「ミクロ計量経済学的手法による教育政策評価の研究」研究集会

さる12月17日(土)、慶應義塾大学の赤林英夫先生が研究代表であるところの平成23年度科学研究費補助金(基盤A)「ミクロ計量経済学的手法による教育政策評価の研究」の研究集会なるものが開催され、不肖わたくしもプログラム終了後の懇親会まで含めて参加する機会に恵まれた。科研の名称がすでに雄弁に物語るが、日本でもようやくミクロ計量経済学が教育政策評価をめぐる研究に関与の度を高めつつある現状を反映し(←やや過大か)、たいへん有意義な会であったと思うし、今後の展開も期待するところ大である(←ここは正直)。

プログラムは以下の通り。経済学とは記載の慣習が異なるのかもしれないが、自分の領域基準にのっとり、実際に登壇された報告者に「○」を打ってある(研究業績表記の点で経済学では不適切であれば訂正いたしますのでご指摘ください。>識者)。

「ミクロ計量経済学的手法による教育政策評価の研究」研究集会


・「少人数教育の計量経済分析:静岡県における全国学力・学習状況調査を用いた検証」
○佐野晋平(神戸大学)・直井道生(東京海洋大学)・赤林英夫(慶應義塾大学)・中村亮介(慶應義塾大学


・「全国高等学校調査の分析:進路指導と就職実績を中心に」
○太田聰一(慶應義塾大学)・赤林英夫(慶應義塾大学)・直井道生(東京海洋大学)・荒木宏子(慶應義塾大学


・「Childhood adversity and adulthood happiness: Evidence from Japan」
○小塩隆士(一橋大学)・梅田麻紀(東京大学)・川上憲人(東京大学


・「Long-Term Effects of Preschooling on Educational Attainments」
○田中隆一(政策研究大学院大学)・赤林英夫(慶應義塾大学


・「Identification and Estimation of Models with Incomplete Data by Combining Two Data Sets」
○市村英彦(東京大学)・Elena Martinez-Sanchis(University of Alicante)


・「Effects of the participation in family budgeting on subjective health status: Empirical study for Japanese married women」
吉田あつし(筑波大学)・○牛 冰(筑波大学

フロアにいた参加者は、経済学系の研究者以外には、文科省の若手官僚(含む専門(研究)職)や、非経済学系の計量系研究者(行動遺伝学や社会学 etc.)や、私のような非経済学系・非計量系・なぜか教育まわりにうろつく系研究者など、事前に研究集会の情報が回ってきた人限定であるが、これまでにはなかった複数業界にまたがるメンツがそろった研究報告会で、それも面白かった。

研究報告の内容に関しては、「経済学のみならず疫学や社会学、心理学の知見も動員され」、たいへん刺激的であった、と同時に、「ミクロ計量経済学というと万単位の個票データでバリバリという偏見があったのだが「金がねーよ質のいいデータがねーよ」とひいひい言いながら多重共線性におびえ系列相関におびえつつこつこつ泥臭い分析をしていることがわかって大変感銘を受けました」という厨先生こと稲葉振一郎さんによるツイッターでの感想がすでにすべてを言い尽くしている感があり、贅言を要しない。

しかし、「「金がねーよ質のいいデータがねーよ」とひいひい言いながら多重共線性におびえ系列相関におびえつつこつこつ泥臭い分析をしていることがわかって」、のあとに「なんだ、思ってたほどたいしたことねーな」ではなく、「大変感銘を受け」た、と続ける厨先生のお言葉こそ噛みしめてほしい。誰よりも、やはり、教育社会学でこの手の調査・研究に携わってきた方々に。

まあ「学際的」なんていう言葉のうすら寒さについてはすでに言い尽くされた感もあるが、政策評価をめぐる研究(教育社会学の慣習にならって「政策科学」と申しておこう)はやはり複数のディシプリンの混合体を編成して問題にあたらざるをえない――というよりも、あたるべきである。そのときの領域間の「接し方」の作法というのは、あると思う。そして、それが「作法」である以上、反復と習練による獲得が必要な類のものである。

私が研究集会直後にツイッターで語った感想は、ある種の「既視感」をめぐるものであった。

これは懇親会の際に痛感されたことであるが、経済学系の人=「教育経済学」者は、自分たち以外の教育諸学(含む教育社会学)を一括りに「教育学」と呼んで自らと区別する話法を駆使し、その問題意識を述べられていた。とても熱く語っておられたし、とても共感できる内容だった。しかし、そこで一括りにされた「教育学」とは、「教育を対象とする」という以上の共通項など認められないほど複数のディシプリンに依拠する雑多な集合体を名指す話法であったので、自らをのみそこから区別することは――無意識に駆使された――固有の話法、ということができよう。

そしてそれこそ、かつての「教育社会学」者の所作である。

あるいは、これは研究報告のあとの質疑応答の際にも懇親会の場でも痛感されたことであるが、その場に居合わせた教育社会学者の何人かは、経済学(や行動遺伝学)者の問題設定そのものにある種の疑問を呈し、かなり根底的な議論を投げかけ、自らの問題意識を述べられていた。とても熱く語っておられたし、とても共感できる内容だった。少なくとも、重大な問題の所在をとても鋭く突いた問題意識であったと思う。

そしてそれこそ、かつて(教育社会学が十把一絡げに規定したところの)「教育学」者が、教育社会学に向けてとったところの所作である。

だが、だからどっちが悪いとか、どっちもどっちだと言っているのではない。

私はかつて、「「教育さん」再論、からの、宣伝(←ここ重要)」と題した長文エントリ(なんちゅうタイトル)の終盤で、こういう事態を予見していた(という自慢話)。少し引用しよう。

そもそも、20世紀に入ってから徐々に学問としての自律性を獲得してきた日本の教育学について、その今日に至るまでの歩みをざっくり言えば、一世代前の「教育」語りを「観念的・思弁的」な「伝統的教育学」と名指したうえで、自らを「教育科学」――新たな、あるべき「教育」語り――と位置づける、その反復の軌跡として描くことが可能である。


したがって、「教育学」は規範を語るが「教育社会学」は事実を論じる、とか、「規範的な言説に覆われた「教育」の世界の自明性を疑い覆す、それが教育社会学」、的ないささか不正確なスローガン・・・(中略)・・・のもとで80年代以降に存在感を増していった日本の教育社会学による自己規定のパターンも、そうやって20世紀以降繰り返されてきた「教育科学」自称のステレオタイプの何度目かの反復でしかない。実際、そこで「観念的・思弁的・規範的」と名指され批判の対象(であるかのように)とされた「教育学」も、それ以前の「教育学」に対する自己規定として「教育科学」を自称していた(し、今日においても自称している)のだから――もっとも「科学」の語の意味内容こそ変容したが。


ということは、今、「科学」だと自認している教育社会学・・・(中略)・・・の言説も、もう何年かしたらきっと「過度に観念的・思弁的」な「伝統的教育学」のカテゴリにざっくりと入れられて、十把一絡げで批判される日がくることだろう――かつて自らがそれ以前の「教育科学」をそう扱ったように。

「批判」の対象として意図されていたか否かは措くとして、しかし、私が17日に目にした光景は、ここで予見された事態の何歩か手前の情景なのではなかったか。

もう「知」のほうの下準備はとっくにできている。あとは「データ」のインフラが整いさえすれば、そうした流れは一気に進み、「教育」語りの風景は一変することだろう。どちらかというと私はその日を心待ちにしている。教育社会学お得意の「パラダイム転換」というやつさ(まあしかし、このインフラの確立というお題が日本では一番の難物なのさ)。

ここにいう「知」とはミクロ計量経済学。そして、ここにいう「データのインフラ」という論点は先に紹介した厨先生が吐露された感想へと繋がっている――ただし、ミクロ計量経済学も「データのインフラ」の確立という高きハードルの前で身もだえしつつ現実と格闘している、という文脈で、だ。

このような現実認識をもとにして、私は研究集会直後にツイッターでこう語っていたようだ――むかし教育学界にあったような不毛な議論のすれ違い(によるロス)を極力少なくするために重要なポジションにあるのは「教育社会学」であろう。かつてを反省し、今を受容する力量があるか否かが試される。それが「教育学としての教育社会学」の成熟を測る尺度となるだろう、と。

懇親会の席で、ある若き教育社会学徒――某研究会でご一緒する機会が多く、しばしばその鋭い洞察に舌を巻く若き教育社会学者である――は、たまたま同じテーブルで隣席になった行動遺伝学の俊英たる某氏に議論を投げかけた(こちらも誰がみても頭脳明晰、前途有望な日本の行動遺伝学のフロントランナーである)。

酩酊一歩手前だった私の記憶を信ずるならば、それは「教育における遺伝の影響を“計量的/実証的”に扱い言及するのは“優生学につながる危険”があるのではないか、その問題をどう考えるのか」という議論だったように思う――違ったかもしれない。しかし、酩酊一歩手前だった私の耳にはそれは「行動遺伝学は優生学につながる」から「そんな議論はやめよ」と言っているように聞こえた(――たぶん幻聴だと思う)。

そして、それは同時に、酩酊一歩手前だった私の眼には、「教育の世界に経済的な変数や観点を持ち込むのは“資本(主義)への従属につながる危険”がある」から「そんな議論はやめよ」、とかつて教育社会学者に詰め寄った(と風の噂に聞くところの)教育学者の姿に重なって見えた。「経済的な」のところを「遺伝的な」に変えてみればよい。

たぶん幻覚だ。

研究報告のあとの質疑応答で、教育社会学者の広田照幸氏は、「このような、後で間違っていたことが判明するかもしれない(怪しい)研究成果をもとに政策提言することの意味をどう考えるか」「どこまでいったら政策提言するに足る知見に行きつくと考えているのか、これで提言してよいと思うのか」(大意)という疑問を投げかけていた、と記憶する(――酩酊してはいなかったが、間違っているかもしれない)。

たしかにその報告は未検出の(しかし比較的容易に想像がつく程度の)「第三の変数」の統制が甘い報告ではあった。だが同時にそれは、「お前はどうなんだ」と切り返されでもしたらグウの音もでないような自分ツッコミにもなってる(にも関わらずそこから自らを切り離して投げかけられた問いである)という印象は否めない。

どうであれ、教育政策にエビデンスを要求する話法を確立したのは「教育社会学」なのだから。

もしもこうした言明が、教育には「エビデンス」では語りきれない議論の領域があり、政策提言にあたってはその領域に対する「皮膚感覚」的なものが不可欠なのだ、的なニュアンスをわずかなりとも匂わすならば、とうてい受け入れがたい――というのも、そこで持ち出されている「ニュアンス」とは、私の「皮膚感覚」を信ずるならば、かつて教育社会学が口をきわめて批判したところの、教育学いうところの「教育的価値」の機能的等価物であろうから。

私の眼にはそのように映った。今起こりつつあることは、かつて起こったこととパラレルに展開しているのだ、と。だからもう一度繰り返すけれども、むかし教育学界にあったような不毛な議論のすれ違い(によるロス)を極力少なくするために重要なポジションにあるのは「教育社会学」なのであって、「教育社会学」にかつてを反省し今を受容する力量があるか否かが試されているのだ、と。それこそが「教育学としての教育社会学」の成熟を測る尺度となるのだ、と。言い換えれば、「作法」の習得にアドバンテージがあるのは他でもない、「教育社会学」なのだ、と。

私の主張はこれに尽きる――変な劣等感を抱くことなく、変な優越感を抱くことなく。

中途半端な学問にも中途半端な学問なりの存在意義というものがある。それは中途半端な学問にしかできない何事かが必ず存在するということだ。あるいは私たちは、天野郁夫がかつて語った教育社会学の「辺境性と境界人性」(『教育社会学研究』第47集、1990年)を、もう一度新たな時代状況のもとで読み直すべきなのかもしれない。

これ以上具体的な問題については、「政策科学としての教育社会学」を現に担う方々の語るところに耳を傾けるべきであろう。

学力研究の俊英・川口俊明さんはツイッターで(おそらくは自らが携わる学力研究を想定されて)、「(仮に優れた公開データベースが存在していれば)計量的に政策評価をするという一点だけに限れば、教社[教育社会学:森]は教経[教育経済学:森]に劣るかもしれない。でも、公開データベースを支える市場をとりまく力学や、そこで測定される「学力」とは何か、といった教社(あるいは社会学)の問題意識は、むしろ輝きを増す気がする」と述べられている。

その通りだと思う。

同じく、「いくら頑健な推定法を使用しようが、ベースになる測定がお粗末だった場合、けっきょく知見の信頼性に疑問符がついてしまって、「これだから○○学は・・・」の類の泥仕合が始まる気がします。やっぱ測定の専門家の協力はいると思いますですよ」と述べられたうえで、「どーいう状態がいいのかといえば、社会や経済だけでなく、心理・測定・教科教育・工学あたりの専門家が、学力テストの設計・実施にかかわっていく必要があるんだろうなあ。高度なテストを実施・公開・維持していくには、さまざまな分野の専門家の連携が必要でしょうし」と語られている。

その通りだと思う。

彼もまた上述の拙エントリと同じく、「何にせよ、現状の「きちんとしたデータがない」状況は、関連学問分野すべての発展にとって不幸」と、教育政策評価をめぐる「データ・インフラの整備」の緊要性について言及している。そのためにも、「さまざまな分野の専門家の_(不毛な対立、ではなく)_連携」こそ必要なのだ。

17日の赤林科研の会にはさまざまな業界を架橋するようなメンツが意識的に揃えられていた。揃えられてはいたのだが、いかんせん、赤林先生の個人的なネットワークの外に広がるには限界があったため、たとえば私などは広田照幸先生の科研に所属しているがゆえに情報がまわってきたが、(おそらくは私などより当日その場に居合わせるべきであった)川口さんをはじめとする、参加が切望される教育社会学者にはその機会が閉ざされていた、とのうらみは残る。ぜひとも今後はより広く有機的なネットワークが編成されていくことが望まれる。

それにしても、赤林先生の取り組みが有する意義は、いくら強調されても強調しすぎということはない。われわれがなすべきなのは、こうした取り組みのなかで生起するであろうさまざまな領域間の「摩擦」を、不毛な感情的対立に堕することなく、より高次の問題意識の共有とそれぞれのディシプリンの洗練に繋げていくための努力であろう。

繰り返すが、その鍵を握るのは――自分が育ったフィールドであるという判官贔屓を割り引いたとしても――「教育社会学」になるのではないかという気がする。

そして、うまく説明できないが、教育学の世界で教育社会学がいま経験していることは、タイムラグをともなってやがて社会学全般が――私が現在禄を食む領域が――経験するであろう何事かではなかろうかと思う。

てな感じで、とても知的にスリリングな経験のできた一日であった。