朝日新聞書評欄にのっかって

9月11日朝日新聞の書評欄でやや小さめですが宮寺晃夫(編)『再検討 教育機会の平等』が取り上げられました。岩波編集部の方に教えられて気づきました。拙稿への言及にもワンセンテンス割いていただいたようで、感謝です。

個性化教育を格差拡大と結びつける言説があるが、社会学者の森直人は、格差を解決するためにこそ個性化教育を実践する小学校を紹介する。

難しい話は抜きにして、とくに小中学校の先生方には実践の紹介部分だけでも読んでいただければ幸いです。

私は「教育機会の平等」の実質化を目指す実践手法として個別化・個性化教育が唯一絶対の解だとは思っていません。しかし、一つの有力なオプションではあろうと思います。

家庭環境に困難な背景のある子どもや、それゆえの「荒れ」を抱えている小中学校では「子どもの自主性、個性尊重の教育なんてうちでは無理に決まってる」と決めつけがちなのですが、むしろそういう学校でこそ、一つの有力な選択肢として、この実践プログラムの導入を検討してみてほしいと思います。

子どもに学習展開の主導権を(もちろん、まったくの「自由」などではなく、決して破ってはならないルールの提示とともに)思い切って委ねてみると、かれらは驚くほど「主体的」に振る舞い始めます。それまでは――教師主導の学習プロセスのもとでは――「荒れ」がちであった子どもほど、その転換は劇的です。

「○○はやらなければならない/やってはならない、だが、それさえ守ればあとはきみらに任せる」――思うのですが、「個性」などという怪しげな言葉を用いるから「個性尊重」というのは「できないのも個性」と認める実践だなどという、いささか明後日な(誤解をしたにわか勉強実践者がいたことも容易に想像できますが)「批判」を招いた所以であって、端的に「個人(としての学習者)」の尊重、と言えばよいのではないかと思ったりもします。

そして、なぜ「荒れ」がちな子どもの変化のほうが鮮烈に映るのかと推察するに、おそらく、そういう子どもはそれまでの生育環境において「個人」として十分尊重された記憶をもたないからではないかと感じます。

学習カードをもとにした自学には節目節目でチェックテストを行う局面がありますが、往々にしてわれわれは、教師の監視下からはずれると子どもはみんな答えをカンニングするのではないかと考えてしまいます。しかし、実際にはかれらはほとんど、そうしない(ということはつまり言い方を換えると、カンニング行為という望ましくない学習形態の発生にとって、そのように振る舞い得る状況がある(教師の監視がない)、というのは一つの誘因でしかなく、それもかなり優先度の低い誘因でしかないことがわかります。それを生みだすのは、もっと他の要因なのです)。

こうした点は、成田先生から送られたコメント中にも、拙稿における石西の事例の位置づけに対する指摘として言及があります。

拙稿122頁で、

「格差/多文化・多民族社会」という時代の新たな局面において、「荒れ」を抱えたごく普通の学校建築の「教育困難校」に個別化・個性化教育の導入を試みる石西の挑戦は、こうした前提に真っ向から対峙するものである。

と論じたのに対して成田先生は、

石西の位置づけに異論はありませんが、これを言うなら、個人的には東海市上野中の実践こそ検証する意味があると思います。

上野中は、私が緒川の後に赴任した学校で、新日鐵ブルーカラーの城下町です。となりの富木島(ふきしま)中と並んで80年代中盤には荒れに荒れた地域で全国ニュースや書籍にも取り上げられた程です。ここで、私は明確に「中学校における個別化・個性化」をめざして実践しました。校則の自由化・教室の再配置とリニューアル・総合学習の導入(兵庫のトライアルウィークの何年も前に勤労体験もしています)・学習パッケージによる一人学び・学校行事の改革などを通して、多感な中学生が劇的に変わっていきました。

論を展開するうえでは、この方がおもしろいのですが、本当でしょうか。横浜の本町や、根岸・台東区上野などは確かにそうかもしれませんが、三春・福光・池田など[いずれも公立小学校:森]はそうばかりとは言えないのではないのでしょうか。

と指摘されています。つまり、すでに石西以前にそのような観点から実践側は捉えていたのだと、そういうことです。

後段に挙げられた小学校については私はやや見解を異にしますが、ブルーカラー集住地域であった上野中の事例はまさにご指摘の通り重要な先行事例だと理解しています(ので、最終稿では注記を付しました)。

しかしながら同時に、ここには大きな論点――日本の実践者にとっての「階層」変数の布置をめぐる論点――も存在します。同じ成田先生のコメントにある、

教育社会学者と、実践者の立場の違いなのでしょうが、当時も今も、私たちは階層差という「変数」を微塵も意識していませんでした。

結果として、教育社会学の側から階層を切り口とされるのはご自由ですが、、私にはどうしても違和感があります。

という点とかかわります。

石西に赴任してからあまりの困難な実態に若干ウツっていたT先生に対し、「石西みたいな子らにこそ個別化・個性化教育が有効なんだ」と強く助言し、T先生にその導入を決心させた成田先生にして、【そのこと】を「階層」という切り口では認識していない、という現実ですね(←別にぜんぜん批判しているわけではないです、「現象」としてそうだということの確認です)。

エントリを改めてこの販促シリーズの最後に検討することにします。

もしも勤務する学校で子どもたちの「荒れ」や「学力テスト」の結果の低さ_以前の「学習意欲」の低さ、などに悩んでいる先生がいらっしゃれば、ぜひ本書を手にとって拙稿をご笑覧いただければと思います。繰り返しますが、難しい話はおいといて、実践の紹介部分だけでもお読みください。

そして、拙稿をお読みいただいて少しでも興味を抱かれた方は、毎年8月に開催される日本個性化教育学会に足を運んでみてはいかがでしょうか。そこでは毎回、実践報告に加えて、実際に参加者が個別化・個性化教育を体験してみるワークショップも開催されています。学習カードや学習環境づくり(のさわり)などレクチャーを受けながら実際に――この体験自体を「個別化・個性化教育」式で――体験することができます(ここ→日本個性化教育学会公式ホームページに掲載される情報をご参照ください。ちなみに今年は上智大学で開催されました)。

よろしければ、ぜひ。