後日のエピソードから

なにか新しい展開が降ってこないかぎり、折り返し地点は過ぎましたが、出版記念祭りはまだ続きます。というか、ふつうに考えれば本丸の問題であるはずの「個性」とか「階層」とかは、いまだ手つかず。

拙稿を書きあげてからもうずいぶんとたったある日、その日も石西に足を運び授業の様子を観察していた私の他にもう一人、現職の小学校(だったかな)教員で現在は長期研修制度を活用し某大学で研究活動をしているという先生も参観にきていました。とくに個別化・個性化教育に関心があるというわけでもなく、各地で展開されているさまざまな特色ある実践開発を一つ一つ見て廻っている、といった風情とお見受けしました。

私のだいたいの素性を知らせたうえで、いつも来て見てる人だから、何かわからないことがあったら彼に聞いてください、というようなことを最初にT先生から言われていたらしい彼は、少し当惑気味の表情で私に尋ねてきました。

「この取り組みは一体なんの意図があるんでしょうか?」

彼の質問の趣旨はこうです。「○○学習」というのがかなり大胆な、特色のある実践だというのはわかる。けれど、それが他の授業とまったくリンクしているように見えない、というわけです。だから「意図」が見えない、と。ある特定の教科の特定の単元【だけ】が「○○学習」という形態に変えられているだけで、他の授業はふつうの一斉授業方式をとっている。だから、その特殊な学習態様が学校全体の改革につながっているように見えない、というのが大意だったでしょうか。

彼の指摘はすごくよくわかる。石西の学校改革の柱は二つあって、一つは「わくわくフリータイム」と名づけられた「自由活動型総合学習」と、もう一つは「○○学習」(まるまる・がくしゅう)という呼称の「二教科同時進行単元内自由進度学習」なのですが(この詳細は拙稿を参照してください)、総授業時間数に占める量的割合でいえば、これら二つは実はマイナーなのです。

「わくフリ」は拙稿に書いたように2時間続きの年間14回です。それしかない。他方、「○○学習」のほうは「毎日」ある、けれど一日のうちの1時間、多くて2時間という量的比重です。その他の4〜5時間はふつうの学校で行われている授業形態で進んでいきます。これは拙稿には「書かなかったこと」ですね。拙稿だけ読んでると、なにか教科学習はすべて「○○学習」で進んでいるような印象を受けるかもしれませんが、それは実態とは異なります。

緒川で作り上げられた「ガンダム」版の個別化・個性化教育は、「指導の個別化」と「学習の個性化」という2つの鍵理念のもとに著名な「緒川小の六つの学習態様」を生みだします。その「六つの学習態様」が精密に組み合わせられて総授業時数が編成・設計され、個々の授業へと分節化されているわけです。だから「本来の」個別化・個性化教育とはそうしたトータルの教育プログラムだということです。

石西はその「六つの学習態様」のうちの2つ、「オープンタイム」と「週間プログラム学習」【だけ】をあたかも独立の「モジュール」であるかのようにこれを取り出し、「わくわくフリータイム」と「○○学習」という名前をつけて、ふつうの学校教育計画のなかに一部のみにそれを組み込んだ、という形態をとっていると言えば実態に近いでしょうか。

ところで思い出したので余談ですが、独自の実践開発を行っている学校では、そこ固有の学習活動に固有の名称を与えるという慣行があることも、こういう学校に通うようになってから私も知りました(トヨタ自動車が「カンバン方式」とか命名するのと同じノリかもしれません)。しかし、「わくわくフリータイム」とか、「オープンタイム」とか、「週間プログラム学習」とかって、なんとなく中身の雰囲気を醸し出してる名称じゃないですか。ですが、「○○学習(まるまる・がくしゅう)」とは?

やっぱ「二教科」同時進行だから、○(一教科)と○(一教科)で二教科? みたいに部外者は納得の形式を用意しようとしたりするわけですけれども、そんなのぜんぜん関係ありません。

かつての緒川で行われていた「週間プログラム学習」の導入をフックにした学校改革に踏み切る初年度。この学校ではこれから新しい特徴ある勉強の仕方をみんなでやっていくから、この勉強の時間にどういう名前をつけるか募集しまーす!! と、先生が子どもたちに名称を募集した。その正式名称が決まるまでのあいだ便宜的に「その時間」のことは「○○学習」と仮の名称が与えられていた(だって名前が決まってない)、んでそれを使って会話してるうちに「○○学習」のまま定着してしまい、「なんかもう別の名前つけるのダルくね?」みたいな(←妄想含む)、「もうみんな、まるまる学習って呼んでるし、まるまる学習でよくね?」みたいな(←誇張含む)、とそういう経緯で決まった名称でした驚いたかこのやろう。

ここらあたりは石西の学校改革をけん引したT先生(ちなみに女性)のキャラを象徴するエピソードなので掘り下げても面白いのですが、今はやめておきます。

閑話休題

ですから、トータルプログラムとしての緒川の実践を開発した成田先生の立場からすれば、石西の実践が「個別化・個性化教育」と呼ばれること自体、何の留保もなく受け入れることなどできないというのはわかります。

石浜西小学校の実践を、「個別化・個性化教育」と呼んでしまっていいのかどうか、少し気になります。むしろ、そこに近づけることこそが、今や最大の課題だと思っています。

という成田先生の言葉は、ですから、選ばれている言葉のニュアンス以上に相当強く受け止める必要があります。全体として一つの理念を構成している実践プログラムの部分だけ取り出されて評価を受けるということ自体に抵抗があるだろうと推察します。

私の考えを述べれば、T先生がチョイスした「わくフリ」と「○○学習」という2つの学習態様は、それ自体で一定の完結性を帯びた「モジュール」として取り出し可能であるし、取り出して総授業計画のなかに組み込む際に一番訴求力を有する「モジュール」であったと思われるし、【事実、それによってこの学校は大きく変わった】、だから、むしろ「モジュール」の部分的適用のみでここまでの射程とインパクトとがあるということが証明されたことを評価すべきであろう、と思っています。

そして、これならどんな学校にも埋め込むことができるし、それによって、相当ドラスティックな変化を学校全体に及ぼすことが可能になる。逆にいえば、このような「モジュール」の移設以外の方式で「個別化・個性化教育」を導入しようとすれば「総取っ替え」するほかないでしょう。カリキュラムごと、教師ごと。

それ――総取っ替え――は(金銭的な、という意味ではない)コストを度外視すれば、やろうと思うなら実践レベルでは可能な選択です。取り替えた教師は【他の学校に】行けばいい。ですが制度レベルでは?

これまでのエントリで紹介してきたような私の石西に対する把握の仕方を踏まえながら、上述のような主旨でこの先生にはお答えしました。その反応からは一定の納得を得られたものと判断しましたが、私の応答の妥当性は、むしろ実際に実践を担っている人びとの吟味を経るべきものでしょう。

さらに言えば、取り出された2つの「モジュール」の中身そのものについても成田先生の石西に対する評価は「辛い」と思われます。

「○○学習」についての拙稿の解説のうち、拙稿125頁後ろから3行目〜2行目に対して、

この分け方(コース設定)は、一人学び本来の考え方ではないことに注意されたい。

126頁2行目〜5行目に対して、

これも、本来の考え方とは違うことをご理解ください。元々は「課題提示」ととらえていただきたいところです。

126頁後ろから8行目〜2行目に対して、

う〜ん、本来の週プロとは似て非なるもの、つまり「個をとらえて処遇する」というねらいから外れたところでの実践をベースにして分析をするのは、前提が違ってくるのではないでしょうか。

という、成田先生が指摘したそれぞれのコメントはすべて、石西の「二教科同時進行単元内自由進度学習」における学習パッケージ作成のプロセスが緒川におけるようなそれ(前々エントリ参照)を踏まえていない点に関わります。「個をとらえて処遇する」という理念を実質化するために必要な作業(個々の子どもの活動に対する濃密なモニタリング・記述作業を基盤とした、あれ)が投下されていないが故にその実践がはらむことになる弱点に対する懸念が反映されているといえるでしょう。それは教育社会学的批判のポイント――ここでは「対応原理」的把握に準拠した批判――が想定されているといってよいのかもしれません。

また、同様のコメントは「わくフリ」に関する拙稿の記述にも寄せられています。拙稿134頁4行目〜8行目に対しては、

「わくフリ」を自活型総合学習と規定すること自体問題だと思います。(加藤[幸次、上智大学名誉教授、国立教育研究所研究員時代に緒川の実践開発に携わる:森、以下同様]氏や奈須正裕氏[上智大学教授]は総合学習だと言っていますが・・・。)


総合学習は、よりよい市民となるために生活課題に向き合うことです。


オープンタイム[=石西の「わくフリ」の原型である緒川での「自由活動型総合学習」]は、あくまで計画力・実践力、成就感・満足感であって、「価値ある力」をめざしていないことは事実ですが、追究の意欲化を図る学びの体験であり、生涯学習のための基礎・基本だと考えます。

という指摘に加えて、同頁の後ろから7行目〜4行目に対して、

「わくフリ」も(実は週プロ[と石西の「○○学習」とが似て非なるものであるの]と同様)、オープンタイムとは似て非なるものだととらえています。そうであるが故に、この軽さは、時として「指導場面からの逃避」と映る危険性があると感じています。

という指摘があるのも、「真の」個別化・個性化教育には、そのような批判をはねつけるだけのポテンシャルがある、という確信に裏づけられつつ、そこには拙稿でいうところの「規律化の弛緩」的把握に準拠した批判が意識されているだろうことは推察するに難くありません。

いずれもディフェンシヴです。拙稿に対してというより、石西のT先生に向けられたコメントのような印象すらありますw

しかし、やはり成田先生は実践家として一流だ、と思ったエピソードがありまして、実はこの初稿を読んでいただいてコメントも送っていただいたあとに石西で公開研究会が開かれたことがありました。その日のことは(大変な一日だったので)このブログでも一度長文のエントリ(「文句があるならオレに言え」)になったことがあります。

その「○○学習」部会で成田先生は助言者の一人に指定されていて――私の勘違いでなければ――上述したような石西の「○○学習」の弱点、すなわち「学習パッケージ」の作り込み方の弱さを指摘し、改善するための助言を与えておられました。

それは前エントリで紹介したような「ガンダム」時代のモニタリング作業から始めろ、といった「俺が若いころはなあ」的な苦労話を正当性の根拠にすえつつ正しいのかもしれないが現実的妥当性と実現可能性に欠ける類の「説教」などではなく、単元解釈の「切り口」をめぐる発想の転換の具体例をその日公開された授業の単元に即して自ら提案することで教師の「意識改革」を促すような、そういう助言のように受け止められて私は思わず感嘆してしまいました。

それが昨年度の終わり頃の話なのですが、事実、それを踏まえた今年度の学習パッケージは、素人目にも違いがわかるほど「質」の変容と向上とが感じられます。実践に関してはずぶの素人がこのようなことを指摘するのは気が引けるのですが、昨年度までの学習パッケージにはどこか作成に際しての「安易」な影を感じることがなくもなかった。まあ教科書準拠の標準的なのを軸に、あとは「その上」と「その下」みたいな?、みたいな。そういう印象がそのまま拙稿の記述にも反映されているわけです。けれども、今年の学習パッケージは明らかに、作成のスタートラインでもっと考え込まれている。大胆な発想で、学習カードの流れ自体にダイナミックな「動き」が感じられると申しましょうか、、、いやこれ以上の素人談義は控えておきましょう。

しかしながら、私がかりに成田先生率いる全盛期の緒川の実践をあわせて参観していたとしても、緒川よりはT先生による石西の取り組みのほうに惹かれていたのではないかと思われます。それは通っている子どもたちの社会経済的背景と実践との組み合わせがもたらす印象の故というだけでもなく、教師の「意識改革」や労力の多大な投下を強要したりせずとも駆動するプログラムであるが故にそうだというのでもない、おそらくは、通常形式の「教育」のなかに、それと異質な論理の育成方式が【部分的に】組み込まれ、そのことを通じて、「教育」【全体】の構図が活性化し更新されてゆくというようなあり方が象徴するなにものかに、今後あるべき教育設計(制度構想レベルでの)のアナロジーを見出してしまうが故にそうなのであろうな、と思ったりするわけです。

このような感想も、実践レベルと制度レベルとを混同してしまったところに生み落とされているわけですが。