を広げることに躊躇せず、個別の地域・時代・事例を超えて考えるべき「問い」を考え続ける「批判的対話」の場が醸し出す雰囲気、その両極を往復する振幅の大きさと確かさとは、当時の私にとって圧倒的な経験であった。

90年代半ばに教育社会学という入り口から本格的に研究の世界へと入り、計量的階層研究から逸れて――地理選択の高校理系出身ゆえ西暦と元号の変換すら即座にできない状態から――、少しずつ「歴史」めいたことへと軸足を移そう/移さなければと考えはじめていた当時の私は、したがってフーコー/アリエスインパクトとか構築主義とかの影響を――そのもっとも浅いところで、というべきだろう――受けてしまった世代であって、しかもそれを教育とか社会とか近代だとかを考える「足場」を揺るがすインパクトとして受け止めてしまったわけなのであるが、しかしどこかに「足場」を築かないとこのままでは「この先」はない、と模索していた、そんななかで見つけた「解」がこの研究会だったというわけだ。

私は「社会学」に、その「足場」があるとは考えなかった。

そういうわけで、この本に書いた文章は私にとって、とてもとてもできの悪い、10年お世話になったこの研究会への「卒業論文」のようなものなのかもしれない。だとすれば、先日の報告はさしずめ「口頭試問」である。

(入「院」するかは親と相談してからにします。)

どうでもいいが、このブログを開設した一番最初の理由は、比較教育社会史研究会の春季・秋季例会の告知を出すことだった。このブログがこんなに長ったらしくダサい名前を冠するのも、そういうことである。

今はこんな文章を書いてる場合じゃないだろう、と関係各位には思われるであろうこと必至なわけであるが、今を逃すともう書けなくなるかもしれないので、急ぎ書く。と同時に、それは今日(もう昨日か)、所用で欠席せざるを得なかった本研究会2014年春季例会午後のセッションにも、いくばくか関連するコメントとなるはずであろうから。

前置きが長くなった。つぎにブログを開けるのはいつになるか、だがなるべく間をおかず次回に続く、ということでこのエントリは閉じるにしたい。