噺家

FBに備忘で書いて時機がきたらブログにあげようつってたわけだが別に今すぐあげていいだろうということであげるわけである。

先日、野々垣務編(企画・民主教育研究所)『ある教師の戦後史――戦後派教師の実践に学ぶ』(本の泉社、2012年)の出版を記念して開催されたフォーラム「戦後民間教育運動を問う」に足を運んだ。戦後民間教育運動に身を投じてきた21名の教師に行われたインタビューをまとめたものである。聞き取り対象者の生年は1919年生まれと1942年生まれの各1名を除けば、1925〜1936年の約10年間に集中する。戦後第一世代と呼ぶらしい。

雑感。

戦後教育運動は、教職員組合運動すなわち教師の組合活動=労働運動との密接な、しかし緊張をはらんだ関係のもとに展開した。この本のなかでも「教育活動と組合活動の統一」「組合運動と教育実践の統一」といったフレーズが何度も登場する。

そのことはやはり歴史的にまじめに捉え直さないといけないなと。

職員組合労働組合としての機能と職能団体としての機能をあわせもったこと、教職員組合運動が「労働運動」の側面と「教育運動」の側面との双方備えていたこと。さらに、そこでいう「教育運動」と「民間教育(研究/実践)運動」とのあいだには微妙な、しかし確実に距離のある亀裂がまた走っていること。

「労働運動」と「教育運動」のアプリオリな切り分けはできない、し、すべきでない(「教研集会」ぐらいはまあ「教育運動」と押さえてよいかもしれないが)。考えるべきことを先取りした問題設定へと流れることになるだろう。

「教師」という存在がすでに/つねに教育システムの内的構成要素なわけだから、たとえば賃金闘争は「労働運動」であると同時に「教育運動」でもあるはずだ(教員の報酬に関する政策は通常「労働政策」という以前に「教育政策」とみなされるだろう)。逆に、たとえばカリキュラムの自主編成運動はもちろん「教育運動」であるが、これを労働過程の統制問題と捉えれば「労働運動」と見なすこともできるだろう。

言葉尻で遊んでいるようにも見えてしまうが、しかし、「当該闘争をどういうフレームで捉えるか」自体が当事者レベルでつねに有意味なものであったはずだし、その後の日教組の求心力の低下などを考えるうえでも「動員された解釈フレーム」の変容は重要な焦点を結ぶだろう。

したがって、ここでいう「教育運動」とは実態であるよりは「視角」の問題であるので、そのことと、上でふれたフォーラムのいう語「教育運動」とはまた位相を異にする。

それはさておき、このフォーラムに足を運ぼうという気になったのはプログラム中に発題者として竹内常一と藤岡貞彦の名を見かけたからだ。どちらもまだ実際に目にしたことのない「書物の中の人」であったので。

竹内常一の話は私個人の研究関心からいって、とても重要なポイントに触れるものであった。共編で出版された『教育と福祉の出会うところ』(山吹書店、2012年)に即した話であった。そこから引き出される課題は日本の斯界における語「生活」の歴史的意義を考えることへと繋がるだろう。

藤岡貞彦の話は面白かった。いや正確には「話ぶり」だ。知ってる人には有名なのだろうが、初めてだったのでたいそう楽しんだ。プロの噺家のしゃべりである。全盛期の先代・三遊亭圓楽よりはうまい(←よく知らない)。だが百戦錬磨の凄味も感じさせる、人物としてなかなかのお方であろうとお見受けした。

堀尾輝久は相変わらずであった。

ところで文中は敬称略ということでひとつ。

それはそうと異常に平均年齢の高い会場にあって(なにせ40代が「若いかたがた」と呼ばれる世界である)、真に若い人から最後「日本人の・日本人による・日本人のための戦後教育」なるフレーズが(ちゃんと)でた。現下の高校無償化除外問題を視野に入れてのことであるもちろん。

いろいろと宿題を多く持ち帰った1日であった。

それにしても教育まわりの1930年代生まれ研究者は衰えるということを知らない。たいがいにしたほうがいい。

そんなことである。

ある教師の戦後史―戦後派教師の実践に学ぶ

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教育と福祉の出会うところ ――子ども・若者としあわせをひらく

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