『ある精肉店のはなし』をみたはなし

年明け初回のエントリに去年の話というのもなんだが、年の瀬の空いた時間に映画を観てきた(※例によって最低限の注意は払ったものでありますが、以下、一定のネタバレを伴うことをお許しください)。

『ある精肉店のはなし』(監督:纐纈あや, 2013年, 日本)大阪府貝塚市、仔牛の買い付け・肥育、屠畜・解体処理から卸売・小売・移動販売までを家族経営で手掛ける「生産直販」が看板の北出精肉店。冒頭、ふつうの住宅街とおぼしき路地を一頭の牛が引かれていく。行先は貝塚市立と畜場。1910年設立、2012年3月に閉鎖され、102年におよぶ歴史を閉じた。この「日本で一番小さな屠場」が閉鎖される間際の北出家の日々を追った、108分のドキュメンタリーである。

冒頭から引き続く映画の導入部は屠畜のシーン。ノッキングハンマーの一撃でドッと倒れた牛の額の小さな穴にワイヤーを通し、その巨体から急いで血を抜き水で流す。一刻を争うのでカメラマンに投げられる声も緊迫感を帯び、それに気圧されるように後ずさりする画面は揺れる。

そこから先、張り詰めた静謐のなかで600キロを優に超える牛がナイフ一本の手作業で捌かれていく様は見事の一言である。だが――当たり前のことだが――、そこに映し出される一つ一つのカットは細心の意図のもとに取捨選択され、編集されたものであることを観る者は後に知る。

大規模化した食肉加工場で20ほどの工程に分かれた流れ作業が一般化した今では、そのすべてを一人(内臓などの全処理を含めても家族数人)でやってのける熟練技はすでに稀少で貴重な職能である(最初の一撃をハンマーで、というのは初めて見た)。冒頭のシーンは、屠場の閉鎖の決定後、後世にその記録を残す意味も込めて開催された見学会の模様のようだ。通学途上の小学生の集団が、ぶら下げられた大きな枝肉に歓声を上げる。

その後、北出家の人びとへのインタビューによりながら、部落差別と水平社、解放運動の歴史が折り重なった家族と個人の生活史が綴られつつ、屠畜場閉鎖までの北出家の日常が丁寧に描かれる。精肉業の日々、太鼓づくり、だんじり祭り、盆おどり――そこに映し出される日常の1コマ1コマに、スパンを異にする重層的な〈時間〉の堆積を意識する。生命の時間、部落と産業の時間、家族の時間、個人の時間。たとえば作品中めちゃ明るくキュート✩でチャーミング♡な静子さんの、宇和島から集団就職で大阪にでてきて新司さんに出会った頃の写真の姿と、けれども新司さんを通じて解放運動と出会うまでの少女時代の自分が「あの頃は学校の先生も差別的な人が多かったから」「すごい暗い子やったと思う」と述懐するギャップのなかに、そのことを意識する。

被差別の歴史と解放運動の歩みについての描写なり説明なりに割かれる時間は多くはない。けれども、上にみたような「手法」によって、この作品はドキュメンタリー「映画」として成立している。「差別はいけない、などと声高に叫んだり、何かの結論が先にありきでつくったりするのではないということ」(命のリレーの尊さ感じて 「ある精肉店のはなし」監督・纐纈あやさんに聞く)、「屠場を特別な場所として扱うのでなく、北出さんたちにとっての普通の暮らし、日常の仕事として撮ることで、作品にできるのではないかと、ある時気づいたんです」(映画「ある精肉店のはなし」の監督、纐纈あやさんに聞く屠場「いのちを食べて人は生きる」)とは監督自身による言葉。生業を拠点とした日常、を撮る。

北出家の歴史=日常を綴った中盤をはさんで、冒頭の見学会と、終盤に「最後の屠畜」との2つの屠畜シーンが配置された構成は、したがって考え抜かれたものだろう。「最後の屠畜」シーンは、割かれる時間も冒頭のそれに比べて大幅に長く(なったように感じる)、映し出されるカットも、ぱっと見には「ショッキングな」映像が増える――ように思うのだが、中盤に描かれた北出家の歴史=日常を見てきた私たちは、すでに“その営み”を「ショッキング」だとか「残酷」だとか感じなくなっていることに気づく。わずか2時間足らずのうちに、見る者をぐっと近づけたのだ。北出家の歴史=日常を綴った中盤も、編集の妙によりドライヴ感満載で退屈しない。前売り券購入1300円で私は観たが、これが通常料金だったとしても「元はとれた」と感じただろう。

水平社創立宣言は日本語で書かれたもっとも格調高いテクストの一つである――ということを改めて認識する。人を動かし、人を変える力を宿す。あわせて、完成教育としての高校教育の重要性を思う。60歳に近い新司さんと昭さんはいずれも農芸高校卒であった。繋ぐのは〈ことば〉だ。小学校にも通わなかった父親の記憶とともに、新司さんは語る。

表現の貧しさは、文字と共に奪われてきたとぼくは思ってるんです。いかに自分の思いを適切な言葉で表現するかは、教育の中で培うこと。それができてないから、思いを伝えることが下手くそなんや。

ちなみに、本作パンフレットは作品中ではカットせざるを得なかったインタビューを含め(上記新司さんの言葉もそこから引用)、登場人物自身による屠畜や太鼓づくりの工程解説、屠場の様子と歴史、部落問題年表など、情報量が豊富で有意義である。鑑賞後に購入されてもよい。

個人的な関心で欲を言えば、新司さんの代に肥育から全工程一貫の体制づくりを試みたことの「思想」的な意味と「経営」的な意味(あるいは“現実”)とについての描写があればなおよかったが、まあそれはよい。撮影を担当した方へのインタビュー(そこにあるのは生きて暮らしている日常の景色〜「ある精肉店のはなし」大久保 千津奈さん(カメラマン) )には、すでに赤字続きであったとの指摘もある。

実は私のいちばん印象に残ったシーンは、新司さん・静子さん夫婦の息子さんの結婚式のところである。やはり「結婚差別」の問題は避けて通れないわけで、作品中には息子さんとお相手の女性へのインタビューもある。どのような表情で、何がどのように語られたかは実際に作品をご覧になるのがよい。

しかしこのお嫁さんというのがですね、あれですね、まじめにしなきゃいけない場面になればなるほど笑いがこみ上げると申しますか、あのタイプの子がそのままおっきくなった感じでして、岸和田城で挙行された結婚式で誓いの言葉を二人いっしょに述べる、という場面で笑いが止まらない。まったく止まらない。もーおかしくってしょうがない。笑ける。息子さん、早よまじめに言おや、となるけど止まらない。

途中、北出家の歴史=日常を描いた部分はドライヴ感あふれる編集だけれども、こういうシーンはじっくり残す。そういう映画であって、それがよい。

幸あれ。