「教育さん」論序説

「○○序説」というタイトルの論文や著書にろくなものはない(経験則)。

前エントリの最後では、「教育」を内在的に語ろうとするとき、人はみな「教育さん」になってしまう、それはなぜなのか、という形で「教育さん」問題を定式化した。

当然、「教育さん」とは何なのか、それをまず提示(定義)してくれ、と求める声もあるだろう。しかし、「教育さん」とは何なのかという問いに十全に答えることができるとき、すでに「教育さん」問題というのは解かれてしまっている、その問題が解かれる段階に至るまでは「教育さん」とは何かという「定義」を下すことはできない、そのようなものとして「教育さん」はある、このことは確認しておきたい。

「教育さん」とは誰か、それは「教育」を語るときに誰もが陥ってしまう、そのような存在である。

「教育」を語るとき、言う必要もないはずのある種の「過剰」を抱え込む、あるいは、「教育」を語るために援用する理論や概念を独特のアレげな感じに「翻訳」もしくは「変形」させてしまう、その感じ。そこに「教育さん」がいる。

一つの可能性としては、語り手の「資質」の問題に還元して理解してしまう、という手がある。「教育」を語る機会が多いのは、もちろん、「教育」にさまざまな形でかかわり、言及することを常とする人びと、すなわち、「教育」の実践者や研究者においてである。だから、彼ら/彼女らの「資質」の問題にしてしまえば話は早い。ああ、あいつらってそうだよね、アレだよね、という話である。

「教育さん」がネタとして俎上にあがるときにはたいてい半嗤いの揶揄や皮肉がつきものだし、そのことは当の「教育さん」にも引き取られてしまっていて、「教育さん」自身が「教育さん」の「教育さん」的なるものに言及する際には、非「教育さん」による揶揄のとき以上の濃度で「自虐」の気配が濃厚に漂ってしまうのである――もっとも、そんな揶揄や自虐とも縁のないところで生息している、それこそが真正の「教育さん」なのかもしれないが。

しかし、まともな社会学者であれば同意してくれると思うが、ある種の特性を帯びた語りが安定的に再生産される構造がある場合に、それを話者の「資質」の問題に還元してしまうというのは、ちょっと無理がある。

この手の理解の仕方にどのような客観的なエビデンスをもちだしうるだろうか。たとえば、教員養成大学の偏差値(爆)? あるいは日本の大学界における教育学部の数自体の多さ、ゆえの職業的「教育さん」の多さ、ゆえのトータルとしての「質の低さ」(というより分散の大きさ、かな)?

しかし、前者については東大の進振りとかを見るに(爆)、教育学部はむしろ相対的に人気で「底」の点が高かったりする(爆/そして最新の進振り事情など知る由もないが)し、大学入学時偏差値にしても教育学部より低いところを探すのもさして難しくない。他方、たしかに、「教師」というのは日本における職業集団としては最大の規模を誇るが、ふだん「教育さん」をシニカルに眺めている人が、ひとたび「教育」を語る羽目になった際に繰り出すトンデモ教育論/教育観――「教育さん」的なアレからは遠く離れて、むしろワイドショー的な、あるいはモンスターなんとかの類の理解&言いがかりに近い(たとえばツイッターなどはその検出器としての性能は高い)――のこれまた安定的な再生産構造を見せられるにつけ、やはり話者の「資質」の問題とするには無理がある。

だから、なぜ人はみな「教育」を語ろうとすると「教育さん」になってしまうのか、という問いの立て方をして、それを「教育」という領域あるいは対象のもつ特性ゆえにそうなのではないか、という仮説を追究していくほうが筋がいい。

では語りの対象としての「教育」の特性とはなんだろう。

それは制度として、また実践として、「すべての人」を相手にすることを義務づけられた、稀有な領域だから(というのが第一次近似としては妥当なの)ではないか、とある人は言った。それが、法や政治や経済や医療や福祉や、なんやかやの、他の社会制度とは異なる点であろう、と。

もちろん、ここには事の単純化が入り込んでいるわけで、どの領域・制度とも少なくとも潜在的には「すべての人」を相手にしなければならないし、現に相手にしている(たとえば法は「法の下の平等」に組み入れられた人すべてを対象に存在している)。

だが、実践の次元のみに焦点化していうと、他の領域は「その必要が当該人に浮上したときにのみ制度/仕組みの対象者として取り扱う」という原則で理解してさしたる問題はでないのだが、こと教育に関しては、そうはいかないという面が強い――言うまでもなく「義務教育」=国民皆学の原則のなせるわざだが、そこから発展して今日では、「国民」の枠内にすっきり入りきらない対象者であっても保障されるべき普遍的な人権として「学習権」が措定された結果(児童の権利条約など)、原則として、この地球上に生を享けた存在は、すべて「教育」の対象となることができるし、また、ならなければならない。

「すべての人」を相手にすることを義務づけられた領域でありながら、同時に、実際に制度が機能するためには対象者を「すべての人」から随時ふるい落としていくという原理があらかじめ埋め込まれている/いなければならない領域であるために、その実践と制度理念を語る語りには「教育さん」的なるものが張り付かざるを得なくなる【1】...のか?

しかし、よくわからない。

「教育さん」は「よい教育」をしたら「よい結果になる」という前提で実践にあたることが多いし、そのように理解したがる人が多い(そりゃそうだ)。したがって、「教育さん」の最大関心事はつねに「教育効果」にあると言ってしまっていいかもしれない。しかも、結果は出ているはずだ、という前提で。さらに(悪いことに)は、その分だけ、だから「こういうよい教育をしなさい」という提言をしたがる傾向が強くなる。

だが、実際にはなかなかそうはなってない。

「教育社会学教育心理学のような実証的な教育科学は,厳密な手続きで明らかにできている部分は、実はそれほど多くない。複雑な連関構造をなしている現実の、ごく一部分を、限定された枠組みで切り取って検証した知にすぎない」(広田照幸,2009『ヒューマニティーズ 教育学』岩波書店,114頁)。

「よい教育」を実践しても、その要因独自の効果が安定した頑健なものとして取り出されることは、今のところ、めったに、ほとんど、ない。「よい教育」の実践、という独立変数の測定に忍び込んでる誤差がべらぼうに大きい、ということが最大の問題だろうと推測しているが、とにかくそうなのだ(まったくの余談だが、私はこの「教育実践の効果が頑健には取り出せない問題」を、低線量被爆の健康への影響を取り扱う疫学における問題のアナロジーで理解している。ただし正しいかどうかは定かでない、から保証しない)。

測定された効果の脆弱性を前にして「そのまま沈黙する」という選択以外の語りを行おうとするとき、あらゆる「教育さん」性が召喚されることになる【2】・・・のか?

エビデンス「にも関わらず」語るか、エビデンス「に関わりなく」語るか。あるいは、「実践的教育学の規範創出力が著しく減殺された状態」である現在にあっては、エビデンスへの妥当な評価にもとづいたものではあっても、「現実に対して何かを提言しようとすると,実践的教育学から規範を借りてきたり,実践的教育学が作ってきた推測を補助的な仮説として使ったりすることを,どうしても避けられない」ために、「結局のところ,そうした教育科学は,外部から単純な価値尺度をもちこむか(たとえば「平等が重要」とか),自前の実践理論(自分の体験に根ざしたあやしい教育論)をあてにするかしかなくなってしまう」(広田前掲、114‐115頁)という、別様の「教育さん」性を招きよせるか。

しかし、よくわからない。

もっと端的に、「教育」という領域の特性は、「人間であって人間でないもの/人間になりきれてないにもかかわらず人間とみなさねばならぬもの」を――しかも「すべての」それを――相手にすることを義務づけられたところにあるのではないか、そこにこそ「教育さん」性の淵源がある【3】・・・のか?

あ、↑〈子ども〉のことですね。

近代以降の――という枕はやはりつけておいたほうがよいのだろう――われわれの社会では、すべての社会制度、したがってすべての社会思想・社会科学は、自由で自律的な個人を主体として想定するところに成立している。それがわれわれの社会の〈合理性〉を担保しているというわけだ。

しかし、〈子ども〉とは、そのような意味での「自由で自律的な個人=主体」とはみなせない、みなせないが、しかし、「個人」とみないわけにもいかない、そのような存在として「教育」制度はこれを受け入れ、それどころかこれを「自由で自律的な個人=主体」に仕立て上げたうえで他の社会制度へと受け渡す、そのような機能を期待されて存立している。

したがって、〈子ども〉という未熟な主体を相手にし、それにかかわり、そのようなかかわりを言語化する営みはすべて、この社会では、そもそもイレギュラーな営み――たとえば「代弁」――にならざるをえない。

思えば、かつてもそんなことを述べていた。

それにしても思うのだけれど,もしも人が生まれながらにすでに「大人」であったら(つまり人間にとって「大人になるプロセス」というものが不要であったら)この世の社会思想や社会設計はどんなにかシンプルかつロジカルであったろう.どんな“ラディカル”な構想も“ロジカル”でさえあれば,“うまくいく”世界がもたらされていたに違いない.ほとんどなんの留保もなく,合理的社会思想と合理的社会設計だけでいけたはずである.


でも実際には人は最初,「子ども」として生まれてくる.圧倒的に未熟な「人未満」として生まれてくる.だから,「社会の再生産」というノイズが社会構想や社会設計にはつきまとうことになる.


したがって,合理的社会思想や合理的社会設計にとっては,“人未満で生まれた動物が人になっていくプロセスというものが不可欠である”という要素――人間に不可欠の前提――はアキレス腱なのだ.

そして、なんとも象徴的なことに、この引用部分の直後には私の「教育さん」性が炙り出される一文がきている(いちいち検索せんでよろしい)。

このような理解で間違ってないのなら、教育思想が社会思想に対して、教育学が社会科学に対してとりうる位置取りは、つねに「傍流」ということにもなろう。「傍流」だからこそ、教育思想や教育学には、既存の社会思想や社会科学に対する問題提起のポテンシャルを手にする契機も用意される、という強弁もできなくもなくもないと言えるのではないかということもないではないが(くどい)、しかし、他の社会科学や社会思想の概念やアイデアを「適用」して「教育」を語ろうとするとき、その語りはどうしようもなく不可避の「残余」かあるいは「過剰」――それらは同じコインの表と裏であろうが――を抱え込み、もしくは無理な「変形」をきたす羽目に陥る、ということから逃れられない。

ほんとかおい。

『統治二論』とともに『教育に関する考察』が、『社会契約論』とともに『エミール』が書かれてあることは、もう少しまじめに考えてもよいことなのかもしれぬ(←あ、私が、ってことです)。

ああ、最初に言うておくのを忘れてた。こんなに長くつきあってもらって最後にこういうことを言うのは気がひけるのだが、今日のこのエントリは、これはすべてネタである。

ってか、「教育さん」ってなによ。なんの話よ。