「個別化・個性化教育」という同じ名で呼ばれる2つの実践――「ガンダム」か「GM」か

さて、拙稿に「書かなかったこと」や「書いた後に考えたこと」、それも拙稿が記述の対象とした人びとと議論を交わすなかで「考えたこと」を紹介していくためにも、拙稿が何を書いたものかについて、最低限の了解をもっておきたいと思います。

『再検討 教育機会の平等』の編者である宮寺先生執筆の序論から拙稿の内容をコンパクトに紹介した部分を抜き出します。

第五章の森論文(個性化教育の可能性――愛知県東浦町の教育実践の系譜から)では、一九九〇年代以降展開されてきた「教育の個性化/自由化」政策に向けられた教育社会学の言説が、教育機会の階層間格差拡大という側面だけに焦点を当ててきた点で、一面的であると批判する。「個別化・個性化教育」の実践には、地域の公立学校で受け継がれてきた独自の理論が見出しうるとして、森はそれを「教育可能性に向けたテクノロジーの昂進」という視点から抉出するとともに、教育実践運動が、地域とのつながりのなかで、教師の職能形成を支えてきたことを再評価していく。(10頁)

全5節で、70年代後半に緒川小学校で誕生し、80年代にかけて影響力を増していった愛知県東浦町の「個別化・個性化教育」の歴史的な展開=転回過程を政策動向との関連のもとで素描し、2005年に新たな小学校(のちに具体的に論じる)へと継承される経緯を紹介し(1節)、

その小学校に導入された「個別化・個性化教育」の具体的な実践について、学校経営上の教育課題と柱となる教育方法の面から言及し(2節)、

そのような「子ども中心主義」的教育実践は階層間格差の拡大をもたらす元凶だとして厳しい批判を浴びせた教育社会学の言説構造を苅谷剛彦先生の所論に沿いながら記述し対比させたうえで(3節)、

実際にその小学校で行われている教育実践を「教育可能性に向けたテクノロジー」としていくつかの論点に分節化したうえで、その具体相に即して実践理論と教育社会学言説との対立点=争点を浮き彫りにすることで(4節)、

結論として、教育社会学言説の一面性を批判し、「個別化・個性化教育」の実践がもちうる可能性の余地を確保する、というような構成になっています。

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つまり、話の骨子は明らかに「個性の尊重」を謳った教育実践の側と、そんなものは教育の格差を拡大することにしかつながらないという批判を浴びせた教育社会学言説との対立の構図をベースにしているというわけです。ですが、私が「ここに書いたこと」のあとに提起したい最大の論点は、すべての話が終わった最後のパラグラフ4行にあります。つまり、教師の職能形成を支えるもの、についての論点です。

ここから話を具体的にするために、登場人物のお名前を特定しておきましょう。

教育社会学言説の代表者は、すでに上述の通り、苅谷剛彦先生です。これはもう説明は省きます。

重要なのは実践者側の登場人物です。なかでも、「個別化・個性化教育」の実践開発のパイオニアとして著名な成田幸夫先生が最重要人物です。これは愛知県知多郡東浦町の町立緒川小学校というところで70年代後半から取り組まれ、80年代には超有名校として「君臨」した公立小学校です。

これから少し議論の応答を試みたいと思っているのは、この成田先生から拙稿に対して寄せられたコメントをめぐってです。

ところで拙稿が具体的に論じたのは、この超有名校・緒川小学校ではなく、石浜西小学校(石西)というところです。これがどのような学校かはすでにこのブログでも何度かご紹介しています(たとえば前エントリ内のリンクをご参照ください)。

この石西の学校改革を担った研究主任のT教諭。この方がかつて30年ほど前に新人として最初に赴任したのは、当時、成田幸夫先生を研究主任として実践開発を遂行中であった緒川小学校です。そういう意味で、この2人は「師弟関係」という見方ができます。公立学校の教師は最初に赴任した学校での「3年間」がその後の職能形成にとって極めて重要、みたいな話は教育実習の挨拶などでいろんな学校に足を運んだときに何度か聞きましたが、T教諭にとってはそれが緒川であり、成田先生であったというわけです。

しかし、私見では、このお二人の「個別化・個性化教育」をめぐる「思想」にも重要な違いがあります。それはひいては、教師の職能形成をめぐる姿勢の違いに通じています。いえ、正しく言うなら逆かもしれません。教師の職能形成をめぐる姿勢に違いがあるからこそ、追及される実践――同じ名で呼ばれる実践――に対する考えの違いとして滲み出るのだと。

つまり、「個別化・個性化教育」は緒川で成田先生が開発し、それが石西に「継承」された、と拙稿では(一応)論じましたが、この2つの実践は、本当は「個別化・個性化教育」という「同じ一つの実践」だとは言えないのかもしれない(私は本当はここでエスノグラフィ研究を行う教育社会学者に問いたい――ある学校と別の学校で行われている実践が「同じ実践である」と言えるための条件とは何か、と)。

ではこの2つ――緒川の「個別化・個性化教育」と石西のそれ――の違いとはどのようなもので、なぜそれが「教師の職能形成をめぐる姿勢の違い」につながる問題だといえるのでしょうか。

まず比喩で語っておきましょう。

成田先生が緒川で作ったのは「ガンダム」です。それを同僚の教師に「運転」させようとした。だがT先生は、自分はそれは目指さない、と言った。なぜなら教師は「ただの人間」であって「ニュータイプ」などではないからだ、と。本当に必要なのは「ニュータイプ」にしか十全に動かせないような「ガンダム」ではない。「ガンダム」をもとにして「ただの人間」でも動かせる良質の量産型「GM」をいかに生み出していくかこそが重要なのだ、と、そういう論点です。

...という比喩は自分でもなかなか言いえて妙ではないか、と悦に入り、石西の若い先生もいる酒の席で得意気に話したら、「先生、すみません、ガンダム、よくわかんないっす」と言われました撃沈...orz

緒川と石西という2つの小学校には、通っている児童の社会経済的背景に違いがあるのは事実です。それは教育社会学的な関心からはとても重要な違いです。しかし、私が強調したいのはそこではない。むしろ、上に比喩で語ったような差異です。

成田先生が作り上げた「個別化・個性化教育」のプログラムは驚嘆すべき「高性能試作機」でした。しかし、それは高性能ではあっても汎用性と生産性に乏しく、それどころか持続可能性にすら難がある。それが普及のボトルネックです。あるテクノロジーが「普及」するためには、汎用性を高める必要がある。それは「標準化」です。T先生は「個別化・個性化教育」という「高性能」実践を「標準化」しようとした。そうすることにより、どんな学校でも、どんな教師でも遂行可能な、量産型「個別化・個性化教育」を作り出そうとしている。

一方、成田先生からすれば、そんなものは「個別化・個性化教育」だなんて言える代物ではない(かもしれない)。「標準化」された「個別化・個性化」なんて...けれども、成田先生が言うところの真の「個別化・個性化教育」は、成田先生でないと持続不可能ななにものか、成田先生に身体化・属人化されてしまったなにものかになってしまう。それは結局のところ、成田先生自身が批判する「名物教師の名人芸」的な実践と同じく、成田先生の死とともに誰にも継承されることなく消滅してしまうなにものかではないか......

エントリを改めて、比喩ではない形で語ることにしましょう。

続きます。